篠田の末裔
空が砕けた。
霊力の粒子になって五星を覆う最大の結界が砕け散る。青い空にヒビが入って粉々に割れていく様は、美しく終わりを告げていた。
「五星は終わりね」
黒髪の綺麗な少女は青波学園が俯瞰できるビルの上で冷徹な微笑みを浮かべる。この日をどれだけ待ち望んだか。
この醜悪な仮初めの檻を。
壊されるためだけに造られた偽りの結界を。
この手で破壊する日を。
人間は歪だ。何よりも弱いクセに、何かを守ろうとする。矛盾ばかりでできている。本来なら既に滅んでいてもおかしくないのに、こうしてずるずると往生際悪く生きている。
吐き気がする。
木葉は柔らかく宙を舞った紅い蝶をグシャリと潰す。術が解け、炎は冷たい風に溶ける。
すぐに握り潰した蝶から興味を失くして、木葉は青波学園に意識を引き戻した。
校舎があった場所は瓦礫に埋もれ、炎は黒煙を吐き出しながら燻っている。この様子なら、鎮火されるのも時間の問題だ。
この程度でくたばる霊能力者たちではない。初めから、彼らの殺害は目的ではないから、何人死のうが構わない。この程度で生き残れないような軟弱者は、五星が砕けた世界では生きられないのだから。
あとは彼が霊脈を破壊する大規模術式を放つだけ。
早くそこから逃げないと死ぬわよ、と忠告してあげたい気もするけれど、幸か不幸かここから声は届かない。今、木葉にできることは崩壊を見届けることだけだ。
くぐもった金属音が微かに響く。ここに続く階段を誰かが登る音だった。常人なら捉えきれないほどの小さな音を、木葉の聴覚は容易く捉える。
かん、と最後の段を蹴る音がした。それで音は途切れて、代わりに人の気配が屋上に一つ。
「いけない生徒だね、下田さん」
長身の男はニコリとわらって開口一番にそう言った。くるりと木葉は振り返る。
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ、先生」
「あはは、困りますねー、それを言われると。確かに僕、抜け出して来ちゃいましたからねー」
能天気に1年A組担任の佐藤和宏、もとい、火影照喜は頭をかいた。
「それで、私に何の用かしら?」
とぼけて木葉は尋ねてみる。そんなこと、ここにこのタイミングで現れた時点で分かり切っているものを。
照喜の目がゾッとする程冷ややかに細められた。質問に質問で返す。
「君がそれを言う?」
ふふふっ、と木葉は肩を震わせる。冷たい微笑みが美しい顔を彩り、2人の間の空気を凍らせる。
「遅かったわね。もう手遅れよ。もう崩壊は止まらない」
照喜は遥か眼下に見える青波学園に視線をチラリとやった。
「そう、みたいだね。どうやったの? 防御障壁を突破したみたいだけど、青波学園は丈夫だよ?」
「簡単よ。霊力を使えば、桜の術式に阻まれる。だから、爆弾を使ったわ。仕掛けるのも簡単だったわ。あなたたちは、霊力ばかりを注視しすぎている」
ぴらぴらと降参の意を込めてか、照喜は手を振る。
「流石。お見それしたよ。確かに物理障壁は天宮桜様が仕掛けられたものじゃない。なら、解除するのも何とかなる。結界の起点である学校のカタチそのものを破壊すれば、五星は壊れるからね」
一旦言葉を切った照喜の瞳に鋭利な光が浮かぶ。木葉は微笑みを湛えたまま、続きを待った。
「でも、結界の基礎は生きてるよ。これなら結界の復元もできる」
「馬鹿ね。そんなこと、させる訳がないじゃない。だから、霊脈ごと吹き飛ばすのよ」
「っ!?」
予想を超える発言に照喜は呼吸を忘れる。今、木葉が言ったことはつまり、青波学園の敷地そのものを大規模術式で吹き飛ばすということだ。学園にいる全ての人間を巻き込んで。
「そんなことは、させないよ」
照喜の周囲に橙赤色の霊力の粒子が舞い始める。木葉の黒の瞳は冷ややかに、敵意を見せる照喜を眺めるのみだ。
「残念だったわね。既にこれは私の手から離れたわ。手遅れ、というのはそういうことよ。でも、ここまで来たことは褒めてあげる」
動きを止めた照喜に木葉は気配もなく距離を詰める。少女の白い指はスッと伸ばされ、身動きしない照喜の頰を撫でた。普段、笑みを浮かべている照喜の顔は無表情で、瞳は空っぽのまま凪いでいた。
「ねぇ、どうやってここまで辿り着いたのかしら?」
「蝶を放っただけさ。初めから君を警戒してはいたからね、ここ最近の行動を観察させてもらったよ。そして、今日、ここで君は蝶をワザと潰した」
それで? 、と微笑みながら木葉は照喜の頰から手を離し、今度は照喜の顔を覗き込む。
「だから、その情報を追ってここまで来た。……これで良いかな?」
「ええ、上出来よ。ノーヒントで私まで辿り着いた。それだけで素晴らしいわ。あなたが火影を継いでいれば、本家も面白かったかもしれないのに……」
満足げに頷いた木葉の艶やかな黒髪が揺れる。
「僕は火影は継ぎたくなかった、ただそれだけだよ」
「ええ、そうね。あなたは守りたかったものがあった。もう、無いけれど」
動揺が照喜の無表情を揺らす。今までにないほど冷たい光がその瞳の奥に宿る。
「やめろ」
押し殺した怒りの声が発せられた。
「それなら、やめておこうかしら」
怖い怖い、と照喜よりもずっと恐ろしい少女はピラピラと手を振って、これ以上触れる意思は無いと示す。
「さて、今の私は機嫌が良いわ。ノーヒントで私まで辿り着いたご褒美に、好きな情報をあげる。好きに質問して」
天使のような笑顔を見せた木葉は、両手を広げた。値踏みする視線で一度彼女を見た後、照喜は問いを発した。
「天宮楓は何者なの?」
予想済みとでもいうように木葉の唇がニヤリと動く。悲哀を込めた瞳で彼女は答えを紡いだ。
「あの子は御当主様が仰っていたように、『神』の器よ。代々天宮の姫が継いできた『神』を顕現させるための器。そして、陣内の血を引く半妖。あらゆる因果が天宮桜を起点にして、天宮楓に絡まっているわ。だから、因果の数だけあの子には力があるの。哀しいほどに、ね」
「陣内……!?」
天宮楓に強い力があるということよりも、照喜には陣内という名の方が衝撃だった。
「へぇ……、その名を知っているの。よく調べているのね。素晴らしいわ」
「……あと一つ、質問をさせてくれるかな?」
木葉の平たい賛辞を無視して照喜はさらに問う。木葉は気前良くコクリと一つ頷いてみせた。今一番知りたいのは……。
「下田木葉、君は一体何者だ? 天宮家は君の真の主ではないんだよね?」
意外感を隠さずに木葉は目を大きくする。
「あら、天宮家の目的ではなくてそれを聞くの。……いいわ、答えてあげる。これで最後のご褒美よ」
黒髪の少女の唇が弧を描く。
「今ではもう何の意味も持たない名だけれど……、私の本当の名前を教えてあげるわ。私の名前は、篠田 イロハ。篠田の最後の1人よ」
「しのだ……」
茫然と照喜はその名を繰り返す。かつて妖を支配していた一族にして、陣内によって滅ぼされた一族だ。
「篠田は滅んだはずだ」
「ええ、私を残して全て陣内に殺されたわ。まだ信じていないようね」
「そんな話を信じられるわけがないよ」
冷え冷えとした空気が2人の間に流れること、一瞬。木葉は思わぬ発言をした。
「なら、見せてあげるわ。真体は流石に目立ちすぎるから、耳と尾だけで許してくれるかしら?」
「――」
照喜が何か言うよりも先に木葉の姿が変化する。
日本人形のように整った黒髪に白い狐の耳が、彼女のシルエットには九つの白い尾が加わる。つり目気味の瞳は真体に引きずられていたからそのような造形になったのだろうか。整いきった完璧な身体も全て、変化であれば説明がつく。この浮世離れした天使のように綺麗な少女は、ヒトではなかったのだ。
「……篠田の、九尾」
「これで分かった? これが私よ」
瞬きをすると、木葉の姿は既に元通りの人間の姿だった。驚きで思考停止に陥っていた脳を無理矢理稼働させ、口を動かす。
「どうして五星を壊す? どうして人間を敵に回す? 君の敵は陣内のはずだ」
「馬鹿ね」
2度目の嘲りの言葉を美しい少女は吐き出した。
「陣内なんてどうでもいいからよ。私は私の主の望みを叶えるためだけにここにいる。その為なら、何を捨てたっていい、何を敵に回したっていい」
恐ろしいほどの忠誠心が彼女の言葉にはある。それとも、主への盲信か。
ただ照喜は戦慄する。彼女は、自分には計れない。
天宮家は既に木葉の正体を知っている。こうして木葉が照喜に正体を明かしたことがその証拠だ。天宮家は全てを知りながら、下田木葉を泳がせている。ふと、泳がされているのはどちらだろう、とまで思う。
「そろそろ私は行くわ。さようなら、火影照喜」
黒髪が凍える風をはらんで広がった。立ち尽くす照喜の横を少女が通り過ぎる。
「待っ――」
言いかけた静止の言葉は届かない。少女の姿はもうどこにも無かった。カランカランと落ちていた空き缶が空虚な音を立てて転がっていく。
「化かされたのは僕の方かなー」
髪の毛をグシャッとかいた。冷気に肩を震わせる。
冷えた空は曇天で、今にも雪が降り出しそうな顔をしていた。
「……無事でいて」
願う。
生徒たちをこんな所で失いたくない。失うのは、もう沢山だ。




