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風雲の場所  作者: yunika
第一章
9/79

九.獣の眼

宴があった夜が明けて、数週間が経とうと

していた。


庭の木は紅葉から落ち葉へと変わり、早朝の

水場では薄氷が張った様子も見られるように

なった。


これまで放浪者であったジュラはすっかり

ロウガの住まいに居つき、ニレの一族に日々

馴染みつつあった。


この日ハクアは道場の軒先で、ジュラと

竹刀で打ち合いをしていた。


宴の翌日の朝、ジュラは新参者として一族の

家を一軒一軒挨拶にまわっていた。


もちろん当主のビャッコと身元引受人と

なったロウガも一緒にである。


そして最後にハクアのもとを訪れ、二人は

改めて挨拶を交わした。


彼の本当の名はジュラ・グルースという。

はるか北東の国に生れ、物心ついた頃から

各地を武者修行をしてきたそうだ。


そのような、どちらかというと荒々しい生活

を送ってきた彼が、どうして難しい言葉を

知っていたのかハクアは疑問に感じたのだが、

不躾になってはいけないと思い、その場で

聞くのはとどまることにした。


そして彼の年齢は、ハクアが意外に若そうだ

と感じた通り、二十一歳の若き青年だった。


毛皮からのぞく目には独特な空気を醸し出す

鋭さが。


しかし勝負のときの緊迫した状況では気づく

ことができなかったのだが、よくよく見ると

なかなか整った顔立ちをしていた。


そのおかげか、年頃のニレの娘や母親世代の

女性からはひそかな人気を得ていたようで、

彼と小道ですれ違った女がはにかみながら

ちらちらとジュラの方を見ているのを、

ハクアは度々目にしていた。


ジュラはその日から彼はハクア達と同じ道着を

着て鍛錬に臨むようになったのだが、彼は

一向に頭からかぶる熊に似た獣の皮を外そう

とはしなかった。


ハクアは、真夏の暑い時期はどうするのだ

ろうかと思っていた。


彼はハクアのことを『ハク坊』と呼ぶように

なっていた。

ハクアは呼び捨てでいいと言ったのだが、

厳しくも彼を溺愛する父親のビャッコは、

次期当主であるハクアを呼ぶ際には年齢差も

考慮しつつ、『坊』か『ちゃん』のどちらか

を付けるようにと指示したのである。


ジュラは素直に、ハクアは渋々それに

従った。


そしてジュラは、その頃忙しく家と道場を

空けがちであったビャッコに代わり、

ハクアの鍛錬にもよく付き合ってくれ、

次第に二人は互いにどこか信頼を置くように

なっていった。


当の、国からの令で不在がちなビャッコは、

その間彼の弟であるロウガをいざというとき

の為に、当主代理として道場の留守番に

置いておくことにした。


数日前の当主不在時に起こったジュラ訪問

から受けた教訓である。


ビャッコは自身が多忙な身となり、次期当主

となるハクアの教育にあまり関われないこと

を憂慮していた。


その為、今回の国からの命が片付くまで

しばらくの間はロウガに彼の教育を任せる

ことにし、ハクアにもその旨を伝えた。

 

しかしそれから数週間が経っても、叔父の

ロウガはたとえ代理であろうとも慣れない

当主の仕事に加え、道場の門下生の面倒など

で忙しく、ハクアに構う時間はほぼ持てずに

いた。


彼は独り身の為、身の回りを甲斐甲斐しく

手伝ってくれる妻を持っていなかったことも

その慌ただしさに一因しているのかもしれ

ない。


そしてハクアの同志であり兄であり友である

テンジャクやミードは春からの進学準備に

追われ、ここのところめっきり道場に姿を

見せなくなっていた。


そんな事情もあり彼のつまらなさは日々

募るばかりである。

 

そんな様子を知ってか知らずか、ジュラは

何かとハクアを気にかけていた。この日も

ハクアが縁側で一人、寂しそうに本を読んで

いたところを見かねて、打ち合いをしないか

と声をかけてきたのである。


「ハク坊、少し休みましょう」


どれくらい長い間打ち合いをしていただろう

か。二人の息はすっかり上がり、息が白く

見えるほどに寒い日にも関わらず二人は

汗だくである。


「いや、まだまだ」


ハクアは竹刀を握り直し、再びジュラに立ち

向かおうとする。しかしそれをジュラは手で

制し、軽々とハクアの竹刀を掴んだ。


「これ以上は体に疲れを作るだけです」


力尽くで諭されてようやく、ハクアは竹刀を

下ろした。


二人は縁側に並んで腰かけると、カズラが

淹れてくれた温かい番茶を湯のみから

すすった。


ハクアは普段凝視する機会のない、ジュラの

被る毛皮の頭部を横眼でちらりと見る。


手触りの良さそうな艶のある黒毛に丸い耳。


そのすぐ近くから空を突き上げるように

伸びる銀の角。くすんだ赤い鼻。

目は閉じているが、それは毛皮にされたから

というわけでなく、まるで眠っているかの

ようだ。


ハクアは、キキョウが今より幼い頃よく

抱いていた熊のぬいぐるみを思い出して

いた。

本物の熊に出会う機会は郊外と言えど街中

暮らしではまずないので、熊らしい熊と

いうものが想像出来ずにいた。


しかしそれと同時に、広い世界のどこかには

こういった熊が生息する地があるのだろうか

と彼は思いを馳せる。


ハクアはこういった獣の毛皮を頭から被る人

の姿を何かの本で見たことがある。

山で獣を狩る猟師などがそうだ。しかし、

ジュラのまとうそれは、猟師のものとは何か

違う気がした。


「気になりますか」


ジュラはハクアの視線に気付いた様である。


湯のみを両手にハクアに静かに問いかけた。


ハクアは気づかれたとばかりに思わず目線を

外し、そして大して興味のない振りをしつつ

尋ねた。


「まあ。見たことのない獣だからな。

 熊みたいだけど、何て言うんだ?」


ジュラは湯のみをそっと縁側の盆の上に置き、

マントのように彼の背中を覆う毛皮をするり

と手で撫でた。


「この生き物達に名前はありません。

 ですが、俺が被っているこやつの名前は

 ラウルスといいます」


「名前があるの?」


ハクアは不思議に思った。

毛皮のマントにするためだけに狩った獣に、

名前など付けないものだろうと思っていた

からだ。


何か思い入れでもあるのだろうか。

ジュラは続ける。


「ええ。あります。

 名前もあるし、話もする」


ジュラは淡々とそう口にしたが、ハクアは

仰天した。


「話? 毛皮が話すのか?」


ハクアは再び湯のみを口に付けたところ

だった。

もし口に茶を含んでいたら間違いなく、

むせるか吹き出すかしていただろう。


そんなハクアの動揺がおかしかったのか、

それとも獣自身への親しみからなのかは

わからないが、ジュラは小声を上げて

笑い出した。


「ただの毛皮ではありません。

 彼は生きてます、それも数百年以上も」


ハクアは耳を疑った。


ジュラが笑い声を上げることも予想して

いなかったが、まず彼の口は軽々と冗談を

言ってのけるものではないであろうに、

ハクアは何がどうなってんだとばかりに

怪訝な顔をする。


「生きている?

 動くところを見たことがないよ」


それは本当である。


その『ラウルス』とジュラが呼ぶ獣の皮、

彼いわくただの毛皮ではないらしいが、

それは少し分厚いくらいの毛布のようだ。


彼の首にまわした前足は紐で固定され、

後ろ足はだらりと垂れている。


ハクアの目にはよくある毛皮の使い方の

ように思える。


しかし、ジュラの頭に乗っかかっている

ラウルスの頭部を凝視したとき、先ほど

感じた違和感が何であるのかに気付いた。


猟師がまとう獣皮のように、下顎が外されて

いないのだ。ジュラの頭の上に、ちょこんと

ラウルスの顎が乗っかっているのである。


「この獣―――、ラウルスは切られていないの?」


ジュラはハクアがようやく気づいたかと

ばかりに満足そうに口の端を上げた。


そして自身の背中とラウルスの腹の間を

後ろ手でめくると、ハクアがよく見えるように

する。


ハクアはラウルスの腹面を覗き込んだ。


見ると、確かに背中や頭部と同じ光沢のある

黒い毛が広がっており、どこも切られては

いない。


ジュラはハクアが十分に観察したのを確認し

手を離すと、再びラウルスの腹に自身の背中

を覆わせた。


「例えるならば、彼は熊のようなムササビの

 ような、角牛のような、そういう性質でし

 て。しかし今はただ、力を失っていてこの

 通りなのです」


ハクアはジュラの言っていることがすぐには

飲み込めなかったし、にわかに信じがたい話

だと思った。

だが先ほどラウルスの閉じた目を見たとき、

眠っているようだと感じたことを思い出すと

妙に納得のいく心地を覚えた。


ハクアはラウルスの生気を確かめようと、

その頭から生える銀色の角にそっと手を伸ば

した。


あともう少しで指先が触れようとしたとき。


刹那、電流が走ったかのように、ラウルスの

瞼がかっと見開き、黄色い眼が現れた。


そして黒目をぎょろりと動かし、ハクアの

方を見たのである。


「ええっ?」


ハクアは驚きに思わずすっとんきょうな声を

上げ、後ろに飛びのいた。そのはずみで片手

に持っていた湯のみを庭先に落として

しまった。


瞬きしてもう一度見ると、ラウルスは何事も

なかったかのようにさっきまでと変わらずに

目を閉じて、顎をジュラの頭に被せている。


今のは気のせいだったのだろうか。

ハクアの心臓は早鐘を打っていた。


「どうしました、ハク坊」


ジュラが庭先に放り出された湯のみを拾い、

驚いた様子のハクアを気にかける。


「今、その獣の目が開いたように見え

 たんだ。だけど、気のせいだったかな」

「目が開いた?」


ジュラはハクアの言葉に目を大きくした。


そして少し考えるようなそぶりを見せた後、

彼は意を得たようにハクアをじっと見据え

た。


「ハク坊、俺はますます貴方のことを

 気に入りました」


彼はそう言うなり、白い歯を見せて満足気に

にやりと笑うのであった。

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