鮮血の記憶
夏美視点です
私が中学2年生に上がったばかりのことだ。
冬に琴吹伊織ちゃんを守るために光希と涼と一緒に戦い、それから数ヶ月。
私はあの戦いで何の役にも立たなかった。ただ、無様に硬い床に転がっていただけで、術式を使うだけで重い負担がかかる伊織ちゃんに無理に術式を使わせて。
あの出来事以来、なんとなく光希が変わったような気がする。もう一度私と涼と打ち解けてくれたのは嬉しかったけど、光希の顔が辛そうに見えることが増えた。
……とにかく、あの事件から私も少しは変わったのだ。
私が光希たちの役に立つために考えたのは、固有術式を作ることだった。私のスペックでは、光希みたいに身体能力で攻めることはできない。だからこその選択だった。幸い、私は術式を扱うのがそれなりに得意な方だ。
荒木の術式をベースにして、アレンジを加えれば……。
そう考えて、しばらく経った。考えても良い考えは思い浮かばなくて、行き詰まっている。
暗い部屋で目が覚めた。
「これなら……。でも、これは何の術式?」
不意に思い浮かんだ術式に、私は興奮を抑えきれずに起き上がった。問題は、これが何の術式かわからないことだ。私が思い付いた、というよりも記憶の底から浮かび上がったもののようだった。
試してみなきゃ。
固有術式ができる可能性に、私はいてもたってもいられなくなる。まだ、早朝だ。庭で使っても誰にも見られないだろう。
そしてその安易な考えが私の首を絞めることになってしまったのだ。
庭に出た私はできるだけ暗い場所を選び立ち止まる。目を閉じて、頭に浮かんだ陣を霊力を解放し慎重に展開していく。
「……っ!」
陣を作る霊力の色がいつもと違う。何よりもその霊力の吸われ具合が尋常ではない。黒い炎がチラチラと陣から立ち昇った。
黒い何かがその向こう側で蠢くのを見た。
それはとても禍々しく、私の目を捕らえて離さない何かがあった。まるでここにぽっかりと口を開いた奈落のようで、地獄を見下ろしているような錯覚に囚われる。
私はこの術式に『第九十九式奈落の陣』という名をつけた。決して荒木のどの術式とも被らない末尾の番号、九十九。この術式ほどその番号に合うものはないだろう。
霊力がどんどん吸われていく。
それにも気づかずに惚けて私は立ち尽くしていた。
頭を鋭い痛みが貫く。やっと霊力が倒れる限界まで吸い出されたことに気づいた。慎重に術式を解除する。
後ろで誰かが動く気配がした。
倒れ込みそうな身体を抑え、振り返る。誰もいなかった。
――見られた。
私は冷たい地面にへたり込みながら、心臓を鷲掴みにされたような恐怖に震える。
終わりかもしれない。全て。
真実、それは全ての終わりだったのだ。私がその時予期したものとはまるで違ったけど、それはやはりある種の終わりの形だった。
この日は学校が無い春休みの真っ最中。光希と涼に合わない日で良かった。今の私には、二人を不審がらせないだけの演技ができない。
私はふらふらと自室に戻る。
もうどうして良いかわからなかった。
夜10時頃、私は廊下を歩いていた。この家ではいつもそうしているように、足音を殺して部屋に戻る途中だった。
「――あの子はやっぱり危険なのよっ!あんな女の娘だってだけで嫌なのに!私の妹だからって全部私たちに押し付けて!あんな得体の知れない子と暮らすのは死ぬほど嫌なの!」
喚き散らす甲高い声が耳に入る。不思議とその声は怖くはない。あれがあの人の本音だというのはずっと前から知っている。低い声が聞こえた。
「全くもって君の言う通りだよ。あの子は不気味すぎる。あの感情の無い目、同じ人間とは到底思えない。それに、拓也が見たっていうあの術式。荒木の秘術には無いんだろう?」
「ええ、そうよ!あんな気味の悪い術式があるものですか!……荒木はあの子には継がせない。……渡してたまるものですか。……アレは荒木には必要ない」
甲高い声が突然低い呟きに変わる。呪いのように吐き出される言葉に、私の心は冷えていく。でも、どれだけ罵倒され殴られても殺意は湧かない。それくらい、私はあの人たちに感情を向ける価値を見出せない。
「……あの子はこの世にいてはいけないの」
「いくら『九神』に抜擢されたとしても、あの子の中身は空っぽだ。壊れた相川と失敗作の神林、それから人間として機能していないあの子。あの子を殺すのは簡単だよ、愛華」
「そうね、呼びつけさえしたらあの子は来るしかない。あの子の力はまだ私たちには及ばない」
ああ、この人たちは私を殺す気なんだ。
あまりにも遅すぎる。私をそれだけ憎んでいるのだったら、さっさと殺してしまえば良かったのに。でも、私のあの術式があの人たちを後押ししてしまったのは確かなのだ。
私はこの死を受け入れよう。
感情なんていうものを貰える日が来るとは思っていなかった。名前を呼んで貰える日が来るなんて思ったこともなかった。恋をするなんて、夢にも思えなかった。今の私があるということ自体、奇跡のようなものだった。どうせならこの奇跡を抱いたまま死にたい。
……それに、大事な人に嘘を吐くのはもう疲れた。
何も光希と涼には知らせないまま、嘘を抱えて死ねるのは私にとっての幸せだ。だって、そうすれば嘘はバレずに、そしてこれ以上嘘を重ねる必要もないから。
部屋に戻った私は、あの人たちに呼び出されるのをぼんやりと待った。
呼び出されたのは、午前1時を過ぎた頃のことだった。おそらくその間に荒木の内部で私の処分を決定したのだろう。処刑という名の処分を。
指定されたのは家の地下室だった。術式の訓練にも使用されるため、四方を硬い壁に囲まれた頑丈な造りをしている。壁は白く、血の色は鮮やかに見えるだろう。ここにしたのは外に痕跡を残さず、片付けも楽だからである。あの人たちがいかにも選びそうな場所だ。
私が一人で立っていると、扉が開閉してあの人たちが姿を現した。
「……」
私が反応するよりも先に術式が私の足元に展開される。霊力で編まれた鎖が私の身体を縛り付け、ギリギリと締め上げていく。他人事のように私は無表情であの人たちを見た。
「あなたは荒木には必要ない」
鋭利で冷たい言葉の刃が私を貫く。銃声が耳障りに幾度となく白い壁に反響した。
視界が緋色に染まる。
鮮血を撒き散らして私の身体から力が抜けていく。術式が解け、ひやりとした床に投げ出された。もうどこにあるのかも分からない傷が熱い。焼けるような感覚と私の中から何かが消えていく感覚。でも、自分が味わっているようには感じられなかった。
やっぱり私は壊れているのかな。
私の死は避けられない。
穏やかに目を閉じようとした時、ふと光希の声が聞こえてきた気がした。
……光希に名前を呼んで貰えなくなるのは嫌だ。
そう思った途端、激痛が身体を駆け巡った。
「ぐぅ……あ、あ……」
意識が漂白されていく。何も考えられない。
私は……、何?
そこでプツンと私の意識が切れた。テレビのチャンネルを切るみたいに、黒に塗り潰される。
気づいたら、私は血溜まりの中に血塗れで立っていた。
手も、髪も、顔も、服も、緋色。
視界入る色は全て鮮血の紅色だった。切り裂かれた死体が散らばり、この家には人の気配が一切しない。
口の中に鉄錆の味がした。
わけが分からない。
私がやったの?
私が……?
べしゃり、と私は血の海に崩れ落ちた。
次に目を覚ましたのは、白い病院のベッドの上だった。白が眩しすぎて目を細める。
「よく、生きていましたね……」
白衣に身を包んだ男が私の顔を覗き込んでそう言う。その顔に浮かべられた表情に私は目を大きくした。
表情に浮かぶのは患者が助かったことへの安堵でも感動でもない。私にはその感情が何というものなのかを判断する能力がなかった。
「家の方々は、もう、誰も……。奇跡的に助かったのはあなただけですよ、荒木夏美様」
その言葉にこの医者が荒木の人間であることをすぐに理解する。
「あなたは大量の血を失って血溜まりに倒れていました。なので、輸血をしようとしましたが、あなたの血と適合するものは何もありませんでした。……いえ、人間全てを探してもないでしょうね」
この男は何を……。
私は人間ではないとでも言いたいの?
疑問を抱えたまま男の言葉の続きを待つ。男は私を睨みつけてこう言った。
「あなたは一体何ですか?」
スッと私の頭が冷えていく。もしも、私が人間でないとしたら、私が荒木の人間を殺し尽くしたと知られたならば。
それは……。
私の瞳は感情を映すのを止めた。私は男の質問を無視して問いかける。
「私に関わった者はどれだけいるの?」
冷たい冷たい声だった。私の中で何かのスイッチを切り替えたように、もう一人の私が目を覚ます。
男が目を見開き、うわ言のようにやっとのことで掠れた声を出した。
「ご、5人……。全員、荒木、……の分家、の者だ……」
「そう……。教えてくれてありがとう」
そして、さようなら。
私の指先に霊力が収束して放たれた弾丸が、恐怖に震えて動くことのできない男の心臓を刺し穿つ。何が起きたかまるで理解していない男は呆気にとられた表情のまま私を見て、息絶えた。
私の唇が吊り上がる。
私は今、笑っているのだろう。それを認識したら、何かが砕け散る幻の音が聞こえた。私の中に棲む獰猛で残虐な獣の咆哮。私の、本性。醜いバケモノが動き出す。
それから、私はデータに残っていた残りの4人を殺した。何の感慨も浮かばない。ただ、死体を4つ作っただけ。
結局、私は自分の正体を知ることはできなかった。でも、やるべきことは決まっている。
――荒木家の権力を手に入れること。
荒木家なんていらなかったけれど、この事件を跡形もなく消すためにはそれができるだけの権力が必要だ。
そして、権力を手に入れるためには手段は選ばない。
私はあらゆる手を使い、崩壊しかけた荒木をまとめ上げた。反対する者は殺してでも、前に進んだ。
そうしなければ、私が世界についたとても大きな嘘が白日の元に晒される。
やがて私は荒木家最後の当主の座についた。無慈悲な女王として、一族の支配者として。
女王に慈悲はいらない。感情もいらない。大事なものもいらない。
目的のために邪魔なものは全部棄てた。
手に入れた玉座の周りには何も無くて、空っぽで、空虚だったけど、何もかもを棄てて進んだ私にはお似合いだ。
ただ、光希の側にいる自分は綺麗で在りたくて……。
今なら理解できる。
私は本当に、荒木家の人間全てを殺し尽くしたのだということを。あの時の私は動転していて、血の海ができた理由の理解を放棄した。
これではバケモノみたいだ。
血塗れで、血の海の中で笑った私は、間違いなくバケモノだった。
私の全ては死体の上にある。私のいるこの場所は数多の罪の上に存在している。その罪はあまりに重すぎて、償いなどできない。誰も私を赦してはくれないだろう。
本当はもうとっくに気づいている。
こんなにも罪に塗れてしまった私に、光希たちの隣にいる資格なんてないのだ。光希を好きだと言うことも、私には……。
それでも。
それでも、だ。
後戻りはできない。犯した罪は無くならない。そして、私がついてきた嘘も消え去りはしない。
だから私は迷わないし、躊躇わない。
嘘をついてこれから生きていくのも、私の中に巣食う残酷な獣、もう一つの私自身を隠すのも。
私が欲しいのは、光希の幸せだけだ。
その為なら私は……。
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