その忠誠を女王に
荒木夏美は溜息を吐いた。
今日は本家の会議があるのである。午前は10本家で、そして午後からは全ての本家を混じえ会議が開かれる。荒木も一応は10本家に数えられているので、どちらにも参加しなければならず、すっぽかすなんて以ての外だった。
「光希達と居たかったな……」
声に出して呟いた。未練がましい声が誰もいない部屋に響いた。
もう既に食事を終え、光希達とはそこで別れた。これから光希達は術式戦闘の訓練を相川みのるや火影照喜に教えてもらえるのだ。
出来ることなら夏美も参加したかった。何しろあの二人は言動は怪しくても実力はあるし、教えるのも上手だから。
ふう、と溜息を吐き出して夏美は起こり得ない事を考えるのを止める。
そろそろ制服を着替えなければいけない時間だ。
荒木家当主として、夏美が着ると決めている黒いシックなワンピースをクローゼットから引っ張り出す。
夏美がこれから行くのは本家の会合だ。制服や子供っぽい服では似合わないし、許されない。
そもそも童顔な自分の顔のことだ、明るい色の服でも着たら良くて中学生にしか見えないだろう。……認めたくはないが、夏美にもその辺の自覚はある。
とはいえ、夏美が荒木家の当主となったのは中学二年生の時だった。それから3回目の本家会議。時間が経つのはあっという間だ。
黒い服に袖を通し、襟元の細いリボンを結ぶ。鏡の前でクルリと回って夏美は頷いた。
「よしっ、これで大丈夫」
夏美は鏡の中の自分に向かって笑いかけ、それから笑顔を消した。そうして夏美は荒木家当主になるのだった。
時計を確認するとそろそろ出なければいけない時間だと気づく。
ドアの隣に置いてある黒い数センチのヒールに足を入れる。本当は身長を量増しする為に10センチくらい欲しいのだが、前に試してひっくり返ったのでやめておいた。
廊下に出ると、黒いスーツを纏った男がそこに立っていた。
50代くらいの見た目に、頑強な身体つきの男。それこそが荒木家の分家第一位の春日井家当主、春日井祐一だ。
「迎えに来てくれたの。ありがとう」
夏美は冷たく微笑する。その顔にはいつもの緩んだ表情は一切見当たらない。
春日井祐一は夏美に向かって深々と礼をした。
「いえ、御当主様をお送りするのは私の義務ですから」
「そう……。もう他の本家の当主様方は見えているのかな?」
歩き出しながら夏美は問う。
「はい、ですが会議までは時間があるのでまだ皆様お集まりにはなっておりません」
「なら、良かった」
夏美は無言になって足を進めることだけに集中した。
春日井祐一は隣を歩く少女を横目で眺める。
荒木夏美が会議が始まるずっと前に部屋を出た理由、それは他の本家の当主に見下されないようにする為に他ならない。
中学生で当主の座に着いたこの少女は明らかに最年少の当主だ。そのあどけない容姿も相まって、他の当主にはどうしても見劣りしてしまう。だからせめて会議に一番乗りすることでその威厳を保とうとしているのだ。
そうは言うものの、他の当主は既に夏美を荒木家当主の器と認めている。中学生でありながらその手腕で分裂しかけた荒木をまとめ上げた少女は異様だった。
そう、荒木夏美は異質だ。
年端も行かぬ少女の筈が、分裂しかけた家をまとめ支配権を握った。恐ろしいまでの冷徹さと無慈悲さを持って少女は荒木を支配しているのだ。
……その為に何を棄て、何を殺したのかは彼女本人以外、誰にも分からない。
荒木夏美が当主になることは本来あり得なかった。一つ下の弟がいたからだ。当主が男でなければならないという決まりは無いが、男の方が融通が利く。この少女には当主となる未来は存在しない筈だった。
だが、それを全て覆す出来事が起こった。
今から2年半前、荒木家は何者かによって襲撃され、荒木の名を持つ者は全て殺された。その屋敷に住んでいた使用人共々全てが惨殺され、荒木夏美自身も瀕死の重傷を負った。彼女が生きていたのは奇跡以外の何物でもない。
つまり、この少女は血の繋がった家族全てを惨殺され、たった一人生き残り、そして荒木家当主の座に着いたのだった。
「春日井、」
夏美の冷えた声が響いた。春日井祐一は驚きを隠し、反応を返す。
「何でございますか、御当主様」
「……調べて欲しい事があるの」
荒木夏美の言葉は命令だ。つまり、意味する所は諜報機関を動かせということだ。諜報は春日井の管轄なのである。
夏美は春日井祐一の顔を見ずに言葉を続ける。
「下田木葉、という女を知ってる?」
当然春日井祐一なら知っているであろう事は夏美には分かっていた。これはただの確認だ。
案の定、祐一は小さく頷き、夏美の言葉を待つ素振りを見せる。
「御当主様のクラスメイトですね?」
「彼女が天宮家に仕えているのは知っていた?」
夏美は質問を質問で返す。
「何となく。ですが、あの時もーー12月の、『研究』に関する案件で御当主様と関わったと聞いております」
床が大理石に変わった。夏美の黒い靴がコツリコツリと音を立てる。
「それだけ知っているのなら、良いね。春日井には下田木葉について、調べて欲しいの。出自や能力についても洗いざらい、追えるだけ追ってほしい」
「分かりました」
短く祐一は答えた。理由は聞かない。夏美がそう言うということは明確な理由があるからだ。夏美は無駄な事は一切しない。
夏美はコツコツと足音立てながら大理石の広間を過ぎる。その後を陰のように春日井祐一が付き従った。
二人が歩く廊下には誰もいない。
会議が始まるまで時間は大分ある。それでも夏美は静かに足を進めた。
不意に、後ろの足音が途切れた。
夏美はそっと振り返る。
「……御当主様、一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
緊張した面持ちで祐一が夏美を見て、慎重に言葉を述べる。夏美は氷の女王を思わせる微笑を浮かべた。
「良いよ、何?」
「今回の本家会議、何故私の出席をお許しになったのですか?」
それだけは聞いておかなければならない気がして、祐一は問い掛ける。夏美は目を細め、ふふっと笑い声を漏らした。
「気になるのも当然だね……。どうしてだと思う?」
祐一はゴクリと息を呑む。とても答えにくい問いだった。何をどう答えても何らかの地雷を踏んでしまいそうだ。その問い掛けに冷や汗を流す祐一の姿に、夏美は微笑む。
「……荒木家はきっと私の代で絶える。だからだよ」
殴られたような衝撃を受けて祐一は目を見開く。夏美を、祐一は知らず知らずのうちに見つめていた。
「……それは、どういうことですか?」
荒木家は夏美がいる限り存続できる。そして、夏美が婿を取れば荒木家は再興できる。
荒木家が絶えるなど到底信じられない。
納得の行かない表情をする祐一に、夏美は言葉を重ねた。
「確信は持てない事だけど……。間違いなく本家は衰退してる」
「荒木家だけではない……と?」
「そういうこと。それがどういう意味を持つのかは私にも分からないけど……、本家はもう、かつてそうであったような強大な力を持っていない。……天宮家と相川を除いて、ね」
祐一が顔に動揺を目に見えて表した。夏美にも完璧な証拠は持ち合わせていない。だが、きっとこれは間違いなく真実だという自信はあった。
「例えば、神林家。あの家はもともと、動物を使い魔として操るのが本質だった訳じゃない。その本質は、霊を操ることにあった。でも、今ではその術は失われている。私達だって、二十式まではあるけれど、三十番代は失くしてしまった」
「確かにそうですね……」
「こんな事を聞かれたら困るけど……、あの家はきっと……」
夏美はその先を言わなかった。言わずとも通じているし、聞かれれば、いくら10本家の当主であっても消されるかもしれなかった。
祐一はほとんどの人間が知らないであろう事に、少女が気づいたことに驚嘆する。祐一自身、その発想には至らなかった。
「だから私はあなたの同行を許可したの」
パクパクと動いた祐一の口からは何も発せられなかった。
「もしも、私が、荒木家が絶えたなら、あなたが荒木家を継ぎなさい」
当主の口から直接告げられた後継の指名だった。夏美の冷たい瞳は揺るがない。
「春日井家は分家第一位、そしてあなたには優秀な娘もいる。ーー春日井舞奈、私の先輩だよね?」
「……はい」
静かに答えた祐一の声は震えていた。
「それが今の私の意志。もちろん、荒木家が存続する可能性があれば、この話は反故に変わるよ。……勘違いはしないで。春日井はまだ、私の分家だよ。その忠誠、私が荒木家当主である限り、私だけに捧げて」
そう言った夏美は高校生の少女には一切見えなかった。臣下を持つ女王の風格、それが荒木夏美にはあった。
春日井祐一はスッとその膝を床に着け、跪く。その動作はとても自然なものに見えた。
「……はい。我等の全ては貴女の為に」
その姿は、最大の礼を女王に尽くす臣下の姿そのものだった。
夏美は、美しくどこまでも冷たい微笑を浮かべる。
「さあ、行くよ。会議に遅れるわけにはいかない」
立ち上がった祐一は、大理石からカーペットに変わった床を歩く夏美の後ろに付き従う。
10本家会議には十人の当主のみの出席しか許されていないため、祐一はその場へは入れない。もともと、祐一の役目は会議室までの護衛なので不都合も何も無いが、この話を聞けたのはとても良かった。
無言のまま二人はそれからしばらく歩き、会議室に到着した。夏美はその扉の前で祐一を振り返る。
「ここまで付いて来てくれてありがとう、春日井」
「いえ、御当主様をお送りするのは私の義務ですから」
もう一度、夏美を迎えに来た時と同じ台詞を祐一は繰り返した。
夏美はそっと頷き、祐一に背を向けて会議室に足を踏み入れた。
夏美のもう一つの姿です
 




