問題行動
「……小野寺仁美」
涼は名前を呟いた。空からカラスが舞い降りてくる。バサリと翼をはためかせ、カラスは涼の腕に止まった。
「お疲れ、ヨル」
涼はカラスの羽を撫でつつ、考える。
楓は何か悩んでいるようだった。人を信じたいのに信じられない、と。
涼自身、あまり人を信じないようにしている。だが、光希と夏美は今まで背中を預けて戦ってきた仲間として、信用していた。何があっても信じられる仲間として。
それなのに楓は、本当に心を許せないでいる。話を聞いている限りでは、仁美という少女が楓を裏切ってからそうなってしまったみたいだ。きっと楓はそれだけその少女を信じていたのだろう。仁美が裏切った事で心に深い傷を負う程に。
ヨルの瞳から見た楓の顔はとても寂しそうだった。あんな顔は誰にも見せないのに。楓は何を心に秘めているのだろうか。それを知りたいと涼は思う。
涼はヨルの黒い瞳を見た。ヨルは首を傾げる。
「行っていいよ」
ヨルは翼を広げ、空へと飛び立つ。涼は目を細めて空を見上げた。眩しい。もう夏だな、と今更ながら思った。
……光希はあの事を知っているだろうか。
そんな疑問が脳裏をよぎった。答えは出ない。だが、それにしても今日の楓の様子はおかしかった。自分の事も、光希の事も楓は避けていた。きっと何か理由があるのだろうが、心当たりがまるでない。光希の様子も見ていたが、光希にもわからないようだった。
涼は図書館の建物を見上げた。一部ガラス張りの建物は太陽の日差しに反射して眩しく光っている。
一瞬躊躇った後、涼は楓のいる図書館へと足を向けた。
楓は屋上にぼんやりと立っていた。冷や汗が滲んでいた手のひらを握ったり開いたりする。
あれが仁美ちゃん……?
明らかに別人だった。しかし、顔はあの仁美そのもの。仁美は自分が変わった理由が楓だと言った。だが、それだけでは説明がつかない。あそこまであの素直な少女が歪むわけがない。
楓が仁美の目を見て感じたのは底知れない恐怖だった。人形のようなガラスの瞳。感情を一切映さない。
「仁美ちゃん……」
過去の親友の名を呟く。何度も何度も呼んだ名前は今でもすんなり言う事ができた。それがどこか悔しい。もうとっくに諦めたはずなのに。
楓の瞳から雫が散った。風に長い黒髪が翻る。
「あれ……?なんで泣いてるんだろ?」
楓は指で涙を払う。キラキラとした粒が弾けて消えた。
「楓っ!」
後ろから声がした。楓は目を見開く。少しだけ息を切らした涼がそこに立っていた。
「……神林?どうして……?」
楓は理由がわからずに瞬きをする。涼はニコリと微笑んだ。
「良かった、まだいた」
「なんでここが⁉︎」
涼は眩しそうに目を細め、楓の隣まで歩いてくる。楓は思わず一歩下がった。
「……ボクに、何か用かな?」
楓は笑顔を浮かべて涼を見る。さっきまでの顔は絶対に見せない。見せられない。それでも、涼の顔を正面から見ることだけはできなかった。涼にその事を気付かれている、そう思ったが、やはり駄目だった。
「……どうして僕を避けてるの?」
涼の真っ直ぐな瞳に捕らえられる。楓は目を逸らす事ができない。楓は笑みを深くした。
「……何のこと?ボクは誰も避けたりなんかしてない」
そう言って楓は涼の視線から離れた。また目を合わせないようにする。
「……嘘、つかないで欲しいな。誰も避けてないんだったら、僕の顔も見れるよね?」
「……っ、ボクは……」
楓は視線を地面に落として、拳を握る。握った拳は微かに震えていた。涼が楓の方に手を伸ばす。楓は固く目を閉じて身体を固くした。
「楓……」
スッと涼の手が頰に触れた。涼は楓の顎をそっと持ち上げる。そして、楓の固く閉じられた瞳に向かって目を合わせた。
「……僕の方を見て」
楓はそろそろと目を開く。涼と至近距離で目が合って、目を大きくした。涼の表情はとても真剣だった。
「……か、んばやし⁉︎一体、何を……⁉︎」
楓は涼の手から離れようとして無意識に一歩下がろうとした。涼は離れようと楓の身体を抱き止める。
「……もう離さない」
「なんで……」
楓は温かい涼の腕の中で、驚愕で固まっていた。しかし、どんどん涼の腕に力がこもっていく。
「……神林っ⁉︎苦しい、よ……」
涼はハッとしたように力を緩め、楓を離す。涼は顔を僅かに赤くして俯いた。
「ご、ごめん。……僕らしくなかったね」
楓はまだ頭が不思議な気分のままぽーっとしていた。顔に手を当てると、頰がとても熱かった。きっと顔は真っ赤に茹で上がっているのだろうと思うと、とても恥ずかしい。
「……どうして、僕と光希を避けていたのか、教えてくれる?」
涼のその言葉で頭に残っていた熱が一気に冷めた。
「……そんな事ないって言っただろ……?」
楓の反論はとても弱々しく、反論にすらなっていなかった。涼は縋るような目を向けてくる。
「……僕は楓を守る為にできる限りの事をしたい。だから、楓に避けられるのは……嫌なんだ」
切実な願いだった。楓はその言葉に嘘を感じる事はできなかった。
「……木葉から、聞いたんだ。相川と神林がボクの婚約者として付けられたってことを。ふふふ……、おかしいよね?こんな事ですぐに人が信じられなくなるなんて……」
楓は両手を広げ、顔を歪めて笑う。
「楓……、君は……」
涼は言葉にならない何かを持て余す。言いたかった事があるのに、スルリと逃げてしまいそうになる。
「君は、僕達を信じきれていないんだね」
「……そう、かもね。認めたくないけど……」
楓は辛そうにそう言った。涼は卑怯だと思いながらも、確認を取る。
「君の為に命をかけてきた光希や僕の事も……?」
「……うん。……そう、みたいだ……」
楓は俯く。この言葉は涼を傷つける。それをわかっているのに、その言葉を言わなければならない自分が苛だたしい。
「……それは少し悲しいかな……」
涼の顔に影が落ちる。やっぱり傷つけてしまったのだ。楓は胃のあたりがきゅっとするのを感じて、そこを押さえた。
「でも、いつか楓が僕達を、僕を、信じてくれるように僕は諦めない。僕が絶対に君を守るから」
涼の瞳には真っ直ぐな想いだけが輝いていた。
「……神林」
楓は微笑んだ。自らの意志でなく、自然と笑みが零れた。
「ありがとう……」
涼の心臓が跳ねる。気づけば楓に手を伸ばしていた。その衝動に涼は身を任せる。再び身体を強張らせた楓の頰に触れる。
「神林、またっ……何を……⁉︎……⁉︎」
「楓……」
大事な人だと言うように、涼は楓の名前を耳元で優しく呟く。声を出そうとした楓の口を涼は塞いだ。
「〜〜⁉︎」
名残惜しそうに涼は楓の頰から手を離す。楓は頰を真っ赤にして、頭から湯気を出してフニャリと座り込んだ。
「〜〜!〜〜!」
声にならない。楓は口をパクパクさせる。涼は顔を楓に見せないような角度で地面にぺたんと座る楓に手を差し出した。
「……あ、ありがと」
楓はその手に甘えて立ち上がる。ふらっとしそうになり、涼に支えられる前に体勢を立て直した。
「……そろそろ、帰ろっか?」
「……あ、う、うん」
涼が再び差し出した手には頼らず、楓と涼は屋上を後にした。
「楓、どうかしたの?顔、真っ赤よ」
寮の部屋に帰ると、第一声木葉に問いかけられた。
「え、あっ、う、えーっと、そのえっと……、な、な、な、何でも無いんだよ?」
慌てて、楓は腕をぶんぶんと振り回した。木葉は訝しむように楓にずいっと顔を近づける。楓はその動作に涼を思い出し、さらに顔を茹であがらせた。
「誰に何をされたの⁉︎今すぐ話しなさいっ!」
興奮した木葉が叫ぶ。楓は下を向いて、指をツンツン突き合わせる。
「……涼に……された……」
「えっ、何っ⁉︎大きな声で言いなさいよ!」
蚊の鳴くような声で答えた楓に木葉は問い詰める。楓は視線を彷徨わせた。
「……き、きす……」
木葉は目を見開いた。腕を組んで顎に手を当てる。そして、真剣な顔でぶつぶつとつぶやき始める。楓はテーブルにごんごんと頭を打ち付ける。
何で涼はあんな事をしたんだろう、楓はあまり回っていない頭で考える。理解ができない。
……あれじゃあまるで涼がボクの事好きみたいじゃないか
どうしてだろう……。なんで、ボクなんかを……。いやいや、絶対違う。あり得ない。
「じゃあなんでだ……あー」
ゴン
もう一度頭を激しくテーブルにぶつける。
「……涼がそんな行動に出た事が驚きだわ……」
木葉は呟く。まさか、涼が……。想定外すぎる。
「あー、もう、何なのよ!涼があんな大胆だなんて知らなかったわよ!光希は奥手過ぎるし!」
木葉は自分の前でテーブルに頭をごんごんしている楓を見る。まるでゆでダコだ。頭がショートしているのは一目瞭然。楓が恋愛に疎いのは知っているが、流石にキスされたら気付くだろう。
木葉は楓がそれに微妙に気づいていない事までは気づかない。
……光希でなければならないのに。
涼では駄目なのだ。力と格が足りない。私達の『姫』とは釣り合わない。
木葉は頭を抱えた。
元々、涼が婚約者候補になる事自体が想定外だったのだ。涼の事は他の本家からゴリ押しされたのが主な理由だった。相川が強い力を持つのを恐れたのだ。しかし、天宮桜は相川光希を選んだ。その事を知るのは天宮健吾、相川みのる、そして木葉の三人だけ。この事は誰にも知られてはならない。だが、今回はそれが裏目に出た。そして、涼が本気になるとは思わなかった。
木葉は顔を手で覆う。その下で口元に笑みを浮かべる。
まあいいわ……、私は桜様の意向を忠実に果たすだけなのだから。
涼の行動が意外すぎる……
涼に楓を取られそうになっているのですが、光希は大丈夫なのでしょうか?




