うまくいかない日
楓はまだ残っている眠気を引きずりながら、教室棟へ木葉と向かっていた。
「ふわぁあ……、ねむ」
口を大きく開けてあくびをする。目の端に滲んだ雫を手で拭い、楓は足を進める。
「あーもう、なんでこんなに眠いんだぁぁ!」
楓は両手を空に伸ばし伸びをした。隣で木葉がクスリと笑う。
「さあね。寝るの、遅かったんじゃない?」
「うーん、そんな事ないと思うんだけどねぇ」
昨日の夜、寝たのは12時前くらいだ。そして今朝起きたのは6時半。別に睡眠不足なわけではないはずだ。しかし、未だに眠気は襲ってくる。
「疲れたのかしらね。校外教室が終わってから最初の授業だったし。それに、風紀委員会の当番だったでしょ?」
「そうかも。ちょっとした騒ぎもあったし」
木葉は何かを思い出そうとするように、目を宙に向ける。
「……確か笹本の双子が派手な喧嘩をしていたのだったかしら?」
「あー、うん。そうそう。まー、派手だったよ。ていうか、それの周りのさ、ギャラリーの皆様が凄くて」
楓は呆れを目に浮かべて話す。木葉は遠い目をした。
「相川ファンクラブの皆様かしらねぇ」
楓は驚いて思わず声を上げる。
「えっ!やっぱあるの?それ」
「……ええ、非公式にあるわよ。他にも涼のファンクラブとか……」
「……この学校、大丈夫?」
呆れた楓はこんな事も言ってしまう。木葉も楓と同意見らしく力無く笑った。
「……どうなのかしら」
「もしかしてさ、木葉のファンクラブとかもあったりする?」
「……。……あるわ」
しばらくの沈黙の後、木葉は薄暗い笑みを浮かべて肯定した。あまり良い思い出は無いようだ。とはいえ、木葉はこの美貌。イケメンの光希と涼にファンクラブがあるのなら、木葉にもあるのが道理というものだ。そう思って、楓は木葉に聞いてみたのだが、案の定あるようだった。本人達にとっては良い迷惑みたいだが。
「……ははっ、人気者も大変だな」
「……そうかもしれないわね」
木葉は引きつった笑みを浮かべる楓に唇の端を持ち上げる。そして、深い溜息をついた。
「私、好きでこの姿をしているわけじゃないのだけれど……」
「まあ、いいんじゃない?ボクなんてさ、可愛さのカケラも無いよ」
楓は悲しそうにそう言ってみる。もちろん、それで顔が良くなるわけではない。
「そう?案外、あなたも可愛いんじゃないかしら。眼鏡、外せば良いのに」
「そ、そうかなあ、にひひひ」
楓は照れ笑いをしたが、木葉に気持ち悪いものを見たような目で見られた。
「その笑い方は可愛いさのカケラも無いわよ」
「うぐっ……。酷い、木葉。さっきのはクリティカルヒットだよぉ……」
楓は胸を押さえて苦しがるフリをする。木葉はその様子を見て、吹き出した。
「ふふふっ、あはは、あなた、やっぱり面白いわね」
「そう?」
「ええ、色んな意味で、ね」
意味深な笑みを浮かべる木葉に、楓は首を傾げた。
「どういう意味だよっ⁉︎」
「色々は色々よ。ほら、そこで原始人みたいに手をぶんぶんするのも面白いわよ?」
「むぅっ!なんだと、このヤローっ!」
楓はがうっと木葉を襲う真似をしてみせる。木葉はとうとうお腹を押さえて笑い始めてしまった。
「あは、あは、あははははっ、もう、ゴリラみたいよっ!」
「ご、ゴリラぁっ⁉︎」
楓は素っ頓狂な叫び声を上げた。もうけなされている気しかしない。笑い転げる木葉の横で楓は頰をヒクヒク引きつらせていると、誰からか声を掛けられた。
「おはよう、天宮。朝から賑やかだな」
光希だ。楓は笑顔で挨拶をしようとして、失敗した。口を開けたまま固まってしまう。おかしい。光希は怪訝そうに楓の顔を見る。楓は視線を逸らしてしまった。
昨日の木葉の言葉が後を引いていた。光希が地位を手に入れるためにこんな事をするとは思わない。それはちゃんとわかっている。だが、なぜか楓は光希の顔を直視できなかった。
「……おはよう、相川」
やっとの事で挨拶をする。笑顔を作ることはできたのだが、どうしても目を合わせる事はできなかった。
「どうかしたのか?」
光希は楓に問いかける。楓は笑顔で首を振った。
「いや、たぶんちょっと眠いだけ」
「そうか、ならいいんだ」
まだ怪訝に思っているようだったが、光希は頷いた。楓は少しホッとする。昨日みたいに追求されたら、話すしかない。だが、それは同時に光希を傷つける事になってしまう。楓はそう思った。
会話がぷっつりと途切れ、三人は無言のまま教室に入った。
「光希、おはようっ!」
「おはよう、夕馬」
既に教室に着いていた夕馬は光希の肩を人懐っこい笑顔を浮かべて叩いた。光希はそのまま夕馬に引きずられて男子の集まりに連行される。楓は引きずられる光希と一瞬だけ目が合ったが、視線から逃げてしまった。光希がこの場からいなくなったのに安堵して、楓は光希の後ろ姿をちらりと見る。
がらがらばーんっ。
盛大な音がして、楓はその音の方に驚いて目を向けた。
「おっはよー!」
「……ちょっと夕姫、すごく恥ずかしいよ」
今日も元気に満ち溢れた夕姫と、顔を赤くして夕姫の服を引っ張る夏美だった。あれだけ大きな音を立てれば生徒達の目が二人に殺到する。夕姫は気にしていないようだが、夏美はそれにかなりのダメージを受けているようだ。しばらくして周囲の視線が和らぎ、二人は楓と木葉の所へ真っ直ぐ向かってきた。
「派手な登場だったわね」
「そうかなあ、えへへ」
夕姫は頭をかく。
「夕姫、それは褒め言葉じゃないよっ⁉︎」
「勘違いしちゃダメだよそこは……」
楓も呆れて夕姫を諭す。夕姫はキョトンとして目をパチパチさせた。
「あれ?違うの?」
「……違うわよ」
結局木葉まで夕姫にツッコミを入れる。そうしてやっと夕姫は理解したようだ。
「と、とりあえずっ、もうすぐ朝のホームルーム始まるよっ?」
今度は話題を変えようと必死になり始める。
楓は教室にかかった時計を見る。
「確かにもうすぐかも」
「でしょ!」
夕姫はここぞとばかりに楓の呟きに便乗した。
「まあ、そうね。後2分くらいかしら?」
「もうそんな時間なの?ビックリだよ」
夏美は大きな瞳をさらに大きくして言う。
「もう座らないとだねー」
楓はそう告げ、他の三人は頷いた。そしてバラバラと自分の席に戻っていく。楓は前を向くと、チャイムを待った。
「お腹すいた……」
楓はベタッと頰を机につけた。さっきからお腹はぐうぐう鳴りっぱなしだ。どうせそこまで多く食べないのに、お腹だけは立派に空腹を訴えていた。木葉達は少し生徒会室に寄っていく用事があったため、楓に先に行っててと言い残して行ってしまった。夕姫は部活の集まりが少しあるようだった。そして楓はこうして食堂で席を陣取り、ぼーっとしている。
「楓、昼食取りに行かないの?」
「っ⁉︎」
楓は息を呑んで、ばっと顔を上げた。頭がぶつかる寸前で涼が自分の頭を退く。楓は驚いた表情のままポカンと涼を見る。そして、我に帰ると目を逸らしていた。涼の瞳が僅かに細められる。
「どうかしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
楓はニコッと笑ってみせる。上手に笑えた気がする。だが、涼の怪訝そうな表情は変わらない。楓はどこか後ろめたい気持ちを抱えたまま、涼がどこかへ行ってしまう事を願う。
「……ほんとに何もないんだね?」
「うんっ!何にもないよ。ただぼーっとしてただけだしね。昼食は木葉達が帰ってきてから取りに行くんだ」
「そうなんだ。で……」
「涼ー!何してんだ?」
涼を呼ぶ声に言葉はプツリと途切れた。何を言いたかったのかは、予想がつく。
きっと、
「でも何かあったら教えてね」
とでも言う気だったのだと思う。
涼はキレイな笑顔で声の方を振り向く。
「ごめんごめん、今行くよ!……またね、楓」
「あ、ああ」
楓に一瞬鋭い光を向け、涼は楓の前からいなくなった。楓はズキリと心のどこか深くが痛むのを感じる。本当はいつも通りでいたいのに、それができないもどかしさだけが心に残った。
「……どうしてボクはこんな風なんだろう」
そっと声に出して呟く。その呟きは食堂の喧騒に掻き消された。




