暗殺者の矜恃
光希に手を引かれ、いつからか楓の身体は音に合わせて動くようになった。いつになく近い光希の顔に始終落ち着かなかったのは内緒だ。
楓は光希の手を握る。
暗がりの中で光希の口元が緩んだように見えた。
それだけで楓はとても嬉しかった。くるくると回る視界も、宵闇さえも、キラキラとした感覚に包まれている。こんな感情は初めてだった。
光希と出会うまでは望んでも絶対に届かないと思っていた全てが、この瞬間にぎゅっと詰め込まれていた。
ずっとこうしていたい。
楓の心はそう願う。だが、何事にも終わりは来るのだ。
音が小さくなり、やがて聞こえなくなった。それに合わせて楓と光希の足が止まる。同時に、さっきまで感じていたものが全部、夢だったかのように溶けてしまった。
光希の手が離れていく。
名残惜しく、ゆっくりと手を離す。
こんな風に、誰かの側にこれからもいられるだろうか。気がつけば口に出して問いかけていた。
「相川、ボクたちは……、ずっとこのままでいられるかな?ずっとこうしてお互いの側にいられるかな?」
「大丈夫だ。……誰も、失わせたりはしない」
楓には『もう』という言葉が『誰も』の前に聞こえた気がした。
「喉、渇いてないか?取ってくるから待ってろ」
突然光希が楓から距離を取るようにそう言って、歩いていってしまう。楓は光希を引き止める間も無く取り残される。
「……相川?」
少し逃げるようだったのはなぜだろう。
……本当は、光希はただ気持ちを落ち着けたかっただけなのだが、楓にはもちろん伝わっていない。
理由も分からずに、置いてかれてしまった楓は光希の言葉通り待っていることにした。会場に戻ればまた、『姫』という役割に捕まってしまう。
名前しか知らない楓の母も、同じような気持ちでいたのだろうか……。
楓は小さく溜息を吐き出した。
微かな気配が楓の五感に引っかかる。斜め後ろ、少し上の方だ。楓の視線が鋭く気配を貫く。
「誰だ!」
言った途端、霞みがったように感じられた気配が急に鮮明になった。黒い人影が、ストンと楓の隣に軽やかに着地する。
「やっぱりこの程度ではあなたは誤魔化せませんか……、天宮楓」
黒服に身を包んだ少女は、『ベガ』という組織の元暗殺者だ。カレンは髪の房を手で払い、口を開いた。
「カレン?」
「こうして話すのは久しぶりですね」
どうやら楓と話に来ただけらしい。確かに、二人だけで話すのは、偽カフェ以来だろうか。
「あなたが『神』だったのですね。私の組織は相川光希を暫定的に『神』と仮定していたのですが……、強ち私のカンも外れてはいなかったようです」
「……カレンは、『神』が何なのか分かるのか?」
カレンはゆっくりと首を振った。分からない、と。楓自身、答えを求めたつもりでは無かったので、言及しない。
「私はただ、『神』が覚醒する前に抹殺しろ、と命じられただけですよ。まあ、まさかのイレギュラー因子にぶち壊しにされたんですがね……」
「……あはは」
楓は苦笑いで頰をかいた。
「ところで……、眼鏡を無くして髪を下ろしただけでこうまで化けるとは……、思いもしませんでした。……元々が変装なんですか……?そもそも眼鏡とポニーテールがその容姿を隠す為のものだったと言われた方が違和感がありません。……喋らなければ、ですが……」
と、まじまじと楓を舐め回すカレンに、楓は苦笑いを浮かべた顔をさらに引きつらせた。貶されているのは気のせいではない気がする。
「ボクも変な感じだぞ、こんなドレスとかヒールとか髪下ろすとか、信じられないや」
「……亜美様が再び変なご趣味に走ってしまっては困ります……」
カレンが何かを呟いた気がするが、よく聞こえなかった。
「天宮楓、相川光希に告白はいつするんですか?」
唐突な問いに、楓の脳みそが思考を止めた。
「……へ?」
カレンの顔は至って真面目である。
「はぁああっ⁉︎こっ、こ、こ、こ、告白っ⁉︎」
ニワトリも顔負けのどもり具合、それは楓の動揺を完璧に表現していた。カレンが真っ赤になった楓を見て首を傾げる。
「それとも、もう相川光希に告白されたんですか?」
「な、な、な、な、そ、そんなワケ無いだろっ⁉︎」
カレンは驚いたように眉を上げる。
「相川光希が好きなんですよね?」
「えっ⁉︎べ、別にボクはっ、あ、相川が好きとか……なんとか……その……」
楓の声は言いながら、どんどん尻すぼみになっていく。同時に自分が光希をどう思っているかが分からなくなってきた。確かに、好きか嫌いかと聞かれたら好きだが、その気持ちの正体はまるで分からない。
カレンの顔の驚きの色がさらに深くなった。
「えっ、と言いたいのはこちらの方なんですが……。……まさか分からないんですか?」
「……う、うん。……それに、相川がボクをどう思ってるかとか、全く分からないし……」
かぁーんっ。
謎の鈍い金属音が響いた。見れば、カレンの頭がお洒落な電灯のポールにのめり込んでいる。
「か、カレン⁉︎大丈夫か⁉︎」
慌てて声をかけると、怪しい笑い声が返ってきた。カレンは打ちつけた額を真っ赤にして、肩を震わせる。
「……全然気付いてないんですか⁉︎公害級の甘々な空気を垂れ流しておいて!世界滅亡級の爆弾発言をばら撒きまくった挙句!気づいていない、と⁉︎……どんな脳ミソしてるんですかっ⁉︎あんた達はみじんこ級の恋愛脳ですかっ⁉︎」
カレンがよく分からないことを叫び、最後にビシッと楓を指差した、……ゼーハーゼーハーと荒い息をして。
果たしてこれは怒られているのだろうか……?
「えーっと、カレンサン?頭、変なところ打った?」
「……どうかしてるのはあんた達です……」
カレンは小さく呟き、その後呼吸を整える。
「……取り乱しました。とにかく、私としては、あなたが相川光希と上手くいくことを願うばかりですよ。亜美様は相川光希がお嫌いなようですがね……」
「はあ?」
気の抜けた返事を返す。カレンは顔から笑みを消した。
「亜美様は、楽しんでいらっしゃるでしょうか?」
「きっと楽しんでるんじゃないかな?カレンは、亜美とはどういう関係なんだ?」
「私の主です」
即答だった。迷いのない一途な忠誠がそれだけで伝わってくる。カレンは会場とここを繋ぐ窓に視線をやった。
「亜美の隣にいなくてもいいの?」
「……ええ、あそこには私よりも強い方がたくさんいる。特に、相川みのるは底が知れない」
楓は同意して頷く。
「うんうん、あの人はボクの師匠だ。まだ勝てたことないけどさ」
「……あなたでも勝てないんですか。それはもうヤバいですね」
カレンは遠い目をした。
みのるの実力は明らかに異常だ。世界が違う。楓もまだそこには手が届かない。
カレンがフッと小さく笑いを溢す。少しだけ自分自身を嘲るような感じが混ざっていた。
「亜美様は……、こんな私を拾ってくださいました。『ベガ』という組織で暗殺者として育てられ、任務に失敗した私を。だから私はこの残り少ない命の全てを亜美様に捧げると決めたんです」
カレンの髪が風に揺れた。楓はカレンが消えてしまいそうな錯覚に捉われる。
「残り少ないって……、どういうこと?」
カレンはその問いに淡々と答えた。
「私は任務に失敗しました。組織の暗殺者としての私はそこで終わりなんですよ。そして組織は裏切りを許さない。次に組織の者に会えば、私は確実に殺されます」
「カレンはそれを受け容れるつもりなのか?」
カレンの瞳に映る強い意志に気づきながら、それでも楓はそう尋ねてしまう。
「はい。組織に殺されるその時まで、私は亜美様の為に命を使います。……それが私の、暗殺者としての最期の矜恃です」
その意志を心に刻むように胸に手を当てたカレンは、とても晴れ晴れとした顔をしていた。
風が吹き、薔薇を揺らす。紅い花が宙に散る。
「カレン、例えそれがカレンのプライドだとしても、言わせて欲しい。……もうカレンは、組織からは自由だよ。亜美に拾ってもらった命はそんなに軽くない。好きなように、生きれば良いんだよ」
楓はそう言って笑って見せた。楓には自由なんてものはない。そんなものは望めなくなってしまった。
だが、カレンは違う。
願えば、叶うはずだ。
「もしも、カレンがその運命から抗うと決めたなら、ボクは絶対に君の力になるよ」
カレンが目を見開いた。そしてその瞳に生まれた感情を封じて首を振る。
「……ダメですよ。私はあなたに返しきれない借りがある。そんなことを言われたら、……覚悟が揺らいでしまいそうです」
カレンはくるりと踵を返す。振り返らずに彼女は言った。
「ですが……、その言葉、心に刻んでおきます」
夜の闇にカレンの姿が溶けた。
楓は赤薔薇を見つめた。誇らしげに咲くその花は、その瞬間は、永遠には続かないのだ。
「……天宮」
光希の疲れた声が聞こえた。振り返ってそちらを向く。おそらく会場の人集りにでも揉まれたのだろう、疲れているように見えた。
その手には液体の入った二つのグラスが握られていた。楓の為に光希は取りに行ったのだ。会場に戻れば、楓と光希の関係は変わってしまう。楓は天宮の姫に、光希は天宮の兵器に。
「おかえり〜!」
呑気に楓は手を振る。光希は何となく楓の顔を直視しないようにしながら、少し笑った。
「……ただいま。桜木と何か話してたのか?」
「ああ!なんか、ボクらの脳ミソがミジンコだって言われたぞ!」
「ミジンコ?」
元気に報告する楓に、光希は首を捻る。
「ミジンコだ!」
「……それはたぶん褒め言葉ではないと思うんだが……、一体どういう意味なんだ?」
褒め言葉でないのは分かる。だが、何を意味しているのかはさっぱりだ。
楓は爽やかに言い切った。
「わからんっ!」
……やばい、この人たち、病気だ。
 




