冷たい雨
不意の電話に相川みのるは驚いた。それは今まで自分に電話をかけたことのない光希からの、急な電話だった。
「どうしたの? 光希が私に電話するなんて珍しいね」
光希がむすっとする気配がする。
『……別に、親父と電話したくてかけたわけじゃない。調べてほしいことがあったからだ』
ふうん、と嬉しさを隠さずにみのるは答える。
「それで、光希が知りたいことは何かな? 私で答えられることなら答えるけど」
『……天宮が襲われた』
みのるの顔にあった笑みが凍った。それを勘付かせないよう、普段通りの声を心掛けて尋ねる。
「何があった?」
『天宮に言わせると、妖怪みたいなモノに襲われたらしい。ただ、その時に毒にやられたみたいで今は病院で寝ている』
苦々しい自責がその言葉には籠もっていた。思わず口にしかけた厳しい言葉を引っ込めて、みのるはさらに情報を求める。
「どんな風に襲われたか、詳しく教えて」
『分かった。五星外で魔獣との実戦訓練をしていた時、天宮の姿が突然消えたんだ。天宮は、霞浦の幻術のように別の層に呼び込まれたんじゃないかと言っている』
別の層、襲った者が本当に妖族なら、十分にあり得る話だ。
『そこで、百足女と美少女な鬼に会った、らしい……』
光希の言葉の選び方ではないな、と思い、思わず口を緩める。この適当な説明は楓本人のものだ。
「それで、何を言われたか、とか何か、言ってた?」
電話の向こうで迷っているような間が空き、みのるは静かに答えを待つ。
『天宮が半妖だ、とか、陣内だ、とか、天宮の混ざりものだ、とか言われたらしい』
霊能力者たちの世界では絶対に耳にすることのない言葉に、みのるは目を見開く。
まさか、陣内とは……。
もし仮にみのるの考えていることが当たっているなら。
冷たい感覚が背中を滑り降りていく。
光希には伝えなければならない。
電話越しではダメだ。相川みのるは天宮家に監視されている。電話を盗聴するくらいなど、天宮には造作もない。
陣内、という言葉は以ての他だ。禁句、と言っても良い。そもそも、ほとんどの霊能力者たちにはヒトではない種への情報は遮断、いや、統制されている。
『……どうした?』
みのるの沈黙を不審に思ったようで、光希は怪訝な声を出す。
「光希、明日会える? 午後3時半、旧渋谷駅の改札で会おう」
『え? 一体、どうして突然?』
戸惑いを無視し、語調を強める。
「その時間に、その場所でしか、会う機会がないんだ。絶対に行くから、一人で来て」
『あ、ああ、分かった。行けばいいんだろ』
「うん、ありがとう」
そう言って、みのるはブチリと電話を切った。
早朝のヒヤリとした空気に目を細める。いつものように、五星結界の外。中にはもう2週間近く戻っていないだろうか。
天宮の様子を見ると、この数日の間におそらく更に遠くに行かなければいけなくなる。もっと先へ、ヒトのいない地域でひっそりと敵の様子を探る任務を与えられるのだ。
『姫』が明るみに出た以上、敵はもはや五星内部ではなく五星の外の異形になった。みのるはいずれ訪れる(穏やかではない)出会いと、そこから長きに渡る戦いの斥候だった。
人の気配もない平原の木の下から、みのるは立ち上がる。
ここから霊力フル回転で走って、明日やっと五星に着くだろう。
今時徒歩で長距離移動かー、と苦笑いをする。車に乗って偵察と情報収集をやるのも、ヒトよりもずっと感覚が鋭敏な種に対して無理な話だ。
たった一人で旅をするのは気楽だが、少し退屈だった。
世界が壊れてから、桜のように世界を渡る力が無くとも人ではない種が生きる世界を歩けるようになった。
しかし、同時にそれは争いを生む。
この世界は、いや、この世界のモノは争わずしては生きられない。誰も間違えてなどいないのだと思う。だが、生きるために違う種を殺す。
そのために天宮家は、天宮楓を使うことを選んだ。ただそれだけ。
そして……、相川光希は天宮楓が使えない時、奪われた時、そういう時に使う予備として造られた。
相川の最高傑作として、天宮楓に匹敵する力を持つ兵器として。
みのるは頭を振った。今は考えるのをやめよう。
「食糧調達って言ったら、御当主様は許してくれるかなー」
呑気にそう呟き、みのるは霊力を身体に巡らせる。
早朝の平原を走り出した。
***
光希は制服のまま、街を歩いていた。みのるに指定された時間まで後30分。ここから駅まで10分ほどだから、だいぶ余裕を持って着けるはずだ。
旧渋谷駅に着くと、学校が終わったばかりで学生たちが溢れていた。改札は2つしかないし、何せみのるは目立つのですぐに見つけられる。楽観的に構えて、ウロウロと駅を歩き始めたところ、女子高生たちがやけに騒いでいる場所を見つけた。
「イケメンがいる……」
「え、うそ、どこ!?」
「写真撮ってもいいかな……」
等々、年頃の少女たちの黄色い声などなど。それだけでみのるがいるとすぐに分かる。呆れて溜息を吐きつつ、光希は真っ直ぐ声の方へ向かった。
「光希〜!」
にこやかに手を振ってくるみのるにガクッと脱力しそうになるが、我慢だ。あえてニコリと笑って手を振り返す。すると、みのるに向いていた視線がザッと光希に移動し、突き刺さる。引きつりそうになる笑顔を必死で維持し、光希はみのるに近づいた。
「早かったな」
「うん、頑張ってみたよ。すごく、遠くに出てたから」
「……そうか」
みのるの言う遠くがどこなのかは分からない。だが、天宮に押し付けられた任務なのだとは理解できた。
「じゃあ、行こうか」
光希は静かに頷いた。
キャアキャア言う女子高生たちから逃れ、光希とみのるはとりあえず駅を出る。光希にはみのるの狙いが不明なため、ついて行くのみだ。
「それで、話って?」
光希は尋ねる。みのるは光希の顔を見ずに答えとも言えない答えを返す。
「他の人に聞かれたら困るから、場所変え中だよ」
それと目立たない場所を探したいしね、と疲労感のある表情でそう言った。白樹啓一の趣味かどうかは不明だが、相川の造形は割と完璧に近い。兎にも角にも人目を引きやすいのだ。
「公園にしようか」
みのるが足を止める。釣られて、公園の中を見た。平日の3時頃、緑地公園に大人の姿は少なくチラホラと子供たちの姿が見えるくらいだ。目立つことなく平和に話をするにはもってこいの場所だった。
「うーん、この辺でいいかなー」
ベンチに唐突に座ったみのるは、眩しい笑顔で隣を光希に勧めてくる。密着するのはもちろん御免だから、光希はそっと30センチほど開けて座った。少し残念そうな顔は見なかったことにした。
「念には念を、ということで三重に結界を張るから」
すぐに結界の術式が展開され、宣言通りの三重結界が構築される。余剰霊力もない完璧な術式行使に、光希は感動を覚えた。……悔しいからみのるには見せないが。
「楓、涼、夏美は元気?」
久しぶりに夏美の名前を他の人間から聞いた。光希はそっと首を横に振る。
「……夏美はもういない」
ハッとみのるが目を見開いた。長く会っていなかったせいで、まだ感覚は前のままだったのだろう。
「夏美はどこに行ったの? 天宮家は夏美が死んだと言っていたけど、真実ではないよね?」
流石は長く天宮家の下で働いてきただけある。天宮の嘘はお見通しのようだ。
「ああ、俺もその場に居合わせたわけじゃない。天宮たちが言っていたのは、夏美は魔族だったことと、まだ生きていることだ」
「魔族……。それは天宮が隠す訳だ。でも、少し安心したよ、夏美が生きていると分かって」
安心、そんな簡単な言葉で片付けられることでは決してない。再び巡り合うとすれば、戦場で敵として。
でも、みのるはそれを知って今の台詞を口にした。光希はやはり、察しの良すぎるみのるが苦手だ。
「聞かれないようにするためっていうのは、陣内って言葉がマズいからか?」
長居は無用だから、サッサと本題に入れと急かす。みのるは微笑んで、光希の意を汲んだように頷いた。
「うん、そう。五星の外に関する情報は出回ってないだろう? 天宮家が全部掌握してるんだよ」
「……恐ろしい家だな」
素直な感想がポロッと漏れた。みのるは再び頷く。
「天宮家がやろうとしていることは、人間以外の種族を殺し尽くすことなんだ。恒久的な平和を手に入れるために。そのためなら、どんな手段も厭わない。そして、天宮の『姫』にはその過ぎた願いを叶える力がある」
「だから、天宮家はあんなに天宮を……」
天宮家にとって、欠くことのできない要。
「『姫』は元々、そういう者なんだ。多くは身に余る力に若くして自らを崩壊させる。その宿命は、天宮桜様でさえ、逃れることができなかった」
感情が薄れた声が静寂を揺らした。葉を落とし終えた木が冷たい風に軋んだ音を上げる。
「……天宮は。天宮も、そうなるのか?」
怖かった。心が痛い。その問いを発するのが、その答えを聞いてしまうのが、怖い。
天宮楓もいつか、壊れてしまうのだろうか。
「おそらく、ね」
長い長い沈黙の末、みのるは短く答えを口にした。
「天宮の『姫』の平均寿命は、20年。長くても、30までは生きられない」
それを聞いた時自分がどんな顔をしていたのか、光希には分からない。暗闇で冷水に突き落とされるような感覚に少しずつ息ができなくなっていく。
頭にぽんっと手が載せられた。
錯覚から解放される。みのるは呼吸を再開した光希の方を見ずに、無言で手を伸ばしていた。
「……陣内、と楓は言っていたんだよね」
みのるを見ずに顎を引く。
「今の世界には、三つの種族が存在する。私たち人間と、妖族、魔族と呼ばれるものだ。魔獣や霊獣はその二つになり損ねた化け物なんだ」
そこまでは知っている。霊能力者なら全員知らされる今の世界の状態だ。だが、その先は――。
「どの種族も血筋が力を決めることが多い。私たちなら、最高位に天宮家が位置するように。その中の妖族では、氏が家名に相当する」
みのるはそこで言葉を切り、ゆっくりととある氏を声に出した。
「陣内、それが妖族を統べている血筋の名だよ」
「っ!?」
「だからね、もし楓の会った妖族の言ったことが正しければ、楓は彼らにとって喉から手が出るほど欲しい存在なんだ」
「つまり、天宮は狙われている、と?」
「そう、その前触れが先の出来事なんだと私は思う」
ポツリ、と空から水滴が落ちてきた。光希は曇った空を見上げる。ポツリ、と光希の鼻で水が弾けた。
「そろそろ、光希も帰った方がいいね。今日、話したことは楓に話してもいい。光希が決めていいよ」
ベンチから立ち上がる。みのるも遅れて立ち上がり、ニコリと哀しげな笑みを浮かべた。胡散臭いヘラヘラ笑いを浮かべてばかりのみのるがそんな顔をするのは、とても珍しいことだった。
「さ、早く帰りなさい。風邪ひかないようにね」
「……分かった」
ぶっきらぼうに光希は答えて、降り出した雨の中に飛び込んだ。
残されたみのるはしばらくその場で雨に打たれる。冷たい11月末の雨が、服に染み込んでいく。
少し寒い。
雨に冷たさを感じたのは久しぶりだった。
次に空から降るとしたら、雪だろうか。
光希にはどうしても言えなかったことがある。
もしも、天宮楓が陣内に奪われたならば――。
天宮楓と相川光希が殺し合う未来さえもあり得る、と。




