天宮家の朝
楓の朝は不意に訪れた。
ベッドの中で目を開く。身体が少し重く感じられた。カーテンの隙間からぼんやりとした光が差し込んでいる。日が昇ってからまだあまり時間は経っていないようだ。
「んんーっ」
伸びをして起き上がる。
ここは何処だろう。
そんな疑問が心に浮かんだ。その時、昨日の出来事が頭に蘇ってきた。溢れ出す情報の多さに楓は顔をしかめる。
楓は天宮家の人間になったのだった。母親の名は天宮桜。先代当主にして故人。
そして、相川光希というクラスメイトが楓の護衛になったのだ。
長い黒髪を引きずってベッドを降りる。音はせず、楓の足はカーペットに触れた。新品の布はやけにすべすべしていて落ち着かない。
楓は腕に巻いていた空色の紐で髪を一つに結わえた。
「はぁ……」
溜息が出た。このまま二度寝したくなってきたが、そういう訳にもいかないだろう。
目尻の涙を指で払い、楓は青波学園の制服に手を伸ばした。
(この制服、ボクが着てても良いのかな……)
これは五星学園の頂点に立つ青波学園の制服だ。『無能』である自分が着て良い物ではない。
だが、青い差し色の入ったその制服は、悔しいくらいに楓にぴったりで昔から着ていたような気分にさせられるのだった。
部屋にあった時計に目をやる。
時刻は午前6時過ぎ。
微妙な時間だ。する事も無いので散歩でもしようと思いきや、ここの地形が全く分からない事を思い出して断念する。もしフラフラでもすれば、また迷子になって彷徨うのがオチだ。
楓は鞄に手を伸ばし、本に手を伸ばした。
こう見えても楓は本が好きな方である。本の世界に浸っていれば、誰にも煩わされる事なく静かに過ごせる。だから読書は孤児院で独りだった楓の数少ない安らぎの時間になっていた。
紙の感触を確かめながら、本を開く。
文字を目で追い始めたが、内容が頭に入ってこない。何度読んでも、中身は上滑りしていくだけ。考えてしまうのは、やはり昨日の事だった。
木葉と光希は何者なのだろう。
光希はまだ何となく立場は分かったような気がするが、木葉は全く掴めない。
性格もそうだが、その経歴やなんかも掴めなさそうだ。それも、頑張って振っても何も出ないようなそんな感じで。
天宮家当主は楓の事をよく知っているように見えた。知られたくないような事まで知っている。
楓の顔が曇った。それはすぐに掻き消える。
なら、楓に護衛を付ける意味はあまり無いのでは、と思うのだ。
楓は自分の身は自分で守れるだけの技術を叩き込まれている。
……他ならぬ相川みのるの手によって。
それに、光希は護衛という任務を心底嫌がっているみたいで、楓には冷たい。
別にそれは嫌ではない。むしろ優しい方が裏がありそうで怖い。
だがとにかく、護衛をやる気は毛頭無いという事だけはとてもはっきりとしているのだ。
ーーどうしてあんなに頑なに護衛を嫌がっているのだろう。
楓が護衛は要らないと思うのは、漠然とした護衛への忌避感からの感情というのもあるが、光希のように明確な何かがある訳ではない。
その理由は少しだけ気になったが、それだけだった。
楓はパタンと本を閉じた。1ページも読んでいない。楓は立ち上がり、窓の外を見る。外は霧が立ち込めて、沈んだ空気が流れているのが見えるようだ。
護衛よりも、天宮家という名前を正式に継いだ事が1番嫌だった。
楓にはよく分かる。
それに値しない人間が実力以上の評価を与えられた時、周りの目がどうなるか。
それは……。
楓は首を振って嫌な考えを振り払う。
楽観的に考えよう。
まだバレていない。楓が『無能』である事も、あの事も。
それでもやはり『無能』だというのはすぐに分かってしまうだろう。霊能力者を育成する学校でそれを隠し続けるのは不可能というものだ。
楓は溜息をもう一度吐いた。短い吐息。
全てがバレた後、それが楓の終わりだ。
覚悟はとうの昔に出来ている。
全てを敵に回し、嫌われる覚悟は。
楓は無意識に唇を噛んだ。
トントン。
ドアをノックする音が聞こえた。楓は笑顔を作る。
「どうぞ」
ギィッ、とドアが開き、良子が姿を現した。
「楓様、朝食の時間でございます」
「わかりました」
楓は部屋の時計を見る。いつのまにか7時近くになっていた。楓は良子に向かって優しく微笑む。良子も微笑んで返してくれた。それだけで楓は自分の気持ちが軽くなるのを感じた。
良子に連れられて、楓は朝食に案内される。廊下を歩き、どこかの広めの部屋に通された。そこにあったのは白いテーブルクロスがかけられた豪華な食卓が用意されていた。楓は場違い感を感じて、顔を少しだけ引きつらせた。
「木葉、相川」
楓は一足先にテーブルについていた二人に目を見開く。木葉はニコニコと手を振って来た。
「おはよう、楓」
「あ、おはよう、木葉」
楓は横目で光希の顔を見る。光希の顔はやはり無表情で、何の感情も読み取れなかった。
***
今までの生活とは比べ物にならない贅沢な朝食を終え、楓は昨日の縁側に腰を下ろした。
縁側は朝の暖かい日差しに照らされて、ポカポカしている。
こうしていると、全てが夢みたいに思えてくる。
孤児の少女が特別な家に拾われる、そんな物語みたいに。
現実はそんなに甘くない。考えれば考えるほど夢物語な設定など受け入れられない。
昔読んだ小説には似たような設定の話があった気がするが、悲しいかな、その主人公は特殊な能力は使いたい放題していた。
……よし、結論。これは全部夢だ。ただのタチの悪い夢だ。
そして夢ならば覚めなければならない。
楓は古典的に自分の頰を引っ張ろうと手を伸ばし……。
「夢じゃないわよ」
「ひっ!」
急に後ろで声がして、楓は飛び上がった。反射的に後ろの人を殴ろうとした手を止める。
楓を驚かせた張本人は優雅に腰を下ろした。木葉は一筋の黒髪を耳にかけると、悪戯っぽく微笑んだ。
「ねぇ木葉、木葉ってもしかしてエスパーだったりする?」
「……」
木葉は突然お腹を押さえた。肩もピクピクしている。
「だ、大丈夫か⁉︎」
楓は木葉がお腹の痛みで痙攣していると思って、慌てて木葉の背中に手を当てた。
「アハ、アハ、あはははは! か、楓、エスパーって本気⁉︎ ば、バカなの? アハ、アハ、アハ」
木葉が全力で笑いこけている理由がわからない。楓はただ、魔法的な能力の中にエスパーみたいな能力があると思っただけだ。なぜかけなされているような気がする。一瞬でもお腹が痛いんだ、とか思った自分を呪いたい。
「アハ、あは、はぁー」
一回深呼吸をして木葉は息を整えた。
「あのね、エスパーなんて人種いないのよ。誰でもいきなり頬をつねろうとする人を見れば、この人今夢の世界にいると思ってるんだなー、ってわかるでしょ!」
「なるほどー、っていうか、また、けなしたよな?」
ジトっと木葉を見るが、満面の笑みを向けられた。
「そんなこと、してないわよ」
あー、こいつ認める気ないな、と楓は悟った。
「まあ、それは置いといて、本題!」
置いとくんかーい! 楓は心の中でツッコミを入れる。
木葉は目を細めて真面目な顔を作った。真剣な話を始めるようだ。
「あなたも……、大変よね」
「ん?」
木葉は楓の瞳を覗く。何もかも、見透かされているような気分になった。
「天宮家の名前はあなたには重過ぎる。この名前は無能力者に背負えるものでは無いわ。それでも背負う覚悟、あなたにあるのかしら?」
「……覚悟なら、できてる。木葉が言うものとは違うと思うけど」
楓は自分の膝に視線を落として言った。
木葉は微かに不思議そうな顔をした。
「どういう覚悟なのか、聞いても良い?」
「……全てを敵に回す覚悟だよ」
自嘲の笑みを浮かべる。木葉の目が哀しむような、憐れむような、そんな色を浮かべた。それから木葉は妖しい笑みを見せる。
「そう……。ところで、天宮家の次期当主候補になったのも大変よね」
「……。はぁあっ⁉︎ な、何それ聞いてないよ⁉︎」
驚きのあまり立ち上がり、楓は叫ぶ。
木葉は惚けて首を傾げた。
「あら? そうなの? 知らされていると思ったのだけど」
「聞いてない! 一体全体どういう事だっ⁉︎」
楓はドスンと乱暴に縁側に座り直し、木葉にずいっと顔を寄せた。木葉はその剣幕にもどこ吹く風で微笑んでいる。
「天宮家にはあまり人がいないのよ、その特殊な力故に。それで、当主を継げる人間はあなたを含めて2人しかいないわ」
「なら、その人が普通に次の当主になれば良い。ボクは『無能』だし、そんな役割には絶対向いてないよ」
「そういう訳にもいかないのよね。確かに実力はあるわ、あのーー青波学園の生徒会長にも」
それならもっと楓よりも相応しいではないか。楓が次期当主候補になる必要がない。
「でも、御当主様はあなたを次期当主に望んでいらっしゃる」
今度は驚きすぎて声が出ず、間抜けに口がぱかっと開いた。
「……どうして?」
しばらくしてやっと口から出たのはその一言だった。木葉は柔らかな風に煽られた髪を押さえ、ニヤリと唇を動かした。
「あなたが天宮桜様の娘だから」
一瞬の沈黙に、風の音が大きくなった。直ぐに風は通り過ぎていく。
「木葉も……、そう思ってるの?」
何となく聞きたくなって聞いてしまった。火に手を突っ込んで火傷をわざと負いに行くように。
「ええ」
長い睫毛を揺らし、木葉はそう口にする。
ーー天宮桜の娘だから。
つまりはそういう事なのだ。楓でなくても良い。知っていたけれど、少しだけ胸が疼いた。
「そっか」
別に何でもないというように、楓は素っ気ない返事をした。
「そういえば、相川光希と模擬戦をしてたわね?」
「あ、うん」
突然聞かれて咄嗟に頷く。
「結構光希も強いでしょ?」
「うん、久しぶりに苦戦させられたよ」
驚いた顔で木葉が瞬きをする。
「あれで? あんなに早く決着が着いていたのに?」
「久しぶりに全力を出させられた。相川は強いよって、見てたの⁉︎昨日の⁉︎」
木葉はこくりと頷いた。楓はさっきの質問は木葉にとって必要無かったのではないかと思った。
「そうよ。でも、光希は霊能力と武術を併せて初めてその真価を発揮するわ。それに、『九神』のメンバーだから、護衛には申し分無い実力よ」
「くじん?」
聞き慣れない言葉をもう一度繰り返した。
「あなたは……、知らなかったわね。『九神』は魔獣や霊獣を殲滅する特殊部隊の名前よ。霊能力者でも、ほんの一握りの実力者しか入隊を許可されないの」
「は、はあ……、そんなにすごい人だったの、あの人……」
チッチッチと目の前で指が動く。
「それを言うならあなたが武術を教わったあの人は『九神』の中でも群を抜く実力者よ」
「は……!」
実は楓はとても恵まれていたのかもしれない。そんな実力者に武術の稽古をつけてもらっていたなんて、一部の人から苦情が来そうだ。
「……ボク、すごい人に稽古つけて貰ってたんだな……」
「そう。その相川みのるが目をかけているからどれくらいの実力かと思っていたら、まさか光希をああも簡単にブチのめす程だとはねぇ……」
なんだか悪い事をしてしまった感があるのだが……。
「あ、別にそういう事じゃ無いのよ。とても感心したというだけだから」
「なんで人の考えてることが分かるんだ……?」
木葉の読心術に平伏しつつ聞いてみる。
「人間の思考は読みやすいのよ〜。特にあなたは」
「……」
何も言えなくなった楓だった。




