良子さんの悪魔な笑顔
「でもさ、……なんで護衛なんか……」
木葉は護衛に賛成しているようだが、やっぱり楓は納得がいかない。
「まだ認めていないのね」
木葉の声には責めるような色は無い。楓は少し安心して頷いた。
「ああ、……ボクは自分の身は自分で守れるように、強くなる為に先生に武術を教わった。それなのに護衛なんて、さ」
縁側に着いた手に力がこもる。ミシッ、そんな音が聞こえ、慌てて手を離した。木葉は楓の肩に優しく手を乗せる。楓は無意識に強張らせてしまった身体からそっと力を抜いた。
「……護衛の何が嫌なの?」
木葉の質問には答えられなかった。自分でもわかっていないからだ。
「分からない……。でも、ボクには誰かに守られる資格は無いんだよ。だってボクは……」
……バケモノだから。
その言葉はどうしても口に出せなかった。
沈黙が2人の間に降りる。
「楓様、少し良いですか?」
その時、声が頭上から降ってきた。この声は良子の物だ。楓は恐る恐る顔を上げた。
ニコリと良子が微笑んだ。何故か寒気がしてきた。この顔は何かの予兆ではないか……?
「……何ですか?良子さん」
声がぎこちないのはたぶん気のせいである。もう一度、良子はニコリと笑顔を見せた。楓の背中を冷や汗が伝っていく。微妙な緊張感の中、良子は口を開いた。
「相川光希様と森を散歩してきてはいかがでしょう?」
「……?」
耳を疑った。何故良子が楓と光希を一緒にする理由が読めない。楓は目を瞬いて、良子の顔を見る。
「今、……何て?」
良子の唇が微笑みを形作る。
「相川光希様と一緒に森を散歩してきてはどうでしょう?」
「……う、嘘ですよね?」
何故あんな奴と散歩せねばならない⁉︎
期待して楓は聞いてみる。
「いいえ、嘘ではありません。光希様と森を散歩してくるのはどうでしょうか?」
もう一度、良子は楓の瞳を真っ直ぐに捉えてそう言った。その笑顔の恐ろしさに楓の喉は空気を吸ってヒッと音を立てる。
「行って来なさいよ、楓」
木葉が隣で楓に囁く。
木葉も敵か……。
良子の笑顔は楓の周囲の温度を徐々に下げている。楓は謎の冷気に身震いをし、カクカクと頭を振った。
「い、行きます……」
良子が今度は満面に笑みを浮かべた。零度を切っていた体感温度は急激に上昇。楓は春の暖気に包まれた。……あくまで体感だ。
「ほらほら行ってらっしゃいよ〜」
木葉に促され、楓は渋々立ち上がる。良子が前を歩いて玄関まで案内を始め、木葉が楓の逃げ場を塞ぐように後ろを歩く。
このままではまたあの無愛想エリートに会う羽目になる。
くそぉっ、と内心地団駄を踏みながら、結局楓は玄関まで連行されていく。
「木葉ぁ……」
後ろを歩く木葉に温情を求め、楓は手を伸ばす。
「棄てられた子犬みたいな顔をしても駄目よ。ここであなたを逃したらつまらないじゃない」
「くっ、初めからそのつもりだったのかー!」
ふふふっと妖しく笑う木葉に、楓は恨めしげな視線を向ける。だが、普通に無視されてしまった。良子は一瞬そんな楓に向かって冷たく微笑んだ。
逃げたらどうなるか分かっているわよね?
つまりはそういう事だ。どうなるかは全然分からないが、命の危険がありそうである。楓は肩を落として大人しく再び沈黙した。
玄関に着くと、もう既に先客がいた。良子の顔を見て無表情が青ざめる。
「相川光希様、よろしくお願い致しますね」
無言で即座に頷く。連行される楓を見て、光希は顔を引きつらせた。
どうやら光希も良子さんに脅されたクチだろう。あの無表情が青ざめるのだ、一体どう脅されたのかが気になる。……まあ、知りたくないが。少なくとも楓以上に脅迫されたのは確か。楓はまだ通常状態の良子を見ても顔を青ざめさせる程ではない。
良子さん怖っ……。
楓は身震いし、良子の顔を伺った。良子さんはやはり優しく微笑む。楓はその恐怖に思わず後退りすると、靴を履いてしまった。
あっ。
どうやら良子さんの思い通りの展開になってしまったみたいだ。木葉はにやぁと意地悪く笑い、楓に手を振る。
「いってらっしゃい、楓、光希」
「「……」」
無言で動こうとしない2人に良子がさらに追い討ちをかけた。
「いってらっしゃいませ、天宮楓様、相川光希様」
楓と光希は一瞬互いの顔を見合わせた。光希は険悪な目で楓を見て、楓もそれまた険悪な目で光希を見る。一瞬の交錯の間の事だけだったが、雰囲気がとても悪いのは直ぐに察せられる筈だ。
やたらとニコニコする木葉と良子の視線に耐えきれなくなり、楓と光希は無言かつ青ざめた表情で追い出されるように外に出た。
外に出た途端、心が軽くなり楓は安堵の息を吐いた。光希も微妙に表情が明るくなった、ような気がする。
楓はチラッと後ろを何となく振り返る。
すると何やら口パクする木葉と目が合った。
あ、い、さ、つ、と口が動いている。
つまり、光希と挨拶をしろという事なのだろう。コイツに挨拶するのが癪で仕方がないが、しなかったらしなかったで後で絞められそうだからやるしかない。
楓はぎこちなく笑顔を作り、光希に話しかけた。
「……えっと……、よろしく、相川」
ギロッと睨まれる。楓の顔は凍りついたように動かなくなる。
ヤバイヤバイヤバイ。
睨み合う蛇と蛙のような状態で立ち止まる楓と光希。
そして、光希が一緒視線を楓から離した。光希の顔が引きつり、ゆっくりと顔が笑顔を作る。
学校で見たあのイケメンスマイルだ。
感情のない作り笑い。
綺麗な笑顔の筈なのに、周りを拒絶し牽制するような雰囲気を放っている。
光希はその顔で楓を見た。
「……よろしくな、天宮」
「あ、ああ……」
なんかお互いに挨拶させられてしまった!
結局これも木葉達の計略通りだろう。まんまと載せられた自分が悔しい。光希も同じかと思い、その顔を見上げてみると早々に笑みが消えて無表情に戻っていた。
楓は意味もなく地面の草を蹴る。千切れた緑色の葉がパラパラと風に乗って飛んでいった。風はもう春なのに少し肌寒かった。
「……行くか」
隣で光希が呟いた。楓は首を傾げる。
「どこに?」
光希の顔が明らかに呆れた表情をした。これはバカにされているのではないだろうか。少しイラッとした楓は、光希の顔を真正面から睨みつける。光希はそれを無視して鬱蒼とした森の方へと歩き始めてしまった。
「だから、どこに行くんだよ」
ここに1人で放り出されてしまったらどうしようもないので、楓は光希を追いかけた。
「……散歩だ。藤峰さんから言われただろ」
光希はぶっきらぼうに答え、楓は合点が行って頷いた。
「……そういえばそうだな……」
そうして楓と光希は森へ足を踏み入れた。
***
森へ消えていく2人の姿を木葉と良子は眺める。木葉は良子に声を掛けた。
「悪いわね、汚れ役みたいなことをやらせてしまって」
「いえ、あの2人為ならばそんな事、大した問題ではありませんよ」
良子は己の娘を見るような温かい目で楓の背中を見守る。楓は良子が4年近く側で見てきた少女だ。ずっと楓が不遇な扱いをされているのは知っていたが、良子にはどうすることもできなかった。それは後悔だった。
木葉は良子の表情に滲む悔しさに気づいたが、何も言わなかった。
「光希があんなに感情を露わにするのはとても珍しいわね」
「はい、いつもは自分の感情を隠すのがとても上手なのですが、楓にはどうもそうではないみたいです」
その理由なら、木葉も良子も心当たりはある。
木葉は姿が見えなくなってしまった2人の代わりに近くの木に目をやった。枝の先で2枚の葉が風に煽られている。プツリと1枚、枝から離れて飛んでいった。
「やっぱり、まだ3年前の事を引きずっているのね」
木葉は目を伏せた。木葉が気にするその事件。良子は間接的にしかそこで起こった事を知らない。
「……そうですよね。あんな事があってからでは、この任務を受けたくないのも当然ですね……」
「ええ、もしも同じような事があれば、私でも気にしてしまうかもしれないわ」
良子は瞬きをした。
意外だった。
木葉の正体は謎に包まれている。年齢も分からなければ、その能力も分からない。天宮家に仕える良子でも彼女の正体を知る権限を持ち得ない。それどころか、知っているのは天宮家の当主、ただ1人だけかもしれない。
それでも良子が知っているのは、彼女が感情も思いも決して他人に悟らせず掴ませないという事。
そんな木葉がそう言うのは、とても珍しい事のように思えた。
「そうなんですか?」
木葉は肩を竦めてみせる。
「さあ? 本当にそうなった事がないから分からないわ。……それでも」
木葉はその先を言わなかった。良子は気になって思わず聞き返す。
「それでも……、何ですか?」
「いいえ、何でもないわ。それより、あの2人、仲良くなれると思う?」
悪戯っぽく美しい顔を動かす。夜の海のような黒々とした瞳がキラリと楽しそうに煌めいた。
「どうでしょうね……」
良子は考える。光希は楓を遠ざけようとしているし、楓も護衛を拒否している。お互い打ち解けるにはとんでもない時間がかかりそうだ。
「時間はかかりそうですが、……もしも互いに打ち解ける日が来れば、それはあの2人にとってとても良い事なのかもしれません」
「というと?」
「相性抜群という事ですよ」
良子は微笑んだ。木葉はニヤリと唇を吊り上げた。
「私もそう思うわ。そして、あの2人ならもっと強くなれる」
「はい、間違いなく」
良子は木葉の自信たっぷりのその言葉に頷いた。きっとあの2人には互いが必要だ。そして、欠けた物が埋まれば二つと無い何かを、見つけられる。
脅されまくる楓と光希……




