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旧約神なき世界の異端姫  作者: 斑鳩睡蓮
第6章〜緋色の吸血姫〜

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はじめて名前を呼んでくれた人

夏美視点です

 私は愛されていない子供だった。


 私は荒木家当主夫妻の娘ではない。

 正確には、荒木家当主である荒木愛華(あいか)の妹、荒木舞華(まいか)の娘だ。

 私が荒木本家に養子にされた時、既に母は死んでいた。母は結婚していなかったそうで、私の父親は不明のまま。そして、それが両親について私の知る全てだった。


 なぜ義母ははが実の妹を嫌っていたのかは私の知るところではない。


 ただ分かるのは、私が愛されていなかったことだけ。


 私の名前さえあの人たちの口から聞いたことはない。『あの子』や『あんた』、『穀潰し』。呼ばれたことがあるのはそれくらい。あの人たちが私を見る目はとても冷たくて、人間を見るものとは到底思えなかった。たぶん、あの人たちの中で私は気味の悪い生き物のように捉えられていたのだろう。


 その上、あの人たちには息子がいた。年齢的には私の1歳年下の弟になる。弟、拓也たくやをあの人たちは溺愛していた。

 荒木本家としては不十分な力しか持たなかったが、次期当主は拓也だと言って譲らない。あの程度では、当主になったとしても荒木本家がナメられるだけなのに。

 術者としての才能は私の方がずっと上だ。だがしかし、愛する息子を当主にしたいと願う盲目的な親の目には、その事実は些末な問題だったのだ。


 もちろん対外的には私はあの人たちの娘だったから、それなりの教育は受けさせられた。


「荒木家の当主候補なのだから、私たちに恥をかかせないでちょうだい。そのくらいしかあんたにはできないの」


 何の感情も期待も込められていない空虚な言葉を虚な瞳で浴びせられる。

 私はきちんと与えられる教育をこなした。少しでも認められようと思って重ねた努力を褒めてくれる人はどこにもいなかったけど。


 それでも悲しいとも憎いとも、何も思わなかった。


 違う。思えなかったのだ。私の感情の起伏はあまりにも薄くて、感情というものが理解できなかった。本を読んである程度は学習した。でも、実感の伴わない知識として、私の中に蓄積されただけだった。


 そんな私を光希が変えた。


 本人はたぶん気づいていないと思うけど、私にとっては大事な出来事。これからもずっと。


 それは私が9歳かそこらの頃だったと思う。


 荒木本家は旧新潟県の辺りにある。五星の北側が世界崩壊後の荒木家の管轄だ。本家は田舎にあり、裏手には山があった。


 私は拓也の邪魔になるから、と言われて家から追い出された。夕食までに帰れば良いか、と思い、山に入る。


 ついさっき殴られた頰に風が染みてじんじんと痛かった。いつから殴られるようになったんだっけ。もう覚えていない。

 山を彷徨うろついている限りはあの人たちに殴られたりする心配はないから、私にとってこれは罰でも何でもない。どうせ夕食までに戻らなければ、もっと厳しい罰が待っている。

 だから、それまでは術式の練習でもしてゆっくり過ごそう。


 私は歩き慣れた山道を歩き、いつも練習に使っている場所へ向かった。その途中、木の根元に何かがあった。それは倒れた人間の姿のように見える。

 私以外にはこの山に入る人はいないはずなのに、変だ。


 気になって、近づいてみる。


 それはうめいてゴロリと身体の向きを変えた。


 私は息を呑んだ。


 倒れているのは同じ歳くらいの少年だった。少年の黒髪が微妙に顔を隠している。私はその顔がどうしても気になって、手を伸ばして髪を払う。


 整った顔が現れた。少年はしかめっ面をしていて目を覚ます気配がない。このまま放り捨てるのも良くないと思い、いつもの場所に少年を運ぶことにする。


 霊力で身体強化をし、少年を担いで山登りを再開した。身体強化のお陰で、そこまで大変な作業じゃなかった。


 木がなくなる。少し開けた場所に出た。


 少年の頭を地面にぶつけないように気をつけて下ろす。その直前で、頭が地面に着くのも良くないんじゃないかと思った。だから、私も地面に座り、少年の頭を膝に乗っけてみる。


 この人は誰だろう。


 荒木本家から出たことがないから分からない。とにかく起きたら事情を聞いてみよう、そうして私は少年が起きるまでしばらく待っていた。


「う……」


 少年の睫毛が震え、黒い瞳と目が合った。少年はぽかんとして私の顔を見る。


「……っ⁉︎」


 慌てて少年は私の膝から転げ落ちるようにして立ち上がった。


「あ……」


 意味もなく私は手を伸ばし、少年を見た。そこで改めて私は少年が妙にボロボロであることに気がつく。


「……お前は誰だ?」


 私を警戒するように切れ長の瞳が細められた。


 名前?


 そういえば、自分の名前を誰かに教えたことがなかった。咄嗟に名前を口にできず、口をパクパクと動かす。


「……わたしは、荒木夏美」


 やっと言えた。少年は眉一つ動かさずに私をただ見つめた。


 私も名乗ったのだから、この人の名前を知る権利くらいはあるはず。


「あなたの名前は?」


 誰かの名前を訊くのもこれが初めて。心臓がばくばくと音を立てていた。


「……俺の名前は、相川光希だ」

「あいかわ……、みつき……」


 私は少年の名を口の中で反芻はんすうする。


「どうして俺をここに?」


 未だに警戒心を瞳に宿し、光希は私に問いかけた。私は今まで動かしたことのない頰の筋肉を動かして微笑みを作ろうとしてみたが、強張った筋肉はピクリと反応しただけだった。


「倒れてたから、ここに連れてきて起きるまで待ってようと思ったの」


 あの人にこの言葉が嘘みたいに聞こえていないといいな、と思う。マトモに誰かと話したのはこれが本当に初めてだから、勝手がまるで分からないのだ。

 でも、その心配は必要なかったようだ。光希は私に向かって照れたように口を開く。


「そう、か……。ありがとう、その……、夏美?」


 私の身体を電流が貫いたような衝撃が走った。私の中の時間も身体の活動も全てが止まる。


 世界の色が変わった。


 今まで見ていたモノクロの世界が不意に鮮やかに色づく。この時私は世界を初めて綺麗だと思った。


 胸から溢れそうになるこの暖かい気持ちは何なんだろう。ほんのり甘くてしょっぱくて、そして少しほろ苦い。

 これはただの私の錯覚かもしれないけど、私が初めて感じた感情というものに他ならなかった。


 そして私はこの気持ちに名前を付けた。


 これは『恋』という名の感情だ、と。


 しばらく惚けていた私を光希は心配そうに見た。


「そのほっぺた、大丈夫なのか?」


 背中に氷を入れられたような恐怖を感じ、ハッとして頬を慌てて押さえる。私は笑顔を作った。今度は成功。

 たぶん私は光希にあんな人たちと暮らしていると知られるのがとても怖かったのだ。


 それも、私がこの日知った感情の一つ。


「大丈夫だよ。えっとこれはね、木にぶつけたの」

「なら、良かった」


 光希はその理由で納得してくれたみたいで、それ以上は訊こうとしなかった。


 でも、これは私が光希に吐いた最初の嘘だ。この時の私は知らなかった。光希と一緒に過ごしていく度に、私の嘘はどんどん増え続けていくということを。


「君は誰?」


 突然背後から声が聞こえ、私は飛び上がった。光希の鋭い視線が私を通り抜け、私の後ろにいる人物に注がれる。ゆっくりと振り返ると、光希とよく似た背の高い男の人が立っていた。


「わたしは、荒木、夏美です」


 さっきよりも少し滑らかに名前が言えて、それがなんとなく嬉しく感じた。

 だが、その人は私を見てほんの一瞬、顔を曇らせる。もしかしたら、私の頰の傷の理由に気づいてしまったのかもしれない。光希には言わないでくれるだろうか。何よりも先にそう思った。


「私は相川みのる。相川光希の父です」


 ニコリと笑い、光希を指し示す。それから相川みのるさん、後の私の先生は私に質問した。


「荒木夏美ちゃん、どうしてここにいるのか理由、教えてもらっても良いかな?」

「私は術式の練習をしようと思ってて、それで途中で相川くんを見つけたから、それで……」

「なるほど……。光希を助けてくれてありがとう」


 先生は私を優しい目つきで見た。こんな目をした大人を見たことはない。


「相川さんたちはどうしてこんなところにいるんですか?」


 ついでに尋ねる。


「訓練。術式の練習と武術の稽古だ」


 ぶっきらぼうに光希が言った。私はその言葉の響きに惹かれて先生を見つめる。私にも稽古をつけてくれないだろうか、そうすればあの人たちも少しは私を認めてくれるのではないか。


「相川みのるさん、わたしに、術式や武術を教えてくれませんか?」


『相川』という名前が意味することを知らなかった私は、躊躇いもなく先生に頼み込んだ。『相川』が『異端の研究』によって生み出され、本家に疎まれていると知ったのはそれからしばらくした後だ。

 当然、本家の血を引く私が『相川』に教えを乞うたのに、先生は驚きを隠せていなかった。先生は首を振り、私を突き放そうとする。


「駄目だよ。荒木夏美ちゃんは本家の血筋。私には君に教える資格がないんだ」

「良いんです。……わたしは、あの家には……」


 私の視線が宙を彷徨う。それを意思で抑え、もう一度頼んだ。


「わたしも強く、なりたいんです。だから、お願いします」


 目をつぶって頭を下げる。先生は困ったような顔をし、渋々首を縦に振った。先生はその時、きっと早々に私の稽古を止めて去るつもりだったのだ。私が予想外にも執念深いとは知らずに。


 ただ、偶然とはいえ霊能力者として最強の先生に教えてもらうことになったのはとても良かった。お陰で私は今、光希や楓には及ばないものの、共に戦えているのだから。


 この日を境に私の全ては変わったのだ。


 私は感情を知り、『恋』をした。

 強くなるための手掛かりを得た。


 何よりも光希が私の名前を呼んでくれるのが嬉しくて、それだけで厳しい訓練にも耐えられた。だから、光希がある時から名前で呼んでくれなくなったのが嫌で、名前で呼ぶように頼み込んだ。


 それと、もう一人、同じ学年の涼と出会えたのも先生のお陰だ。涼も光希と同じ日本刀の使い手で私よりもずっと強い。それは今も変わらないけど、いつかは二人と、そして楓に追いついてみせる。それは私の目標の一つなのだ。


 たった一人で、感情も知らなかった私はそうして普通の女の子になった。

 でも、光希と涼には家のことだけは絶対に教えなかった。訊かれても嘘を吐いただけ。一緒にいればいるほど降り積もる嘘を増えていく。分かってる。そんなのじゃ、いつかはバレてしまうということも。


 しかし、私の嘘が暴かれる日は最後まで、とうとう来なかった。

夏美の生い立ちは意外と楓と似てます


章タイトルは「緋色の吸血姫きゅうけつき」です

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