紅い瞳の少女
春日井舞奈に連れられて楓たちが辿り着いたのは、都市中枢部のホテルだった。
ひっきりなしに人が訪れるはずの高級ホテルに付き纏う違和感は、人の気配がないことから生まれるものだろう。
代わりにこの辺りを包むのは、ピリピリとした張り詰めた空気。
「人払いの結界が張られてるね……」
涼がポツリと呟き、楓はやっと原因を知った。
「舞奈!」
楓は声のした方を見る。舞奈は一目散に男に走り寄る。黒い服に身を包んだ男が春日井家の当主のようだった。春日井家当主は舞奈の後ろに立っていた楓たちを視界に入れると、柔和な笑みを浮かべてみせる。
「御当主様の友人の方々ですね?」
「はい。夏美は……?」
急くように楓は思わず問いかけた。こうしている間にも夏美はどこかに行ってしまうかもしれない。
会えずにそのまま居なくなってしまうのは、嫌だ。もしも、それが最後だったとしても。
「ホテルの一室で休んでいたようです。まだ気配があるので、今から向かいます。今ならまだ、天宮家の意向を変えることができるかもしれない」
春日井家当主は高いホテルの先を見た。その台詞からは夏美を助けようとする意思を感じる。
「……お父さん。早く行こう」
舞奈の声に頷き、春日井家当主は楓たちの方を向く。その目は本当に行くのか、と問うているようだった。
「行きます」
涼が真っ直ぐその視線に応える。覚悟は通じた。後は、夏美に辿り着くだけ。
春日井家当主はそのままホテルに向かい、中に待機していた家の人間と合流、楓たち共に上を目指す。
「夏美は動かないんですか?」
夕姫が音を殺して走りながら、春日井家当主に尋ねた。
「気配の方は遮断している様子はありません。我々の方に索敵に長けた者がいますので、常時見張らせています。ですが……」
声が途切れる。
「……まるで私たちを誘っているように見えなくもない。仮に御当主様が裏切ったのだとしても、この行動はいささか理解に困ります」
いささか、と言ってはいるが、きっと不可解なのだろう。彼らも楓たちと同じで、なぜ夏美が天宮に始末されなければならないのか理解していない。
滑らかな紅い絨毯が敷き詰められた階段を抜け、やがて夏美がいる階へと辿り着く。
白い髪の少女に出会ったのは、40階だった。
「……なつみ?」
その後ろ姿はよく見知ったもの。だが、少女が纏う空気も髪の色も楓たちが知らないものだ。
少女はゆっくりと振り返る。ふわり、と青波学園の制服のスカートが揺れ、白に明るい茶色が混じった髪が広がった。
「私を、探していたんでしょ?」
鮮血のような真っ赤な瞳が楓の背筋を凍らせる。誰もが彼女から目を離せずに硬直していた。
「御当主様、今ならまだ間に合います。私たちと共にお帰りになってください」
春日井家当主は緊張を噛み殺しながら言う。その姿を冷たい目が見つめた。
「……こんな姿の私が、帰れると思う? まして、天宮家に赦しを乞う、と?」
冷え切った言葉が空気を切り裂く。こんな風に喋る夏美を楓は知らない。涼も言葉を失い、夕姫と夕馬は固まっている。
今の夏美は氷の女王のようだった。
「御当主様! 私は貴女を尊敬しています! 私は、まだ……!」
舞奈が叫ぶ。しかし、悲痛な叫びは夏美の紅い瞳を揺らがせるには至らない。
「……舞奈。私たちは役目を果たす」
低く春日井家当主は呟いた。
「でもっ! 荒木さんは! まだ、高校1年生なんだよ! 私の大事な後輩なんだよ! いくら天宮家がそう命じても、そんな……!」
「舞奈」
父に呼ばれて舞奈は黙り込む。楓には舞奈が唇を引き結んで下を向くのが見えた。夏美が嗤う。
「春日井、分かったのならいいよ。さあ、私を始末しなさい。私は貴方の敵だから。私は天宮に背いたのだから」
少女はそっと胸に手を当てる。冷たい微笑みを浮かべて嗤う。
「荒木夏美を始末する。散開し、包囲しろ」
冷徹な指示を出すのは春日井当主。動けない楓たちを無視して、春日井の部下たちは包囲網を作り上げる。
夏美の身体から霊力が噴き上がった。黒ずんだ霊力の燐光は陣を描く。
「『第九十九式、奈落の陣』」
小さく口が動いた。黒い陣からドロリとした何かが溢れ出る。陣から這い出た黒いモノは、ゆっくりと獣の姿を形作っていく。
「な、なんだこれは……!?」
「ひっ……!」
春日井の部下たちに動揺が広がる。不気味な獣たちが紅い瞳を爛々と光らせ、牙を剥いた。
「我が眷属たちよ、彼の者たちに裁きを」
夏美の言葉に従って獣が動く。春日井当主が術式を展開する。
「『第五式、封の陣』っ!」
霊力を封じる陣が獣たちの足元で発動した。 夏美が眷属と呼んだ獣を封じるための最適解、そのはずだった。
だが、獣は消えない。
「霊力で作られたモノではないっ!?」
効果がなければ自分たちの能力を大幅に削ぐだけの術式を即座に破棄し、春日井当主は魔弾銃を抜く。照準を近距離の獣に向ける。
閃光が走った。
獣の身体に風穴が空く。通路が後ろに見えるほどの大穴が開いた。ドロリと獣が揺らぐ。
「……修復できるのか」
苦々しげに呟きながら、春日井当主は銃を撃つ。それ程までに凄まじい修復速度だった。
「拘束術式、展開します!」
やっと硬直が解けた舞奈が獣の身体を縛ろうと術式を放つ。獣が跳んで、舞奈に飛びかかろうとするのを黒い服の女が刀で斬り裂き止める。
夏美が身体を翻した。
追おうとした部下たちは獣に阻まれ、放たれた術式は夏美の霊力によって完璧に撃ち落とされる。夏美は1ミリも振り返っていないのに、だ。
そんな動きを今までの夏美ができたわけがない。
動揺が重なり、思考は既に空回り状態だ。
どうすればいいか、わからない。
「行きなさいっ! 君たちなら、やれるはずだ! ここは私たちが食い止める!」
鋭く声が飛んだ。ハッとして楓は春日井家の当主の方を見る。彼はふっと柔らかく笑ってみせた。
「楓、行こう」
涼が走り出す。楓は獣を避けながら駆け出した。春日井の人たちに感謝をして。
「あれは本当に夏美なの?」
夏美の消えた階段を駆け上がる夕姫は不安に瞳を揺らした。
「……髪も目も、纏う気配も、話し方も、私の知らない夏美だよ?」
「僕も、たぶん光希も知らない。でも、やっぱりあの子は夏美だよ。一体どうしてあの姿になったかはまるでわからないけど」
「会って、もう一度話せばきっとわかる。俺はそう思う」
夕馬の言葉がもっともだ。
話せばきっとわかる。
楓もそう信じる。
楓は握った拳に力を入れた。しっかりと一段ずつ階段を蹴って、先に進む。
「屋上だ……」
このホテルの最上階、50階のその上。美しいホテルが隠す、最も殺風景な場所。世界の全てが見渡せそうな、そんな錯覚さえも覚える摩天楼。
吹き荒ぶ風に目を細め、楓は硬いコンクリートに足を踏み出した。
白髪の少女は黒の空の三日月から光を受けて、美しくそこに在った。
「やっぱり来たんだね。楓、涼、夕姫、夕馬」
噛み締めるように名前を夏美は呟く。紅い瞳が楓を写す。
「夏美、ボクたちと帰ろう」
楓は手を伸ばした。心のどこかで、少女が手を握ることはないと知りながら。
「……違う。私は夏美じゃない」
確かに夏美の顔をした少女は言った。
「その名前は棄てたの。だから、私は夏美じゃない」
もう一度繰り返す。
「私はラミア・ノイ・ドラキュリア。魔族の、吸血鬼だよ」
「違うよ! 夏美は夏美! 私の友達、そうでしょ?」
夕姫が耐えかねて悲痛な声を上げた。ラミアは首を振って、否定する。
「私はバケモノ。楓、私もバケモノだったの。ヒトの血を吸わなければ生きられない、バケモノだったんだよ」
「……そんな」
バケモノだと知った時の絶望を楓は知っている。この世界には居場所は無いと無慈悲に宣告される痛みと苦しみを知っている。
夏美は、ラミアは、その苦しみの狭間で泣いているように見えた。
「私は、もう、ここには居られないんだよ。こんな私に帰る場所なんてない。それにね、楓」
夏美は楓に向かって冷たい微笑みを浮かべる。
「私は天宮を許さない。私は私の守りたいもののために天宮を敵に回す。楓たちが天宮の側にいるのなら、私は楓たちの敵」
いつのまにか、夏美の手には二丁の拳銃が握られていた。滲み出す殺気は本物だ。認めたくはないけれど、夏美の殺意は楓たちに向いていた。
「……それなら、ボクは君を止める。力づくでも帰ってもらう!」
「僕も、もう誰も失いたくはないから」
そう言って涼も楓の隣に立つ。夕姫と夕馬もそれぞれ武器に手を当てる。
「「行かせない」」
双子の声が合図になった。
夏美の銃が火を吹く。
涼が夏美の動きを止めるために雷撃を放ち、剣撃で銃弾を斬る。矢のように暗闇を裂いた紫電はしかし、簡単に躱されて不発に終わった。
間髪入れずに切り込んだ夕姫さえも軽々と突破、夕馬が放った結界の術式も容易く打ち砕く。
「……今の私は楓と互角に戦えるよ」
呟きが空から聞こえた。
銃弾の嵐、魔弾の嵐が降り注ぐ。
咄嗟に刀を振るい、弾き返すが、待ち合わない。
「っ!」
ピッと頰から血が噴き出した。構わず跳ぶ。白い少女と躍る。街の光を反射し光る刃は閃く。
「さすがに楓は強いね」
「夏美も、めちゃくちゃ強いじゃないか!」
顔色を変えずに呟く夏美から生み出される数多の術式を斬り、実弾を斬り飛ばす。楓の口元は知らずに持ち上がっていた。
二人の織りなす攻防にはもはや余人が踏み入る余地はなく、ただ目を見張るばかりの鮮烈な戦いが繰り広げられる。
そして刹那に楓は思う。
夏美は下の階の獣を操りながら、自分と互角の戦闘能力を発揮している。
それはつまり、夏美の全力に楓は敵わないということ。
夏美は人であることを辞めたのだ、と理解するには十分すぎるくらいだった。
業火で楓の足場が奪われる。焼かれる前に涼たちのいる場所まで後退すると、夏美との距離が開く。
「そろそろ時間だね」
夏美は虚空に言葉を投げた。それが意味するのは別れだろうと瞬時に分かった。
「夏美」
「何?」
わざとラミアと呼ばなかったことに、彼女は気づいただろう。それでも返事をした。
「相川は、どこにいる?」
夏美が見せた笑顔や哀しみに溢れていて、楓は言葉を失った。
「光希は、寝てるよ。大丈夫、無事だから」
短い言葉は深い愛情に満ちていた。優しい響きを伴って、風に解ける。
「楓。楓はこれからも光希の側にいる?」
「……うん。約束したから」
夏美の目が鋭く楓を貫き通した。
「それならどうして、どうして楓はそんな風に戦うの? 自分を殺すような、命を削るような戦い方をするの?」
楓は目を見開く。夏美の問いは楓の中の何かを明確に抉ったように思えた。
「別に、そんな、ことをしてるつもりは、ない」
「ならどうして、白樹とあんな風に戦ったの? 真っ向から戦えば、間違いなく殺されるのは分かっていたはずだよ?」
「ボクの身体は、丈夫だから、だから、それに賭けたんだ」
自分でも言い訳のようにしか聞こえない。当然、夏美にも見破られているはずだ。だが、夏美は興味を失くしたかのようにそれ以上の追及をやめた。
「……そう。それじゃあお別れだね、みんな」
「待って! 夏美!」
涼が叫ぶ。夕姫と夕馬が同時に届かない手を伸ばす。
ごうっ、と透明な風が下から吹いた。
白い髪が舞い上げられる。紅い瞳の綺麗な少女は最後に冷たく笑った。
さようなら、と口が動く。
そして、少女は倒れるように摩天楼から飛び降りた。
とうとう別れが来てしまいました。
次で六章は終わりです。
 




