悲色の吸血姫
夏美は重く息を吐き出した。
ぷらん、と携帯端末を握った手を下ろして、閉められたカーテンの隙間から差し込む月の光に目を細める。
ちょうど今、光希に電話をかけていたのだ。
ここはハルトに当てがわれた、とあるホテルの一室だった。
最後に光希と話をしておきたかったから、黒い少年に頼んだのだ。と、それは数時間前のこと。本当に彼の手際は早かった。
まるで自分のこの行動を読んでいたかのようだ。
首を振る。
そんなことはどうでもいい。
「私は……」
何かを紡ごうとした声は途切れた。その代わり、罪悪感にも似た感情が首をもたげる。夏美がこれからしようとしていることは、決して許されるものではない。仲間を裏切ることを選んでしまった自分が、その道を彼にも勧めようとしていることだって。
光希も天宮から荒木夏美が裏切ったことを知っている。それは確かに冤罪から始まったものであったが、今となっては関係がない。ただ、裏切ったかもしれない人間の誘いにたった一人で赴くなど自殺行為にも等しい行いだ。
しかし――。
光希は絶対にここに来てしまう。
まだきっと荒木夏美を信じてくれている。光希はとても、優しいから。
そして自分はその優しさにつけ込むのだ。
利用して、踏みにじる。
やっていることは天宮家と何一つ変わらない。
夏美の手から携帯端末が滑り落ちた。絨毯の上では音も立てず、光の消えた電子機器は死んだように沈黙する。
何か温かいものが目から零れ落ちた。
一度溢れた涙は止まらない。
そのまま夏美は絨毯に座り込んだ。ポタポタとだらしなく涙が流れて、布に黒くシミを作っていく。
「うっ……ぐっ……」
抑えていた感情がタガが外れてあふれ出した。
吸血鬼になれば、この辛さもこの哀しみも忘れてしまうのかもしれない。
本当はとっくに気づいていた。
吸血鬼になってしまえば、光希への気持ちも失くしてしまうのだろう。
「……わすれたく、ないよ。わた、しは、みんなの側に居たいよ……」
誰もいない空間に、夏美の最後の心の叫びが響く。
でも、もう決めたから。
引き下がることなんてできないから。
夏美は再び心に重い蓋を閉め、心をギュッと潰して抑え込む。
びっくりするくらい簡単に、涙が止まった。泣いていたことを示すものは、目尻の微かな朱色と黒い絨毯に染み込んだ雫の跡。ただそれだけ。
この薄暗い部屋では泣いていたことにきっと誰も気づかないだろう。
***
コンコン、とくぐもったノックの音が響いた。
心臓が跳ね上がり、同時に頭は冷えていく。慌てて立ち上がってドアを開けると、そこにはやっぱり光希がいた。
「……夏美、こんな所で話って一体何だ?」
不思議そうな表情を浮かべて光希は黒い瞳を揺らした。
「入って」
戸惑う光希の腕を引っ張って、中に入れる。それから、ドアを閉めて鍵をかけた。
「……もしかして、夏美が天宮家に狙われてることについてか?」
遠慮がちに尋ねる声には夏美を気遣う色があった。夏美は微笑んで頷く。
「そうだよ、そのことで話があるの」
「それなら、俺だけじゃなくてみんなに話せばー」
「光希に、知ってほしいことだから。聞いてくれる?」
光希の言葉を遮るようにして顔を覗き込む。もう自分にはあまり時間が残っていないのだと、漠然と思っていた結果だった。
「わかった」
光希は真剣な顔で、夏美を見つめる。
「……光希は、天宮家が何をしようとしているか、知ってる?」
怪訝そうに首を振った光希に向かって、ハルトに言われたことを少しずつ話す。
「天宮家はね、楓を利用して何かをしようとしているんだよ。そして、光希も」
「どういうことだ? 天宮家は……何を?」
「……そこまでは分からない。でも、一つだけ分かるのは、楓を殺さなければ光希が死ぬ、ということ」
光希が目を見開いた。理解が追いつかず、呆然としている。
「……俺が死ぬ?」
「うん、私はそう聞かされた。……だから、天宮家に殺される前に、私は天宮を敵に回す」
決意を秘めて静かに口に出した。光希はまだ固まったまま、理解する努力をしている。あらゆる過程を飛び越えた最終的な結論だけを言われても、理解に苦しむのは当然だ。
やっと光希は声を発した。
「だが、お前が天宮に追われる理由はないはずだ。だから、俺たちで夏美を守ると決めた。……天宮を敵に回す必要はない」
「無理だよ」
諦めの微笑みを浮かべる。
「私は天宮にとって要らない存在。それにね、光希。私は光希を死なせたくない」
戸惑いの表情を見せる光希に手を伸ばしそうになって、動いた手を抑えた。喉まで出かかっている一番伝えたい一言の代わりに、初めから決めていた一言を口にする。
「……だから、私と一緒に来てほしい」
沈黙がその場を支配した。
一体どのくらいだっただろうか。
一秒、それとも何分間も?
激しくバクバクと鼓動を立てる心臓が、ひたすらに五月蝿くて、そのわかり切っている答えがどうしようもなく怖くて。
それでも、どんな状況であっても一緒に居られる一分一秒が大切で。
ただこの沈黙を破るであろう光希の答えを待った。
「……俺は、……すまない。……お前とは行けない。俺は、夏美が言ったことが真実だったとしても、天宮の護衛を放棄することはできない」
掠れていても芯の通った声で光希は答えた。
その言葉は全て予想通り。
「……知ってたよ。光希が絶対に私と来ないことくらい。……だから最後に一言言わせて」
光希は囁き声を聞き取ろうとして顔を近づけた。夏美は堪え切れずに光希の顔に手を伸ばし、抱きしめる。
「夏美!?」
「……あなたの血を私にください」
夏美の瞳が紅に染まる。伸びた牙を愛しい人の首筋に突き立てた。
「……っ!」
光希の身体がビクリと跳ねる。そして、フッと力が抜けて、少年は気を失った。
***
「ん……」
艶かしく口を離す。残った血を舐めとると、光希の首筋の傷は消え去る。血を吸われたショックで気を失った光希を、夏美はそっとベッドに横たえた。顔色は青白いが、すぐに回復する程度だろう。なぜか夏美にはそんなこともわかるのだ。
どくん、と心臓が嫌な音を立てた。
全身の血流が逆流するような、燃えるような痛みが夏美の身体を支配する。
「うぐぅ……」
胸を掴んで膝をつく。遠ざかる意識を必死で手繰り寄せ、顔を歪めて痛みに耐えていた。
今、自分の身体は急激に変わっているのだ。存在そのものが上書きされる。別のモノに変わる。
死ぬことのない不死者、魔族の中の最強種。
「っはぁ、はぁ……」
激しい熱が少しずつ冷めて、痛みも薄れていく。
そして、最後にここに残ったのは吸血姫。
明るい茶色だった髪は白く変わり、元の色の名残を毛先に残すばかり。瞳は鮮血の紅い色をしていた。
心は静かに凪いだ。
夏美、いや、ラミアは立ち上がる。チラリと光希を見遣り、冷たく微笑んだ。
これは決別だ。
一番大切なものの為に、一番大事な宝物を棄てる。
自分が自分である証を棄てる。
相川光希が初めて呼んでくれた名前は夏美にとって、宝石のように大事なものだった。
もう、これからは二度とその名前を呼んでくれる人はいない。
でも、そのことに後悔はない。
荒木夏美はここで死ぬ。代わりに荒木を滅ぼしたバケモノは産声を上げるのだ。
紅の瞳はカーテンの隙間から夜の闇を見つめた。少し明るすぎる三日月と共に綺麗な世界を。
壊れた自分でも、守りたいものがある。
壊れた世界だから、守りたい。
たとえ、それが大切な人の心を失うことになったとしても。
――私は。
「光希を愛してる」
甘くて苦い恋の味。
かつて何も分からない自分が知った最初の感情もここで死ぬのかもしれない。
荒木を滅ぼして、一族を支配して。世界に、大事な人たちに嘘を吐いて生きてきた。
犯した罪は消え去りはしない。
そんな自分でも大事なものを守れるのなら――。
もう迷わないし、躊躇わない。
――私が欲しいのは、光希の幸せだけだ。
――その為なら私は、
世界だって敵に回してみせる。
ラミアは光希に背を向けて歩き出した。決して振り返ることはなく、ただの一つも迷いはなく。
一つだけ、神を名乗った少年に誤算があったとすれば、ラミアは人の感情を完全には失くさなかったことだろうか。
……とうとう夏美は楓たちと道を違えました。
こんなにダーク路線を突っ走っているのであまり説得力がありませんが、一応この物語はハッピーエンドになる予定です。




