二学期開始
すうっ、と楓は空気を吸い込んだ。肺に入ってくるのは久しぶりの学校の空気だった。その行動自体には何の意味もないのだが、気持ちの問題だ。
というのも、夏休みは学校には一度も帰っていないのである。
五星の礎が破壊されるという事件の後、楓と光希は天宮本家にずっと軟禁状態だった。もちろん、ただボケッとしていたのではない。みのるによる特訓が課せられ、毎日ヘロヘロになっていたのだ。
だが、課題を出すだけ出して、みのるはいないことが多かった。きっと五星結界が緩んだことで魔獣などが増え、戦闘要員として駆り出されていたのだろう。楓と光希、涼の三人も度々魔獣狩りに参加したが、確かに強い魔獣が多くなっていた。それでも以前と変わりなく戦えたのは、謎の闇結界での戦闘の賜物だ。
「久しぶりだな、相川」
楓は隣の光希をチラリと見る。無表情で校舎を眺めていた光希は、少し笑みを口に浮かべて頷いた。
「ああ。なんかとても長い間ここを離れていたような気がする」
「確かに。ずっと訓練尽くしだったし」
「ほんと、あなたたち、毎日疲れ切ってたわね」
クスクスと笑いながら木葉が会話に参加する。
「そうだね、先生のメニューはだいぶキツいや。僕も久しぶりに筋肉痛になったよ」
「うそっ⁉︎ 神林が? あんなに余裕そうな顔してたのに⁉︎ 」
楓は思わず叫んだ。涼は爽やかに笑って首を縦に振る。
「楓も光希もあまりにも余裕そうだったからね、せめて外見くらいはそう見えるように頑張ってだんだけど……」
「いや、俺は打撲だらけで最後の方は足が重すぎて持ち上がらなかったぞ?」
「同じくボクも!」
光希に賛同して勢いよく手を挙げる。木葉の顔が若干引きつった。
「あなたたち……、一体何をやらされてたのよ」
「何って……、当然先生の作ったメニューだよ!」
元気の良い返事に木葉は遠い目をして適当に頷く。
「……聞かない方が良さそうね」
楓は空から降ってくる眩しい日差しに目を細めた。九月になっても暑さと太陽光は健在だ。蒸し暑くなくなったのは嬉しいが、やっぱり暑い。
「おっはよ〜!」
どこかから聞き覚えのある声がした。夕姫と夏美と、なぜか夕馬が連行されてくる。お日様のような明るい笑顔をサンサンとばら撒き、夕姫は元気に現れた。
「おはよう、みんな」
夏美が可愛らしい笑顔を見せる。楓も頰を緩めて挨拶を返す。
「うぅ……、なんで涼も光希も俺を起こしてくれなかったんだよぉ……」
夕姫に散々引きずられてボロボロ状態の夕馬の恨み言に、涼と光希は苦笑いを浮かべた。
「ちゃんと起こしたんだが……」
「夕馬、熟睡してたからね」
と、視線を泳がす二人。
話によれば、爆睡していた夕馬を光希と涼は起こそうとしたのだが、全く起きる気配が無いので担いできて夕姫に託したのだそう。そして、夕姫は夕馬をペチペチ叩いて自立歩行をさせようとしたが、柱や壁にぶつかりまくるので最終的に強引に引きずってきた、という所らしい。
「始業式に起きない夕馬が悪いのだぁっ!」
夕姫が悪びれずに叫び、隣の夏美が苦笑いした。
今日は二学期の始業式なのだ。波乱だらけの一学期、夏休みを乗り越え、全員無事にここにいる。今までにあったことを考えるとそれは結構奇跡みたいなものだ。
楓は何となく周囲に視線を向ける。
見知らぬ生徒と目が合う。スッと視線を外された。よくよく考えると、楓たちの歩く先に人はいない。目に入るのは周りを遠慮しながら歩く生徒たちの姿だけだ。
「なんかボクたち避けられてる?」
コソコソッと光希たちに耳打ちする。他の全員もこのいつもと違う空気感に気づいていたらしく、周囲を確認することもなく頷いた。
「たぶん、楓が天宮家の姫だっていうのが公表されたからじゃないかな」
「俺たちもその仲間ってことかー」
「そうだね。元々目立ちまくってたけど、ここまでになるとは私も思わなかったよ」
確かに言われてみれば最初から目立つ組み合わせだった。無能力者がこの学校にいること自体が珍しくて、学年の首席一味がその周りにいるのはもっと不思議で、そして無能力者の楓はホンモノの天宮で。言い並べると実におかしい集団だということがよく分かる。
「夏美は夏休み、忙しかった?」
夏美とはあまり顔を合わせていないことを思い出して楓は尋ねた。夕姫と夕馬とはちょくちょく会っていたのだが。
「うん、そう。一応荒木の家を任されているわけだし、五星の礎が破壊されたお陰で処理に追われてたよ」
はあ、と溜息を吐き出し、夏美はやれやれという顔をする。どうやらとても大変だった模様だ。本家の若き当主となると悩み事も多いのだろう。
そうして歩くこと数分間。楓たちは入学式をしたホールに辿り着いた。
***
気がつけば、既に始業式は終わっていた。
意識のあった時間は僅かすぎて、何も覚えていない。つまり、お約束の睡眠時間に化けたのだ。
寝ぼけ眼でキョロキョロと辺りを見渡すと、光希が目の前に立っていた。楓は顔を上げ、それからゆっくりと立ち上がる。
「また寝てたのか」
呆れ声が聞こえ、楓は軽く笑う。
「まあな〜、暖かくてさ」
「そういえば入学式も寝てたな、お前」
そう言われて、4月のことを思い出した。腕時計が壊れていて、慌てて走って光希にぶつかった。その上、入学式で頭突きしてしまった。
「そうだなぁ。相川とはとんでもない出会い方をしたよ」
光希がフッと息を吐き出して笑った。
「……どんなヤバいやつだよ、って思った。まさか椅子をドミノ倒しする人類が存在するとは思わなかった」
「あー、そんなこともあったなー」
無表情だった光希が初めて驚いた顔をしたのも楓が椅子をドミノ倒しにした時だった。今では光希もだいぶ表情が動くようになったのを思うと、不思議な感覚がある。
「二学期は何事もなく過ごしたいけど……」
「……まず無理だろうな」
はあ、と二人揃って溜息を吐いた。
「仲良くなったわよね、あの二人。会ったばかりの時はお互いをとても嫌っていたのに」
楓と光希のいる場所から少し離れた所。木葉は隣の夏美に話しかけた。
「うん、光希も前より笑うようになった。それは楓のお陰だね」
木葉の顔を見ずに夏美は言う。木葉はその横顔を見て微笑んだ。
「夏休み、忙しかったみたいね」
「……そう、だね。誰かさんが五星の礎を破壊してくれたから、大変だったよ」
笑顔を浮かべながら、夏美は遠くに視線を向ける。
夏休み中、本家会議がもう一度開かれた。今後の対策や戦力の確認など、五星防衛についての話だった。荒木家は少々戦力不足なため増援を頼んだが、本当に来るかは疑問な所だ。どれくらいの影響が出るのか、まだ今の時点では把握できない。とにかく、夏美は荒木家の内部の戦力調整などで忙しかったのである。
「そういえば、私のことを調べるのは止めたのかしら?」
木葉の突然すぎる問い掛けに夏美はコクリと頷く。
「私は無駄なことはしない主義だから。分家に調べてもらったけど、何にも出て来なかったよ。……元々期待もしてなかったけどね。木葉は一体何者なの? 当主の権限をフル活用しても一ミリも分からないなんて」
お互いの顔を見ないまま、会話は続く。
「逆にそれで分かったら私が腰を抜かすわ。天宮家の御当主様以外、誰にも言っていないのだし。私自身、気をつけているわ」
「それならどうして私のことは知ってたの? 私、そんなにヘマをしたとは思わないんだよ」
「そうねぇ。ヒミツ、とでも言っておきましょうか」
木葉の適当な答えに脱力する。夏美は顔を動かして木葉の目を捉えた。
「木葉を動かしているのは誰なの?」
黒い瞳が大きくなる。まさかこんな所でストレートに切り込んでくるとは思っていなかったはずだ。木葉の唇がどこか艶めかしく動いた。
「……遠からずあなたも会うことになると思うわよ」
ゾクリ、と背筋を走った寒気に夏美は身体を強張らせる。木葉は天使のような微笑みを浮かべた。
「なーんてね」
「え?」
冗談めかして木葉が笑う。夏美は瞬きをして木葉の笑顔を見つめた。その顔は確かに完璧な笑顔だったが、目だけは笑っていなかった。
「二人とも、仲良くなったの〜?」
突然後ろから飛んできた声に、夏美と木葉は柔らかい笑みを浮かべて振り返る。声を掛けたのは、不思議そうな顔をした夕姫だった。
「そうかもしれないわね」
木葉が夏美に同意を求める。
「うん、心境の変化ってやつだよ」
「へぇ〜、それは良い変化だな!」
離れた所で話していた楓も、二人の変化を意外に思い、身体を乗り出した。
「まさかこの二人が分かり合う日が来るなんてね」
涼も興味深げににこやかに微笑む木葉と夏美を眺め、感心する。
「……明日にでも世界が滅びそうだ」
光希の小さな呟きに夕馬が噴き出す。
「確かになー。俺もあの二人が仲良くしてるのを想像できなかったぜ」
「光希の言う通り、天変地異の予感がするね」
などと失礼な会話をする男子3人に、夏美が微妙な表情をするのを楓は見た。
本当は仲良くなったわけではなく、夏美が最大の秘密を握られて圧倒的に不利な状態、という全く対等ではない関係なのだが、それを知る術は楓たちにはない。
久しぶりに学校に来た興奮感はホームルーム教室に着くまで続いた。
「みなさん、おはようございます。久しぶりですね〜。夏休み、どうでしたか?」
挨拶を始めた照喜が眩しい笑顔で教室を見渡す。その目元に微かな隈があるのを確認すると、夏休み中に何かしら大変なことをしていたのだろうと予想がつく。
そもそも、教室の空気が一学期とは違う。
遠巻きに楓を観察してくるような気配。敵意ではないのは幸いではあるが、居心地が悪い。その上、全員が全員、どこか疲労感を漂わせているのだ。
「ご存知の通り、五星の礎が崩壊しました。なので、魔獣やらなんやらの怪生物が大絶賛増加中ですね〜」
あ、ヤバい。この人疲れてる。と、楓は思ってしまった。話し方に素が滲んでいる。クラスメイトたちも困惑した表情を浮かべていた。
「というわけで、授業も実戦中心にしろ、と上の人たちから言われたのでそうなります。詳細はまた後日連絡しますが、心に留めておいてくださいね」
五星結界の崩壊を見据えての判断だろう。ここにいる学生を、そうなった時に戦力として使えるようにということだ。
その他は出されていた宿題を回収したくらいで、ほとんど何も無くホームルームは終わった。
照喜はキラキラした笑顔を浮かべ直し、教室から出て行く。後に残された生徒たちは、ゆっくりと帰り支度を始めた。
「どんな風に変わるんだろう、授業」
不安げに声に出すと、木葉が楓の顔を覗き込んだ。
「今の時点では何とも言えないけれど、座学が減るのは確かね」
「霊能理論無くなるかなっ⁉︎」
理論が苦手な夕姫が大興奮で食いつくが、夏美がその期待を無慈悲に潰す。
「……たぶん減るのは霊能力が関係ない授業だと思うよ、夕姫」
「がぁーん」
「楽できると思ったのに……」
隣で似たように地味にショックを受けている夕馬の姿に笑いが弾けた。
「まあまあ、そう落ち込まないで、二人とも。どうなるかは発表次第だよ」
「ああ。結局は勉強しないといけないしな」
ギクリと笹本の双子の肩が跳ねる。
「「あは、あは、ですよねー」」
そうして二学期最初の1日は過ぎていった。
日常(?)に戻って来ました




