夏美の呼び出し
光希はいつも楓が寮から出てくる時間に合わせ、楓達が通る道の側で待つ。光希は楓の護衛。できるだけ楓の近くにいるのが光希の義務だ。光希はポケットから手を出して時間を確認する。まだ2分くらい時間があった。
「おはよう、光希」
「おっはよー!」
光希は声の方向に視線を移す。涼と夕馬だ。
「おはよう」
ぶっきらぼうに挨拶をした。涼と一瞬目が合う。感情が出ないように意識したからか、光希の顔はいつも以上に無表情になった。
一昨日の放課後。それがその原因だった。自分でもどうしてこんなにモヤモヤとした気分になるのかわからない。ただ、涼を真っ直ぐ見たくないというのが正直な気持ちだった。
だが、涼は本気で楓が好きなのだと気づいてしまった。できれば気づかないままでいたかった。どうして……?それは光希にはわからない。それでも、気づきたくなかったのだ。いや、それは違う。光希は校外教室の時から気づいていた。自分で認めないようにしていただけで……。
きっと涼は楓がどうして突然光希と涼を避け始めたのか知っている。それを知りたくなくて、楓に聞かずにいた自分とは違って。
どうしてこんなに嫌なのだろうか、涼が楓に近づいて行くのが。自分の手で守り抜くと決めた少女が目の前で違う人に取られるのが嫌なのだ、と光希はそう考える。本当に……?そう異議を唱える微かな声に聞こえていないフリをする。
「あっ!おはよー!」
突然叫んだ夕馬に光希は我に帰った。楓達だ。朝からぴょんぴょん楽しそうに飛び跳ねる楓の姿に光希は少し安心する。光希は口を開く。
「おはよう」
「おはよー!」
「おはよう」
「おはよう、涼」
「……おはよ」
光希より数瞬涼の方が早かった。楓は僅かに頰を紅潮させ、涼から目を逸らす。おそらく昨日の事を思い出したのだろう。涼も楓からすぐに目を逸らしていた。
「おはよう、光希」
夏美がにっこりと微笑んだ。
「おはよう」
平坦な声音で光希は返した。夏美に合わせ、夕姫達も光希に笑顔を見せる。
「おっはー!」
「おはよう、光希」
「……おはよう」
楓は光希と目を合わせず、空中に笑顔を向けていた。光希も同じように空に笑って挨拶をする。そのせいか、とても空々しく響いてしまった。木葉が眉をピクリと動かしたのに光希は気づいたが、それだけだった。
「それじゃあ、教室に向かいましょうかー!」
楓は鞄を空に突き出し、歩き始めた。微かなワザとらしさに光希はやはり気づいたが、他の人には気づかれていないようだった。
「そうだねー!」
「おう!」
なぜか無駄に元気な笹本兄妹が楓の後に続き、光希達はその後を追う。楓の顔を見なくてもいいので、光希にはありがたかった。
「はぁ……」
光希は溜息をつく。いつもよりその頻度が高い気がする。それで憂鬱な気分が飛んでいくわけではないが、溜息をつくのはやめられなかった。涼とは結局何も話していないし、楓と面と向かって話してもいない。そんな微妙な時間だけが過ぎて1日は終わってしまった。
「光希、ちょっといいかな?」
つんつんと光希の背中を夏美は突っついた。光希は振り返る。
「……なんだ?」
夏美はニコッと人懐こい笑顔を見せた。いつもそうだ。夏美はいつでもそんな笑顔で人を安心させる。この笑顔はずっと変わっていない。
「ちょっと話さない?なんか昨日から光希、変だから……」
夏美は顔を陰らせる。不安そうな瞳が光希を見上げていた。
「……いい。別に何でもない」
光希は夏美から目を逸らすようにして言った。あれは光希個人の問題だ。夏美を巻き込むわけには行かない。夏美は光希からの断りの言葉を聞いて目を伏せる。
「……お願い」
夏美は光希の袖を掴む。思ったよりも強い力に光希は振りほどく事ができずにいた。
「私、光希の力になりたいの。だから、光希の悩みも聞かせて」
夏美の瞳が必死に訴えている。光希はこれ以上冷たくあしらう事もできずに頷いていた。
「……わかったから泣くな」
「いいの?」
今にも泣き出しそうな表情をしていた夏美は瞬きする。
「……しょうがないな。少しだけ付き合ってやる」
その言葉に夏美は顔をパアッと輝かせた。光希はその表情に微かな後ろめたさを覚えた。
「そうと決まれば行くよー!光希!」
「ちょっと、おい!待て」
夏美は屈託無く笑みを浮かべ、光希の袖を引いて走り出す。光希は慌てながらも夏美に引きずられて行く。どこに行くのか教えられていないが、大丈夫なのだろうか。光希は前を嬉しそうに走る夏美を見た。やはり気になるので聞いてみる。
「一体どこに行くんだ?」
夏美はあれっ、という顔をして光希から手を離した。ガクッと光希は立ち止まった。この反応では本当に何も考えていなかったみたいだ。光希は呆れて夏美を見る。
「……ど、どこ行こう?」
えへへ、と夏美はふわふわとした髪に手を当て、コテリと首を傾げた。頰が少し赤いのはきっと間違えたのが少し恥ずかしいかったのだと光希は思う。
「それで、どうするんだ?」
「ん、うーんと、じゃ、じゃあ、テラスにしよ!」
テラスは食堂の上にある場所だ。壁の一部がガラス張りになっていて、景色が良い。昼は三年生に独占されているが、今の時間なら空いているだろう。落ち着いて話をするにはもってこいの場所だった。
「いいかもな。行った事ないし」
光希は夏美を見て頷く。夏美は幸せそうに笑顔を見せて、頭をぶんぶんと振って肯定を示す。テラス、と言ってもただの眺めのいいテーブル席なのだが、何がそんなに嬉しいのだろう。光希は夏美の行動理由がわからない。まあ、喜んでいるので良いのだろう。
「ホント⁉︎私も行った事ないの!でも眺めが綺麗っていう話だし、楽しみだな!それに……光希も一緒だし……」
夏美は顔を手で覆い、幸せそうに悶えている。光希は顔の筋肉を少々強張らせ、幸せオーラを撒き散らす夏美を見た。
「……とりあえず、行くか?」
「……えっ?あ、うん!行く!」
どこか光希の知らない場所へトリップしていたようだ。夏美は驚いたように目を開き、本来の目的を思い出す。
「じゃ、行こ?」
「ああ」
二人は食堂の方へ足を向け、ゆっくりと歩く。夏美は顔の筋肉を緩ませっぱなしで光希に完全にくっつくギリギリの状態だ。反対に光希は顔の筋肉を強張らせっぱなしなのだが、そんな事は側から見てわからない。きっとラブラブなカップルにでも見えているような気がする。周囲の視線がとても居心地悪い。つまりとても目立ってしまっているのだ。
知り合いに見られるのはとても嫌だな、と思いながらも早数分。光希と夏美は食堂の建物に着いた。
中に入ると、中には思ったよりも人がいた。とは言っても、ちらほらいる、という程度だ。話したりしている生徒もいれば、勉強をしている生徒もいる。確かにここは勉強をするのに絶好の場所だ。ここなら自由に集まる事もできるし、テスト勉強だってできるだろう。光希はその事をしっかりと頭に入れる。覚えておいて損はない。
「思ったよりも人がいるんだね」
キョロキョロしながら夏美は呟く。光希は頷く。
「確かに……」
夏美は突然指を突き出した。驚いて光希は夏美の顔を確認してしまう。
「あ、あそこ!階段!」
夏美は顔を赤くして発見を報告する。光希は夏美が指差す方を見る。柱に隠れるような位置に階段があった。どうりで今まで見たことが無かったわけだ。三年生が多いというのも、この建物を熟知した先輩が行きやすいというのが理由の一つだろう。
「ほらほら!」
夏美は兎のようにぴょんぴょんして、階段の方から光希を手招きする。光希は周囲に一瞬鋭く視線を向けた。知っている顔はない。その事に光希は意味もなく安心した。
光希は少し足を早め、夏美に追いつく。そして小綺麗な螺旋階段を登り、二階のテラスに出た。
「うわぁ〜!確かに綺麗かも!」
夏美は目をキラキラさせてその場でクルリと回る。制服のスカートがふわりと広がった。ガラスで反射した光が夏美の栗色の髪で煌めく。
「どうしたの?」
どうやら少しぼーっとし過ぎたようだ。夏美に心配されてしまった。光希は微かに夏美に笑いかけて誤魔化そうとする。すると夏美はボンッと蒸気を上げて目をグリングリンさせた。これは少しヤバい。光希は即座に無表情に戻り、夏美の沈静化を待つ。
「はっ!え、あれ?私、何してたっけ?」
「……いや、何にも。ぼーっとしてたんじゃないか?」
夏美は頰に手を当てて考える。さっきの一瞬、興奮して記憶が飛んだみたいだ。その方が光希としては有り難い。
「んじゃ、ここに座る?他に誰もいないし」
夏美は一番景色のいい場所を見つけ、光希を座るように促す。光希はさらっと辺りを見たが、光希と夏美以外に他の生徒はいなかった。
「そうだな」
そう言って二人は椅子に腰を下ろした。
急にドロドロし始めた関係……。
夏美は光希に取り入ろうとしている……?
大丈夫なのか……?
 




