解けるカケラ
楓はやっと感覚が戻ってきた足で地面を踏みしめた。
これが楓が願った事の代償ならば、自分の手で償いたい。……たとえ、勝ち目が無くても。
「いいねェ!その目!……遊び甲斐があるじゃないかァ!」
白樹がニタリと唇を吊り上げる。身震いしそうな身体を抑え、楓は白樹を睨みつけた。
突然白樹が歩き出す。攻撃されるかもしれない、と楓は警戒する。楓の予想に反して、白樹は何かを手に取り、楓の足元に何かを放った。
「っ!」
楓は思わず飛び退る。だが、その必要は無かった。白樹が楓に放ったのは『緋凰』だったのである。
「ハンデだよ!キミが全力を出さないまま決着がついてはつまらないからねェ!」
その言葉は気に食わなかったが、嘘を吐いているようには見えない。楓はそう判断すると、汚れた白い床から刀を拾い上げた。もう床は初めと違って、ヒビが入ったり、血で汚れたりして、面影を薄れさせていた。
楓は静かに刀を抜き放ち、鞘を捨てる。限界まで身軽になる必要があった。赤みがかった刀身が獲物を求めてギラリと光る。楓の瞳もその輝きと呼応するように、冷たく、どう猛な光を放った。
「ふっ!」
鋭く息を吸う。楓の身体が重力を置き去りにした。白樹は笑い声を上げる。
「くはははっ!すごいぞ!まさに化け物だ!」
楓は白樹の放つ紫電を身体を捻って避ける。ただがむしゃらに全力で走った。
「はああぁあ!」
刀を白樹の死角になる場所から振り下ろす。普通の人間にはまず防ぐのが不可能な神速の剣。だが、白樹はそれをもいとも容易く受け止めて見せた。展開された物理障壁に阻まれ、楓は刀から力を抜いて飛び上がる。障壁を足場にしてさらに加速する。
『かまいたち』が放たれた。楓の動きを追随し、見えない刃は迫る。
でも今なら見える!
楓は右に足を踏み出し、刀をぐるりと回すように振る。見えない何かを弾いた手応えがあった。動きを一瞬も止めず、楓は刀を振るい続ける。
しかし、楓にできるのは刃を弾く事だけで、刃は消えない。楓は焦りを感じつつも、刃を弾き返す事だけに集中する。
白樹は『かまいたち』を更に放つ。楓は苦しげに顔を歪めた。
そして、際限なく増え続ける風の刃はついに楓の対応の限界を超えた。
「ぐあぁああ!」
楓は全身を貫いた痛みに苦痛の声を上げる。痛みが意識を漂白していく。楓の身体は更に刃に切り裂かれた。何度も何度も。血が至る所から吹き出し、楓の全身を真っ赤に染める。
それでも、楓は刀を手放さずに立ち続ける。必死で意識を繋ぎとめ、目の前の敵を睨む。
傷が目に見える速度で治っていく。普通ならとっくに死んでいてもおかしくない傷なのに、楓はまだ戦える。
これができるのも、楓が『バケモノ』であるが故だ。
……今だけ、これに感謝しなきゃだな。
肩で息をしながら楓は刀を握る手に力を込める。全身を苛む痛みを意識の外にやって、集中する。
感覚を鋭く研ぎ澄ましていく。微かに聞こえる呼吸音と空調の音。風の動きと、気配。鼻をつく血の匂いと焼け焦げた匂い。それら全てが楓の知覚を通して入ってきた。
「金色の……、瞳、だと?」
白樹が呟きを漏らした。感覚を鋭敏にする為に集中する楓の瞳は、僅かに金色を帯びていた。
楓は自分の眼の色が変わっているのには気づかない。白樹の反応をただ無視して集中する。
……色はいらない。
色彩が消えた。モノトーンの世界が楓の眼に映る。
……もっと速く。
楓が見る世界の時間が緩やかになった。
ボクはみんなを救う!救ってみせる!
最後にもう一度、決意を刻む。そして、楓は再び床を蹴った。
白樹がゆっくりと目を見開く。
楓は斬撃を放つ。右、左、上、下、右後ろ斜め……。全ての角度から閃光のような速度で攻撃する。白樹は見えないほどの楓の刀を全て物理障壁で受け止めた。楓は白樹を傷つける事は出来ない。だが、白樹もまた、動く事が出来ないように見えた。
白樹の顔に笑顔が浮かぶ。
「やはりキミはすごいよ!」
歓喜に満ちた目を楓に向ける。その後笑顔が暗く残忍な物に変わった。
「……だが、キミは私には勝てないっ!」
白樹が全方位に向けて冷気を斬撃のように撃ち出した。楓はまともにそれを受ける。
「がはっ……」
楓の手が凍る。冷たい結晶が手を覆っていた。そして、冷気の刃が楓の無防備になった身体を壁に叩きつける。
「……っ!」
治りかけていた傷が開き、楓の身体から血が流れ出す。もはや痛覚が麻痺して痛みを感じなかった。
「でもっ、……まだ……、倒れちゃ、ダメ、なんだっ!」
口元を伝う血を乱暴に拭い、折れた骨とぼろぼろの身体に鞭を打つ。
「っ、はぁ、……はぁ、ボクは、みんなに、……救われた。……だから、ボクは、お前を倒すまで死ねないっ!」
凍って真っ赤になった手で握った刀を白樹の胸に向ける。今ではもう、刀すら重石のように重く感じられた。
「ムダな足掻きだ!キミは絶対に私には勝てない!なぜならキミはまだ未完成だからだ!」
白樹は言う。『無能』の楓が自分に勝つのは不可能だと。『無能』は霊能力者には勝てないのだと。
そんな事は、とっくに知っている。絶対に勝てないのも不可能なのも。
でも。
「たとえ、……不可能でも、……無理であっても……」
楓は笑った。
「守るものがあるのなら、ボクは、絶対に、折れない!それだけで、ボクは立っていられるんだ!」
「くだらない事を言うのはやめろ!いくらキミがそんなくだらん事に命なんぞかける必要は無い!キミは私の……、大事なサンプルだからねェ!」
楓は今にも崩れ落ちそうな身体で刀を構えた。白樹は冷酷な瞳で楓を冷ややかに見つめる。
「殺すのは惜しいから、もうちょっと動けなくなってから私の人形になってもらおうか……」
白樹が無情に楓に右手を向けた。今までとは桁違いに発動速度が速い。楓はその術式を、避けれなかった。
真っ直ぐこちらに向かってくる風の刃がやけにゆっくりと見える。
避けれないのはわかっていた。でも、楓は一番ダメージの少なくなる所でそれを受けようと身体を微かに動かす。
静かに楓は空中を見つめる。頭は警鐘をかき鳴らしているが、疲れ切った楓には避ける力も無い。覚悟を決めて、心の準備をした。
……死んでも大丈夫なように。
「死なせないよ」
誰かの声が後ろで聞こえた。楓を切り裂こうと迫った無数の刃が不意に燃えて無くなる。そして、楓達と白樹を隔てるように炎の壁が現れた。
楓は後ろを振り返った。
優しい笑顔を浮かべてそこに立っていたのは、担任の佐藤和宏だった。いつもと違うのは纏う空気だ。いつもは服の下に隠している気のような物が、今は殺気のように漏れ出している。
「さ、とう……?」
驚きに目を見開き、楓は呟く。佐藤和宏は楓に向かってにこりと笑いかけた。
「流石だね。楓ちゃん」
「は?」
いつもと違う口調に戸惑い、全身激痛のくせに間抜けな声が口から出た。
「光希君、今の君ならそんな術式簡単に破れるよね?いつまで寝てるんだい?」
その声に光希の身体がピクリと動いた。ふらふらと光希が身体を起こす。
「……うるさい、お前に、言われなくても、……起きている」
激しい痛みの中、光希は霊力を暴走させないように力を抑えていた。三年前に無くなったはずのこの気配は、忘れようとしていた過去さえも呼び覚ましていく。
『俺は伊織を……、救えなかった。』
心の中で呟く。
光希を救い、光希が初めて心から守りたいと思ったあの少女が死ぬのを、光希はただ見ていることしかできなかった。
何度自分を責めた事だろう。いくら自分自身を責めても、嘆いても、伊織は戻らない。わかっているのに、自分を責めずにはいられなかった。
『……そんなに自分を責めないで。光希君は何も悪くない』
意識の奥、どこかで伊織の声がした。伊織の声が聞こえる筈が無い。だが、この声は確かにあの少女の物だ。
『違う……。俺に力があれば、お前は死ななかった!』
頭の中で伊織が困ったように笑った。
『違うよ。私が死んでいくのは当然の事、避けられない未来だった』
『それでもっ!』
光希は頭の中で叫ぶ。光希を救わなければ伊織は死ななかったかもしれない。あの時ちゃんと逃げていれば、伊織は……。
『……光希君は、約束、ちゃんと守ってくれたね』
伊織はぐるぐると回り始めた光希の思考を断ち切るように、そう言った。儚い温もりが光希の身体を包み込む。
光希は目を見開いた。
触れれば解けて消えてしまいそうな透き通った身体が光希を抱き締めていた。
『伊織……?』
光希は自分を見下ろす伊織の紅い瞳を見つめる。透き通った綺麗な赤。白い髪が光希の顔を撫でた。伊織はふふっと小さく笑い声を上げる。
『約束、したよね?……私のことを、覚えていてくれるって……。だから今、私の声が光希君に届いてるの。私は琴吹伊織の心のカケラ。光希君が忘れてしまえば消えちゃうくらい、弱いカケラなんだよ』
伊織は一度、もうする事の無い息を吸うように、間を開けた。
『光希君が本当に守りたい人ができるまで、一緒にいるために、私が託したの』
『どういう意味だ……?』
光希の問いかけに伊織は答える。
『光希君には、もう私は必要ない。その事を最期に伝えに来たんだよ』
『……』
光希はどこか寂しそうな目をした伊織の頰に触れようとする。だが、光希の手は空を切った。
やっぱり伊織は死んでいて、もう戻ってこないのだ。触れられない場所に行ってしまったのだ。
その事をやっと受け止める。すると、夜の凪いだ海のような暗い哀しみが光希の心の奥に静かに沈んでいった。
『俺は、お前の事がきっと、好きだったんだ』
うわ言のように光希はボソリと口にした。伊織が微かに肩を揺らした。本当の伊織が聞いたなら、顔を真っ赤にして腕をぶんぶん振り回すだろう。だが、琴吹伊織のカケラである目の前の伊織は、嬉しそうに笑っただけだった。
『うれしい。……でも、もう光希君には守りたい人ができた』
伊織は目を外に向けた。光希の視界に楓の姿が映る。
楓は縦横無尽に宙を駆けて白樹に攻撃を放っていた。どれだけ頑張っても、楓に白樹は倒せない。楓はそれを一番よく知っている。
『っ!』
楓の身体から血が飛び散った。『かまいたち』に全身を刻まれ、白い床を真っ赤に染める。普通の人なら死んでいてもおかしくないその傷でも、楓はまだ両足で立っていた。
いても経ってもいられなくて、光希は意識の中で手を伸ばす。激痛が走った。伊織が心配して光希の額にそっと触れる。
『……すごく優しい子だね。誰かの為に命を懸けられる優しい子。自分の事を、全部無視して誰かの為に全てを懸ける……。光希君が守りたくなるのもわかるかな、悔しいけどね』
伊織の温もりが薄れていく。
『……だから、あの子を守ってあげて。こんな術式なんて、今の光希君を縛ることなんかできない』
伊織の身体が暖かい光の粒子になって溶け始めた。伊織は今までで一番優しい満月のような笑顔で笑う。
『……立って、光希君。今の光希君が守りたいものを、守り抜いて』
『ああ、ありがとう、伊織……』
本当にそうなっていたかはわからないが、光希は自分の声が震えていたように感じた。いや、きっと今の光希の顔は人に見せられない顔になっているに違いない。心の中だから余計に。
光希は伊織の最期の力を借りて、術式に抗う。伊織がいなければ、ずっとここに囚われていたかもしれない。
『天宮……!』
ボロ切れみたいになっても戦い続ける楓を守る為に、光希は術式を破壊する。自分に掛けていた戒めを解いて。
『……ありがとう、光希君。……わたしは、ずっと光希君の心の中で生きてるから……』
伊織は囁いた。光の粒子が解け散る。光希はその温もりの名残を握りしめ、目を開けた。
「光希君、今の君ならそんな術式簡単に破れるよね?いつまで寝てるんだい?」
知っている声が聞こえた。光希はゆっくりとふらつく身体を起こし、答える。
「……うるさい、お前に、言われなくても、……起きている」
天宮楓を今度こそ、救う為に。
まさか……、の人物が二人も登場。
一週間ほど更新できませんが、よろしくお願いします。
 




