三十二.現状茶飯事
「坑道から出たら私に引き渡す約束だ!」
大猫を取り逃がしたコノクロ卿は
ビャッコの襟を掴み、怒鳴り散らす。
だがビャッコはわざとらしく、
困り顔でコノクロを見やった。
「しかし大臣。
貴方は息子に『この出口から』と。
つまり現坑道の出口から出たければ、と
仰いました。だが彼らは我々が思いも
寄らぬ出口から飛び出たようだ。
そもそも返事を取り付けていない以上、
約束など最初から無いと存じますが。
何にせよ愚息は色々とすり抜けるのが
上手いらしい。私も見習わなくては」
ビャッコは一礼し立ち去ろうとするが、
コノクロは更に激高する。
「こんなことをしてただで済まされると
思っているのか!? 私は大臣だぞ!?」
「勿論、心得ております。
しかし、この場所は何でしょうな。
まるで隠されたような場所だ。
だが貴方は大臣。いずれ白日の下に、
はっきりと明かしてくださるでしょう」
誇り高き軍人はそう言い残すとマントを
翻し、洞窟を後にするのであった。
――外の山合いでは。自由の空気を
めいっぱい吸ったハクアとシルクスが
人々の前に姿を現していた。
その大勢は大猫の姿に恐れを成している。
ハクアはにわかに緊張を見せるシルクスの
首を抱え、寄り添っていた。
やがてそこにテンジャクとミード、
そしてラウルスが駆け寄って来る。
少年三人と珍獣二匹。
この異様な光景を大勢の人々が取り巻き、
ひそひそと何かを呟きながら彼らの様子を
見守っていた。
中にはどこの記者だろうか、
彼らをパシャパシャとカメラに
収める人物もいた。
ハクアは二人に毒水の入った水筒を見せる。
「この中に泉から水を汲んできたよ」
そう言ってテンジャクに手渡すと、
彼は瓶の蓋を開けて一目見るなり、
「アンスルさん!」
と遠巻きに彼らを見守る高学院の助手、
アンスルに向かって手招きする。
アンスルは、私ですか? と自身の顔を
指差しきょとんとしながら、恐る恐る
テンジャクの元へと歩んでくる。
「これは鉱山に湧いている水です。
おそらく毒があり、山中に蔓延している。
ヴィヴィアン教授に渡して、成分を調べて
いただけませんか」
そう言ってテンジャクは水瓶を
アンスルに手渡した。
「は、はいい……」
アンスルはそれを受け取りながらも、
傍の巨大な猫に呆気を取られている。
そんな注目の的、シルクスはやがて
鉱山から出てきたビャッコに気づき、
ゆっくりと近づいていく。
「ニレの子の父親だな?
彼には世話になった。
これは近づきの印だ」
そう言って銜えていた魚を、ビャッコの
足元へ置き恭しく頭を垂れたのだった。
その様子を見ていたミードがぽつりと呟く。
「あれ、俺が釣った魚だぜ」
それが聞こえたのか否か。
大猫は、にゃあ、と初めて猫らしい
鳴き声を聞かせるのであった。
そして坑道の入口へと飛び立つと、
中にまだコノクロ卿や数人の兵士達が残る
坑道内に向かって猛々しく咆哮を上げた。
伝わる言葉で何か言ったのか、
それともシルクスの威圧感からか。
それに呼応する様に中から大量のコウモリが
外へと飛び出してくる。
その黒い雲のような塊はやがて山の彼方へと
去り、消えて行くのだった。
タイミング悪くも道中を引き返していた
コノクロ卿達は、再びコウモリ達に
引っ掻かれ噛みつかれしたらしい。
先程よりも更にぼろぼろの姿でぜいぜい
言いながら、大臣は坑道より這い出てくる。
その姿を捉えるなりミードが、
「コウモリ達は出ていった!
だけど何と! 何とここには毒が蔓延
していることがわかったぞ!」
と周りの人々に聞こえるように、
わざと大声で言うのだった。
テンジャクは慌ててそれを制す。
「まだハッキリとわかっちゃいない!」
だが既に遅し。
どういうことだ、と周囲の人々は途端に
騒ぎ出し、コノクロ卿は詰め寄る人波に
たちまち取り囲まれてしまうのだった。
――後日、テンジャクとミードは
ヴィヴィアン教授とアンスル助手の元を
訪ねるべく、朝から夏休み中の高学院を
訪れていた。
ラニッジ鉱山は毒性の検証結果が出る
までひとまず閉山、ということらしい。
反コノクロ卿、つまりは現政権に嫌悪を
抱く記者達はこぞってミードの発言を取り
上げ、連日のように歓喜に沸いていた。
そして昼下がり。
ハクアはビャッコによる鍛練指導の後、
シルクスとともにスイレンの上空を
飛び回っていた。
シルクスはラウルスと同様、ニレの敷地内で
暮らすようになっていた。
だが、彼はラウルスの様に子ども達の
アイドルとはいかなかった様だ。
大猫の大きさに怯える子もいれば、
不思議とシルクスに興味を持ち、
ちょっかいを出す子もいたのだが。
それがどうやら煩わしいのか、シルクスは
裏山に鳥やネズミを狩りに行ったり、
ハクアを乗せて空を飛び回ることを口実に
人群れから離れることがしばしばあった。
「ところできみってどこで生まれたの?」
ハクアは上空の風を受けながらシルクスに
問う。この日の空気は湿っぽく、南の空では
薄黒い雨雲が姿を現していた。
「ずっと遠い、遠い場所だ。
それも遥か昔のこと」
シルクスのその答えに、
ハクアはさらに問いを重ねる。
「ふうん。ラウルスも?
ところでラウルスの恋煩いの
相手って誰だろうね?」
ラウルスはシルクス救出には一役買って
くれたものの、シルクスがニレ家に来て
以来、何やらびくびくと過ごしている。
だがシルクスが家から離れている隙には
やはりダラリとしている模様。それ故に
飼い主、というよりも後見人であろう
ジュラもお手上げ状態であることは依然と
変わっていないらしかった。
そして夜中には突然寂しそうに、庭で
キュンキュンと泣き出すこと日常茶飯事。
おそらく恋煩いの相手を思い出しているの
だろうか。そしてシルクスの、やかましい!
という一喝砲によって収束することも
この所、日常茶飯事となりつつあった。
「ふん、そうだな。
熊に似て角が生えていたと言いおったな」
「そんな動物いたっけ。
もしかしたら君たちの仲間?」
「熊に似たのはラウルスだけだ」
「じゃあ、角牛?」
「ニアラ、マーコール」
「何それ」
「立派な角を持つ美しき獣だ。
だが熊には見えんな」
とそのとき、シルクスがくんくん、
鼻を鳴らし始めた。
「何やら良い香りがする」
シルクスはそう言うと中心街にそびえ
立つ時計台に降り立った。
「ふむ、何処からかな」
と、エメラルドの瞳でぐるりと街を見渡す。
やがて方向を検知したらしく、
「あっちだ!」
と言うなり、何かに憑りつかれたように
一心不乱で再び飛び立った。
彼らが降り立ったそこは、川沿いに立つ
一軒の店の前。
店の前では店の従業員らしき男が
何やらせっせと段ボール箱を中から
運び出している。
しかし背後に立つシルクスに気付いて
振り向くなり、ぎょっと驚いた顔をした。
そしてハクアの顔を見ると、
「ああ、噂になってる大猫とハクア君か」
と額を手で拭い、やれやれ驚いた、と
落ち着きを取り戻した。
大猫とハクアの名前は今やスイレンに
知れ渡っているらしい。
再び荷物の整理を始める男。
ふとハクアが気付けば、周りの店や家でも
皆同じような作業をしていた。
「皆、何をしているんですか?」
ハクアは男に尋ねた。
「もうすぐロゼナの方から大きな嵐が
やってくるのさ。
この季節ならいつもの事なんだが、
もし川が決壊したらここらは全部、
水浸しになっちまう。
だからそうなる前に品物をここから
離れた場所の倉庫に運ぶんだ」
ハクアは後ろを振り返る。
彼らの立つ場所からは勾配が少しずつ
下っていき、その突き当たりには
岩が積まれた防波堤。
それを越えると中心街の両脇を流れる
二本の川のうち一本、ヘビ川と呼ばれる
太い川がある。
今も滞りなく南へと水が下るるその川は、
三角州を越えるともう一方と合流し、
やがて海を目指す。
「川水が防波堤を超えてここまで来るの?」
「そうだ。どうにか堤を高くして欲しいん
だが、国王は興味なんて無いしな。
数年前も同じことがあったっていうのに、
聞く耳すら持っちゃくれねえ。
まあ、あんな高い所にいるんだから
俺達の気持ちなんて分かりっこないさ」
と男が顎でくいと指さした、その先には。
駅の高架の少し前、その三倍程に高く
煉瓦を積んだ時計台。
その中ほどに空いたトンネルを潜り抜ける、
駅から続く石造りの一本橋。
橋を渡りやがて着くのは時計台と同じ位に
高くそびえ、しかし横に広く構える、丸い
橙色の屋根を冠とする立派な建物。
この国の中心も中心、王宮その場所で
ある。おそらく街全体が見渡せる程の高層階
に国王はきっと鎮座しているのだろう。
「自分たちで勝手にしたら駄目なの?」
「どうも出来やしねえよ。
人手もそうだが必要資材の量が半端ねえ。
だからこうやって備えておくのさ」
ハクアの問いに男はそう答え、
よいしょ、と重ねた段ボールを荷車に
乗せる。ハクアもそれを手伝った。
傍らでシルクスは段ボールの一つに目を
付け、くんくんと匂いを嗅いでいる。
「その中が気になるか。ほら、一つやるよ」
と男はシルクスに臆することもなく声を
掛け、ズボンのポケットから細長い小袋を
取り出すとそれをハクアに手渡した。
「何これ」
「猫は皆これが大好きさ。にゃんこの
定番おやつ『ミャオミャオちゅるりん』だ」
ハクアは店の看板を見上げる。
今まで気に留めなかったのだが、
ここはペット用品専門店らしい。
ハクアとシルクスは男に礼を言い、
再び飛び立った。
上空から見下ろすヘビ川は、その名の通り
まるでクネクネと動く蛇の様。
「ふうむ」
ハクアは何かを思い付いたようにひと思案
しながら、街を後にするのであった。




