血の真実
楓は走ってくる足音を聞いた。間違いなく光希達だ。
ちゃんと声は届いていた。楓の声に気付いてくれた。
嬉しい、な……。
楓の目から一筋の涙が伝い落ちる。優しい輝きを持つその雫はまるで光のようだった。
「天宮っ!」
「楓!」
「楓っ!」
涼と夕姫の声も聞こえる。光希がとうとう姿を現した。薄暗い部屋の中、楓は光希の必死な表情を目にする。光希は荒い息を吐くと、楓の姿を見つけて目を見開いた。
「天宮……、良かった……」
少しだけ安心したように光希は顔を緩ませる。その顔を見て、楓は微笑んだ。
信じる覚悟は間違ってなかった。
信じて良かった。
暖かい気持ちが冷たい身体を溶かしていく。知らない内に悴んでいた指先は温もりを取り戻した。
足音が大きくなり、光希の後ろに涼達も姿を現した。全員制服が所々焼け焦げ、疲労を滲ませている。楓の知らない間に何かあったようだった。だが、それでもここにやって来てくれた。それが楓には何よりも嬉しかった。しかし、最後に部屋に入って来た人を見て、楓の顔は強張った。
「仁美ちゃん……⁉︎」
楓の前に立っていた白樹啓一が振り返る。白樹は光希達と一緒に現れた仁美の姿に、楽しそうな表情で唇を歪ませた。その顔は笑っているようにも見える。それが余計に不気味だった。
パッと部屋に明かりが灯る。
薄暗い部屋が突然眩しく照らされて、楓は目を細めた。目が慣れると、部屋の詳細がよく見て取れるようになる。
思ったよりも大分この部屋は大きかった。白い照明に照らされた床は白く光を反射し、広い空間を作っている。紙と研究用具で散らかっていたのは楓の周りと後ろだけだった。
楓と同じように目を細めていた光希達は、目が慣れると直ぐにゆっくりと楓の方に歩いてくる。仁美もまた、青ざめた顔でその後ろに付いていた。
見るからに体調が良くないのがわかる。仁美の顔は蒼白で、その足取りはふらついておぼつかない。今にも倒れそうだ。近づいてくると、その苦しそうな息遣いも感じられる。夕馬が心配そうにその顔を見ているが、仁美はただ前を向いて歩いていた。
「3番、苦しいだろう?」
白樹は笑顔で仁美に問いかける。名前すら呼ばず、ただ3番と呼んで。
「……」
仁美は荒い息を吐いて胸を押さえた。だが、それでも白樹を敵意に満ちた視線で睨みつける。
楓は仁美がこの行動を取る理由がわからずに、呆然とその姿を見つめた。
「まさか、オマエが裏切るとはねェ?意外だ、実に意外だ」
楓は思わず仁美の顔をまじまじと見つめてしまった。仁美が初めから楓達の為に動いていたとすれば……。
……それならあの行動の意味は?
必死に理由を考えようとする。だが、その間にも仁美の息は更に荒くなっていく。仁美の身体がぐらりと傾いだ。
「仁美ちゃんっ!」
楓は仁美の名前を悲鳴のように口にする。6年前のあの時のように。ただ、今度はあの時とは違い、仁美は倒れながらそっと微笑んだ。
その表情で理解する、仁美はまだ、楓の親友でいてくれていた事を。そしてそれを認識した途端、言い様のない感情が胸から溢れ、楓は俯く。
見限ったのは楓の方だ。仁美を裏切っていたのは楓自身でもあったのだ。
楓は仁美に向かって手を伸ばそうとして鎖に引き止められた。
「それ以上逆らえば死ぬぞ?……オマエはそういう風にできている!」
白樹は言葉とは真逆の愉快そうな顔で言う。白樹が興味あるのは命令に逆らおうと足掻く仁美の様子だけだ。仁美自身が壊れようと、玩具が一つ壊れたくらいにしか思わないだろう。
「……わたし、は、もう、……誰も、裏切り、たく……ない。3回目は……楓ちゃんを……、裏切り、たくない」
仁美はままならない身体を少し持ち上げて、ガラスの瞳に初めて強い光を灯した。意志という名の眩しい光を。
「……そのため、なら!わたしは、壊れてもいい!」
「なら壊れろ」
恐ろしく冷たい声を白樹が発した。地に伏した仁美の身体から白い霊力の粒子が立ち上る。それはぼんやりと鎖を形作り、仁美の身体を縛り付けた。その鎖は、今にも仁美ごと砕け散りそうに小刻みに震えている。
「……うぅぅ」
仁美の人形のような顔が苦痛に歪む。白樹の右手が仁美に向けられた。仁美を縛る霊力の光が増す。
「壊れろ」
白樹の命令が仁美の身体を縛る。仁美の身体がビクンッと不自然に痙攣した。
「小野寺さんっ!」
夕馬が手を伸ばす。だが、霊力が仁美の身体を飲み込もうとするのは止まらない。
楓にもすらわかる。仁美の身体をアレが覆い尽くせば、仁美の命が消えてしまう。無力な楓はただ祈るしかできない。
誰か……、仁美を……。
白い粒子が完全に仁美を包み込む。楓は思わず目を瞑った。
「くっ、あははっ、面白いねェ!」
白樹の狂った笑い声に楓は目を開ける。仁美はまだ生きていた。光希、涼、夏美の3人が直前に術式に干渉し、食い止めたのだ。そしてそれに一番驚いていたのは仁美自身だった。
仁美は目を見開き、自分を助けようとする3人の顔を見上げる。光希達は仁美を守るように前に立ち、白樹啓一を睨みつけていた。
「だがしかし、この術式を解除する事などできないのを、相川光希、オマエはよく知っているだろう?」
「……」
光希は何も答えない。
「……琴吹でも使わない限りなァ!」
「っ!」
光希の顔を一瞬激しい感情が過った。光希の手が拳を作り、感情を抑えている。涼と夏美もまた、顔を強張らせていた。
「最高傑作の琴吹は本家の手先に壊されたから琴吹はもう作れなくなったがな。つまり、だ!オマエ達に3番は救えない!」
「くっ……」
光希は悔しそうに顔を歪める。その顔で、楓は仁美をあの呪縛から解き放つ方法がない事を悟った。
「……だが、まあ、3番はどうでもいい」
白樹は突然仁美を殺そうとしていた術式への干渉を緩めた。白い光は仁美の身体へと戻っていく。光希達はそれに合わせ、干渉をやめる。今の状態なら、まだ大丈夫だ。依然として仁美は苦しそうだが、死の危険は少しだけ遠ざかった。
その事に安心したくなる。だが、白樹の意図がわからない。その事の方がよっぽど危険だった。
「……どういうつもりだ」
光希が低い声で尋ねる。白樹啓一は笑顔で光希を見た。
「私が興味あるのはキミと天宮楓だけなのだよ!」
空気に緊張が走った。光希は一瞬楓と目を合わせる。大丈夫か、と言っているようだった。楓は身体能力を奪われている事を悟らせないように、ニヤッと笑って返す。光希は微かに頷いた。
「なぜ、俺と……」
「キミは私の最高傑作だからだよ!」
光希の質問を最後まで聞かずに白樹が遮る。
「知ってるだろう?相川光希、……いや、九条光希!」
光希が驚きを隠せずに呟く。
「……九条?」
驚愕に顔を染めた光希の顔を見て、夏美が疑問を口にした。
「九条は15年前に滅びた家、……羽柴家が本来仕えていた家……。それが、なんで……?」
「つまり光希は、精霊魔術の使い手って事なのかっ⁉︎」
夕馬が夏美の呟きを受けて推測する。無表情に戻った光希は表情を変えずに白樹を睨む。
「キミは相川だけでなく、九条の最高傑作でもあるのだよ!非常に貴重なサンプルだ!おそらくもう二度と再現できないだろう!……そして、キミが私の思った通りのできならば……」
白樹が術式を手の上で構築する。複雑過ぎて光希にもわからないその術式は、光希にチリチリと緊張を与えていた。
「……涼、わかるか?」
涼は首を振った。光希の問いかけはあの術式についてだ。
「ごめん、僕にもサッパリだよ……。夏美は?」
「……あんな術式、見たことないよ……」
夏美は目を懸命に凝らしているが、それでもわからない。夏美はハッと思いついたように木葉に問いを投げる。
「木葉っ!わかるっ?」
一番遠くにいた木葉はトンッと跳んで、距離を縮める。術式を見た木葉の顔色が変わった。
「それはっ!」
「……これが効く筈だ!」
木葉の警告の前に白樹の術式が発動する。と、同時に光希が膝を折った。
「……ぐっ……」
光希は床に足をついて、何かを堪えている。だが、その他の人には何の影響も無かった。木葉が血相を変えて叫ぶ。
「その術式は、精霊を縛る術式よっ!光希には毒にも等しい」
「……てことは、光希は精霊使い、なんだね?」
夏美が木葉を見ずに言った。
「……ええ、そうよ」
「なら、……アイツを殺せば、光希は助かる」
夏美が暗い笑みを浮かべる。夏美の身体は殺気に包まれていた。
「涼、夕姫、……やるよ」
涼と夕姫は刀を抜いて頷いた。
光希の身体から少しずつ蒼い粒子が漏れ出す。それらはきらきらと輝きながら舞い始める。
3年前から無くなった暴走の気配だった。
光希は歯を食いしばり、脳が焼き切れそうな痛みに耐える。
(暴走なんて……、できない!)
「相川っ!」
楓は苦しそうに顔を歪める光希に呼びかけた。光希は楓の声に気づいていないように見えた。それほどまでに余裕がないのだろう。
……ボクに、もっと力があれば……。
楓は己の無力さを呪う。もしも楓に力があれば、こんな事にはならなかった。光希と仁美をこんな風に苦しめる事にはならなかったはずだ。
でも……。
もうこの状況は変わらない。
悔しい。悔しい。悔しい。
それでも楓は無力に鎖に繋がれて、見ている事しかできない。
不意に涼と目が合った。涼は楓に向かって笑ってみせる。制服が焼き焦げ、疲れている筈なのに。
だから楓は涼に向かって、頼んだよ、と伝える為に微笑んだ。涼はその楓の表情の意味を理解し、頷いた。
「夏美、援護は頼んだよ」
「うん、さっさとあのクソジジイを倒さないとね」
夏美の言葉が荒れる。夕姫は真顔で呟かれた罵倒に少し呆れたような表情を見せた。しかし、その顔をすぐに引き締め、刀を白樹に向ける。そして涼は地面を蹴って飛び出した。
「『陽炎』っ!」
涼は術式を発動させる。涼は同時に刀を手放した。涼の刀が何十本も空中に現れる。本物一つを含め、陽炎の刀が49本。涼は更に術式を展開する。
「『雷火』」
閃光が走った。ただの陽炎だった刀は雷電を帯びる。これならどれに当たっても傷を与えられる。中に混じった真剣が当たれば致命傷になるだろう。
これが涼の戦い方だ。光希のように火力で押し切るのではなく、地味な術式を幾重にも張り巡らせて策で勝つ。一つ一つは戦いには適さない術式でも、涼は術式の全てを知り尽くして使いこなすのだ。
「今回ばかりは僕も許さないよ」
涼は軽やかに床に着地する。冷たく白樹啓一を睨む。それと同時に無数の刃が放たれた。
 




