始まり
「ち、遅刻だ……」
天宮楓は真っ青になった。
今日は高校の入学式だ。入学式開始の時間は9時なのだが、楓の腕時計が示す時間は9時40分。完全なる遅刻だった。
桜が満開の並木道を悠長に歩いているわけにはいかない。楓は学校の門をくぐって走り出す。
楓の一つに結わえた黒髪が跳ねる。長い綺麗な髪が風を孕んで広がった。
その光景だけを見れば青春の1ページとしてアルバムにでも載せたいくらいだが、楓の思考にはそんな事を考えている余裕はない。
入学式の日に遅刻という非常に不名誉な事をどうやって誤魔化すか、それが課題だ。
楓はずり落ちた赤い縁の眼鏡を押し上げると、顔を顰める。
「どうしよう……」
これからこの学校で起きる事を思うと、遅刻の事もそうだが、とても憂鬱だ。
ーー15年前。
丁度楓が生まれた年の事だ。
その年に、世界は『崩壊』した。
詳細は何もわかっていない。わかるのは、世界の法則が捻じ曲げられ、人ならざるモノ達が現れたという事だった。彼等は人よりも遥かに大きな力を持ち、人間と敵対した。
人ならざるモノは二つに分類され、魔術に近く悪魔と呼ばれる種族をまとめて魔族と呼び、霊能力に近く妖怪と呼ばれる種族を妖族と呼ばれている。
そして、彼等には通常兵器は通用しなかった。
違った法則で動く彼等を倒すのもまた、科学ではない法則。
それは古くから歴史の陰で継承されてきた、霊能力と魔術という力だった。主に霊能力は東洋で、魔術は西洋で発達し、同じ力を扱うものの、その術式などには大きな差異がある。
だが、それらは人ならざるモノ達が蔓延る世界で、唯一人間に与えられた対抗手段であった。その為、『崩壊』後の世の中で権力を握ったのは霊能力者達と魔術師だった。
『崩壊』で生き残った国家は霊能力と魔術が発達していた国のみ。それらの国はその力を秘匿するのをやめて、力を持つ者達を育成する事を始めた。
日本では、その教育機関として五つの学校が設立された。
青波学園、紅月学園、燈黄学園、緑風学院、そして紫陽花学院。
五つの色を冠した学校は、五星学園と総称されている。それは、五つの学園が五芒星を形作るように配置され、その内部に五星結界を構築しているからである。その結界は人ならざるモノ達の侵入を防ぎ、中の人間を守っている。
天宮楓が入学するのは、五星学園の最高峰の実力を誇る青波学園だ。
五星学園は青波学園を除き中高一貫学校になっている。その為、この学校に来るのは各四学園の優秀な生徒だけなのだ。
……そして、それが楓にとって一番の問題だった。
世界『崩壊』後のシステムは今までの世界には無かった明確な人間の格差を生んだ。
力なき者は冷遇され、見下される世界。
無能力者と霊能力者、その違いは圧倒的なものだった。その隔たりは越えられない。
……天宮楓は無能力者だ。
霊力を持たないただの人だ。
楓にはどうして自分がこの学校に入れられたのか、理由がさっぱりわからない。楓は『無能』で、ここに入っても意味などない。
そんな楓が青波学園に通うだけで、一体どれだけの人間の恨み妬みを買ってしまうのか。
考えるだけで怖かった。
楓は頭をぶんぶん振って、嫌な思考を振り切る。
そして、再び入学式に遅刻している事を思い出す。楓は顔を青ざめさせた。
こんな所でぼーっとしている場合ではない!
楓は慌てて、道を走る。
道には入学式中であるには多すぎる人がゆっくりと歩いている。だが、既にパニック状態の楓はその事に気づかない。おまけに人の流れを全力で逆走している事にも。
どんっ!
衝撃と共に楓の身体は浮遊感に包まれる。
「へ?」
楓はキョトンとした表情を浮かべた。それから身体は自然法則に従って、落下を始める。
楓は来たるべき衝撃を覚悟して目を瞑る。
だが、どれだけ待っても衝撃は襲ってこなかった。恐る恐る目を開けると、目の前で顔を顰めて頭を押さえる男子生徒の姿があった。
要するに、衝撃が無かったのは、少年が楓の下敷きになっていたからだったのである。
楓は自分が少年を押し倒しているという状況を認識し、思考を止める。正しい言葉を紡ぎ出せなくなって、楓は口をパクパクさせた。
少年が頭を動かす。その弾みで綺麗な髪がさらりと揺れた。
「……!」
楓は息を呑む。
整った顔立ちに、吸い込まれそうな切れ長の黒い瞳。美少年とは正にこういう人間を指すに違いない。楓はしばらく時間が止まったように少年を見つめていた。
顔を引きつらせた少年は、自分を押し倒した少女の顔を見ようと顔を上げた。
「……」
二人の視線が交錯した。時間が止まる。
そして沈黙を破ったのは少年の声だった。
「……俺から降りてくれないか?」
止まっていた楓の思考が動き出す。楓は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。
「えっと、え、あ、その……、ごめん!」
そろそろ周りの視線が痛くなってきた頃だ。楓は自分を刺すような視線(主に女子から)を感じつつ、楓は急いで立ち上がった。
少年もすぐに立ち上がると、楓に背を向けて歩き出してしまった。その姿を追って、楓は目を彷徨わせる。新品の制服を着ていた事を見れば、楓と同じ学年の生徒のようだった。
人混みに紛れてしまった少年を見失い、横を見た楓の目にちょうど入ったのは学校の時計だ。時計は8時45分を指し示していた。楓は自分の腕時計を見て、その針が未だに9時40分を指していることに気づく。
楓は微かな落胆を感じた。しかし、小さく一息つくと制服に付いた土を払って、ゆっくりと歩き出した。
落ち着きを取り戻した楓は今度は人の流れに逆らわずに入学式会場へ向かう。少しだけ、ぶつかった少年に会えることを期待して。
薄桃色の花弁がひらひらと目の前を過ぎる。満開の桜は暖かい春の陽射しの中で揺れていた。
不意に後ろから賑やかな笑い声が聞こえてきた。一人で歩く楓の側を、楓と同じ新しい制服を纏った少女達が通り過ぎる。
少し、羨ましい。
楓の知り合いはこの学校にはいない。これから友達ができるのかも定かではないから、さっき通った少女達が眩しく見えた。
目で追っていた少女達が突然道の脇に逸れた。何かの掲示板だろうか。見れば、沢山の生徒達がそれに群がっている。
気になった楓はフラフラと掲示板に近づいていく。
「……クラス、名簿?」
そこに張り出されていたのはクラス分けの名簿だった。確かにクラスは学校の資料に載っていなかったな、と思って、楓は自分の名前を探し始める。
ーー1年A組2番、天宮楓。
楓の名前はかなり呆気なく見つかった。
クラスは一学年五つ。各学年は大体150人程だ。つまり、一クラス大体30人。しかし、実際はE組が少しだけ人数が少なかった。
一体その差はどこにあるのだろうか、と一瞬考えたが、わからないのですぐにやめる。
わからない事は無数にあるのだった。
楓はあまり長く掲示板の前立ち止まる事はせずに、再び入学式会場へと足を向けた。
制服のスカートが目の前で翻った。その人に気づかれないようにチラリとその方を見る。
「あっ……」
楓は思わず声を上げた。慌てて声を抑えたが、少女には聞こえていなかったようだ。その事にホッとして、その後ろ姿を眺める。
この位置からは顔がよく見えないが、その少女がとても美しいという事はよくわかる。楓が今まで見たことのある人とは一線を画する雰囲気をその少女は纏っていた。
少女は艶やかで真っ直ぐな、腰の辺りまである黒髪をかき揚げる。そして、その少女は何かを見つけたと言うように、歩みを早めた。
楓はその何かを探そうと、目を凝らす。すると、意外な人が目に映った。
さっきの少年が一人で歩いている。美しい少女はその少年の隣に並び、微笑んだ。
二人は知り合いのようだ。
少し微妙な気持ちが胸を過ぎる。
やっぱり、知り合いがいないのは楓だけのようだった。