二週間後の朝
朝、楓は教室棟へと足を動かしていた。隣に木葉がいるが、何やら考え込んでいるようで、会話ができる状態には無さそうだ。楓はそれを確認すると、思索を始めた。
あれから二週間が経つが、仁美が楓に接触してくる気配は一切ない。あの含みのある言い方からすると、何か仕掛けてくるような気がした。だが、それも一切無いため楓は気を緩め始めている。
仁美は一体どういうつもりであんな事を言ったのだろうか。その疑問だけが頭の中をぐるぐると回り続けていた。あの時は涼に動揺し過ぎて、碌に考える事もしなかった。こうして後から考えると仁美の発言は色々とおかしかった事が浮き彫りになる。
(あの子は本当に仁美ちゃんなのかな……?)
そんな疑問が頭を離れない。同じ人間である事は断言できる。顔も声も髪の色もみんな仁美の物だ。それなのに、どうしても仁美本人だとは思えなかった。仁美はあんな人形のような少女では無い。親友だったのだ。それくらいわかる。
楓は地面に視線を向けて考え込む。
「……うーん」
どかっ。
誰かの背中に頭をぶつけた。楓はそれも御構い無しに考え続ける。
「……おい」
不機嫌な声が降ってきた。
「おい、天宮!」
「はっ!な、何⁉︎」
楓は語気が荒くなった言葉にやっと気づいて顔を上げる。光希が眉を寄せてそこに立っていた。楓はそれに安心して口走る。
「……なんだ、相川か」
ピキッ、と光希がした気配があった。それに気づかない楓は腕を組んで、再び仁美についての考察を始めようとする。
「……なんだとはなんだ。……天宮」
「ん?あれ?なんで怒ってるの?」
楓はキョトンと首を傾げる。どうして自分は光希に怒られているのだろうか。光希は楓をギロリと睨んだ。
「人にぶつかっておいて何なんだよ、無視かよ」
「え?別に相川だから良いかな〜、みたいな?」
光希はふう、と深い溜息をついた。楓は光希に謝る気はゼロらしい。何とも雑な扱いである。光希はボヤいた。
「おいおい……。俺の扱いは何なんだよ。人にぶつかったら普通に謝れ、バカ」
「バカとはなんだ!バカとはー!ボクはバカじゃないぞ!」
光希に反論して楓は拳を振り上げる。光希はヒョイっとそれを躱した。
「じゃあアホ」
「アホー⁉︎お前こそバカだ!こんなか弱い乙女をアホ呼ばわりするなんて無礼にも程がある!」
「……お前がそれを言うか?」
何故か光希の声が一気に呆れを含む。憐みの篭った視線に楓はうぐっと声を詰まらせる。
「むぅ……、相川こそ目が曇ってるんじゃないか……」
「なんか言ったか?」
楓の呟きは光希には聞こえていない。膨れた楓は鞄をぶんぶん振って言う。
「べ、つ、に!……ん、あれ?」
楓は鞄が手の中から消えている事に気づく。試しにその場をくるくるまわってみるが、近くには落ちていないようだ。
「天宮、お前、鞄……」
光希は白けた視線を楓に向ける。鞄を振ったら何処かに飛んでいきました、などという事は現実には起こらないことだと思っていた。とはいえ、目の前で本当にすっ飛ばした人間がいるので信じるしかない。
楓は鞄がどこに消えたかを考える。さっきまでは手にあった。つまり先程ぶんぶんしたのがアウトだったようだ。あまり遠くには行っていないと思うが、近くには無いことが確認された。
「うーん……」
目の前の光希が驚いたような顔をした。慌てたようにしているのはなかなか珍しい表情だ。光希の表情にはあまりレパートリーが無いのは知っている。増やした方が良いのではないか、楓は呑気にそう思う。
「天宮っ⁉︎」
光希の慌てた声と共に後ろから迫る何かの気配を感じた。楓は左脚を軸に右脚を反射的に振り上げる。
すこーん
とても良い音と共に茶色い何かが高速で吹き飛んだ。光希の口がぽかんと開いた。あの速さで飛んでくる物をいとも簡単に蹴り飛ばしたのだ。それも後ろを向いた状態から。その上問題なのが、アレが楓の鞄であるという事と、楓が蹴り返してしまった相手だった。
「あ」
楓は振り返って茶色い何かを目で追う。あれが自分の鞄だった事に今初めて気づいた。高速で飛来する茶色い天災(鞄)に生徒達は自ずと道を譲った。そしてできた花道の先に誰かがいる。
「危ないですよー……」
叫ぼうとした楓の声は尻すぼみになった。鞄は空中で不自然に静止する。そうして止まった鞄をその長身の男子生徒は手で掴み取った。
「ありゃー、なんだ?」
楓は首を傾げる。鮮やかな一連の動作にその技術水準が非常に高いレベルにある事が窺い知れる。だが、楓が知っている限り、あのような術式は存在しなかった。
「……天宮、あいつは……」
光希は睨むように男子生徒を見る。楓はその言葉が思ったよりも重い事に気づく。
まさか偉い人だったとか……?
そう自覚した途端、楓は顔を引攣らせた。そうだとしたら、また面倒な人間を敵に回す事になってしまう。それは厄介でしかなかった。
そう考えている間にも男子生徒はツカツカとこちらに歩いて来る。もう回避不能な出来事だと覚悟を決め、楓は前を向いた。
「あ、なんだ、会ち……むぐっ⁉︎」
思わず問題発言をしかけた楓の口を光希が塞ぐ。驚いた楓の前で光希はとても良い笑顔を天宮清治に向けていた。一瞬ギロリと睨まれ、楓は下手な事は喋らない、と目で約束する。そうして光希はやっと手を離した。
「……これは君の鞄かい?」
静かな怒気を孕んだ声に楓は口の端をぴくぴくさせる。清治は笑顔を作っていたが、目が全く笑っていなかった。楓は背中から冷や汗を流しながら、辛うじて作った笑顔で頷く。
「はい」
清治は鞄を楓に向かって突き出した。楓は慌ててそれを受け取る。楓が蹴り飛ばしてしまったせいか、少し凹んでいた。まあ、自業自得である。楓は鞄を検分し終え、砂が一切付いていない事に気づく。ずっと空中しか移動していないので、当然と言えば当然だが。
「君は二度にも渡って私にソレを飛ばしてくるとは、なっていないようだな」
清治の視線が楓と鞄を行ったり来たりする。楓は内心少し面倒くさいと思いつつも顔には出さない。新たな敵を作ってしまったわけではないので、それで良いのだ。
「……すみませんでした」
楓は鞄を抱えて頭を下げる。こういう時は潔く謝る方が良い。しかし清治の目は懐疑的なものだった。
「すみません、会長。俺からも言っておきます」
光希も何故か謝っている。光希の所為ではないのにな、と思ってから、その原因の一端が光希なのも事実だ、とも思った。少し気に食わなかったのも事実だが。
清治は光希をさらっと一瞥して頷いた。物凄い信用度の差である。光希が言っただけで納得してしまうほど、信用されているのだと思うと、悔しいような気がする。
「以後気をつけるように」
そう言い残して、清治は楓達の前を通り過ぎていった。その瞬間、その場の空気が弛緩した。同時に今まで何処吹く風で知らないフリをしていた木葉が噴き出す。
「あははっ!面白すぎるわよっ、あはっ、いい気味だわっ、ふふふ、あはは、あはっ。楓も、よく、やるわねっ……。ま、まさか、二度もアイツに鞄を吹っ飛ばすなんて……あはっ」
笑い転げる木葉に光希はやれやれと頭を振った。そういう問題では無いのだが、むしろ今のは色々な意味で危なかった気がする。
楓は木葉に笑いながら貶されているような感覚に、反応に困っていた。
「……と、ところで、さっきの会長の術って何なの?」
話題を自分から逸らすように疑問を口にする。光希は歩き出しながら、答えた。
「アレは会長の『天宮』としての力だ」
「ん?どういう事?」
楓は首を傾げた。家ごとに得意な術式は固有の術式適性があるのだが、天宮家だけその能力がはっきりしていない。
「天宮家の能力は個人によって違うんだ。その人が強く願った事が能力として発現したものだとも言われている。まあ、本当かどうかは知らないが」
「へぇ……。知らなかったな」
光希は楓がその事を知らなかったのを不審には思わなかったようだ。軽く頷いて続ける。
「お前が知らないのも無理はない。『天宮』についての情報はあまり開示されていない上、少人数だからな。『能力』についても噂程度の物だ」
「じゃあ、会長の『能力』は?」
さっき指で触れずに鞄を止めたあの力は一体どういったものなのだろう。物を浮かせたようにも見えた。特殊な力だという事だけは直感でわかった。
光希は呟くように答えを告げる。
「『重力操作』だ」
一気に楓の中の謎が解けた。重力を操る事が出来れば鞄を空中で静止させる事など造作もない。そして、『重力操作』があれば、戦術的にもかなり有効だろう。もしも清治と戦う事があれば、かなり厄介、いや、負けるかもしれない。
「……厄介な能力だね。たぶんボクじゃ勝てない」
光希は微かに目を見開いた。光希も気づいたようだった、楓と清治の相性が最悪である事に。
「……そうかもしれないな。だが、俺も勝てない気がする」
光希は顔を遠くに向けた。
「……全力でも?」
楓の問いが鋭く光希を刺した。光希は楓を振り返って見つめる。楓の目は光希の瞳を真っ直ぐに見ていた。楓は光希が全力を見せていない事にとっくに気づいていた。
「どうだろうな……」
楓は光希から視線を離した。光希がそう言う程には『天宮』は強いのだろう。自分はその一員の筈なのに、弱いままだ。苦い味が口の中に広がった。
「……行きましょ」
木葉は立ち止まった楓の肩をそっと叩いた。楓は木葉に笑いかける。
「そうだね」
何も起こりませんでした。生徒会長を怒らせた事以外……。




