三十一.重力に逆らう時が来た
兵士が構えているのは銃身がやたらと長く、
ボルト部分に赤い矢羽がちらりと覗く長銃
だった。察するに赤い羽は麻酔針。
つまりは大型動物用の麻酔銃、それを
シルクスに放つ気らしい。
コノクロ卿はコウモリの駆除そっちのけで
珍しい大猫を捕獲し、何やら一儲けを
考えているようだ。
「戻ろう、シルクス」
ハクアは大猫にだけ聞こえる小声で囁く。
「あ! あそこにも珍獣が!」
突如、ハクアは出口から見える上空を
指差す。なにっ、とコノクロ卿と兵達が
別の方向に気を取られた隙に、ハクア達は
一気に身を翻した。
全速力で駆けながら薄暗い坑道を引き返す。
やがて後ろからもドタドタとコノクロ卿と
数人の兵士の足音が追いかけてくる。
ハクアは駆けっこならば競う相手が大人で
あろうと、そう易々と敗けはしない。
その上、すでに暗闇にも鉱山内の道なりにも
慣れていた分、ハクア達は少し有利だろう。
だが決して気を抜く訳ではなく、息を切らせ
ながら彼らは暗い道を下って行く。
やがて前方に通路の入口が見えてきた。
だがそこで何やら不穏な動きが。
ざわざわと天井で蠢く黒い影。
コウモリが一匹、また一匹と羽ばたいた。
だがシルクスが近くにいるからか、
コウモリ達は足音に反応しつつも、
大きな動きを見せようとはしない。
「早く捕まえろ! 猫を逃がすな!」
背後でコノクロの声が響く。
すぐ近くに感じる、追い人の気配。
いくらハクアが素早いとは言え、
子どものハクアと大人の兵士達とでは
徐々に離れていた距離がやがて縮まって
いくのは然りであった。
ハクアは一か八かとコウモリ達の下を
通り抜け、破壊された通路の入口に
滑り込むと、アンスルから手渡されていた
コウモリ避け装置のスイッチを押し、
コウモリ達の手前ぎりぎりへと放り投げた。
キィーンと人の声では到底出せそうにない、
耳鳴りに似た高い音が洞窟内に反響する。
途端に大量の落ち葉が舞い上がるような
羽音とともに、コウモリの襲撃に怯える
コノクロ達の声。
対極から離れる磁石の様に、超高音に
コウモリ達は騒ぎ飛び、ハクア達の
反対側、つまりはコノクロ卿達がいる
方へと逃げるように押し寄せて行った。
「ごめんなさい! スイッチを押す
タイミングが悪かったみたい」
ハクアは白々しくコノクロ卿達に
そう叫ぶと、再び泉のある洞窟へと
向かい、さらに奥を目指した。
「さて、ここからどうしよう。
日光が射し込んでるから、外に出られる
場所があるんじゃないの?」
シルクスはくいと天を見上げた。
相変わらず口に川魚を銜えた格好のまま、
ほむほむと人語を話し始める。
「真上に飛んで行けば出られる。
だがお前はどうする?」
「いいよ、君だけ逃げて。
多分、どうしようと俺が怒られることに
変わりはないから」
「……恩に着る」
シルクスはハクアをひと度見やると、
ばさりと大きな翼を広げ、飛び立つ
準備を始めた。ハクアは翼が起こす
風圧に思わず後ずさりする。
「後程、ラウルスの気配を辿って
お前の住処に向かおう」
シルクスがそう告げ、いざ飛び立とうと
前後の足をぐぐっと屈めた、その時。
「今だ、撃て!」
背後から野太い声が聞こえた。
ハクアが振り返ると、洞窟の入り口には
軍の兵士数名。コウモリにやられたのか、
それぞれの軍服は所々ひっかき傷で
ほつれている。
その中の指揮官らしき男がシルクスを
指差し、慌ただしく指示を飛ばしていた。
ふとその隣を見ると彼の部下であろう
一人の兵士が、シルクス目掛けて黒い
バズーカを肩に担いでいるではないか。
「やめろ!」
ハクアは叫んだ。だがハクアがシルクスを
庇おうと前に飛び出るよりも先に、
その黒い筒から特大の網が宙へ放たれる。
巨大な、しかし目の細かな網がシルクスの
頭を、翼を覆う。
シルクスは顔を振り振りと身を捩りつつも、
上手く身動きが取れないでいた。
羽ばたくことを阻まれた大猫は、駆け寄る
ハクアに訴える。
「なんだ、これは! 前がよく見えない!」
「動かないで! 今、取るから!」
ハクアは急いでシルクスの体から網を
剥がそうとするが、網の端々には重石が
してある上、翼の関節に引っ掛かったりと
なかなか上手くいかない。
後方で増えてくる兵士の数。やがて遅れて
コノクロ卿も現れた。
ハクアの父、ビャッコもやってくる。
「ハクア! もう下がりなさい!」
ハクアを咎める父の声。
だがそれは今、彼の耳には届かない。
ハクアは何を思ったのか、無我夢中で
リュックから小さな小瓶を取り出し、
シルクスの翼を覆う網に撒いた。
それは網を伝い、シルクスにも多少かかった
であろう。だがそんなこともお構い無しに、
彼は携帯していた小刀で勢いよく網糸を
大きく擦り、摩擦を起こしたのである。
途端にシルクスの背を炎が包み込む。
次にハクアを諫めたのはシルクスであった。
「熱い! それに臭い! 何をした!」
「ごめん! こんなに燃え広がるとは
思わなかった!」
瓶の中身の液体は、以前ここでジュラが
使ってみせたロウガの滋養酒である。
どうやらその酒はビャッコにも配られていた
らしく、ハクアの家にも同じものが置いて
あったのだ。
「何を考えている!」
何か考えたのか、考えていなかったのか。
火を起こした本人が一番うろたえ、
だがしれっと正直に。
「……シルクスなら耐えられるかと」
だが、その無茶が起こした炎で編まれた
糸が燃え、千切れてゆく。
本当何が入っているんだろう、とハクアは
強烈な臭いに鼻をつまみながら、脆くなった
網を急いで翼から引きはがす。
「シルクス、すぐに飛んで行くんだ!」
翼が自由になったシルクスは再び
上昇しようと羽ばたき始める。
だが追い打ちをかけるように別の兵士が
新たに武器を構えた。今度は先程の出口で
見かけた麻酔銃だ。
「そうはさせるか!」
ハクアは小刀を構え、シルクスの前に
飛び出して行く。
勝負は一瞬。
ハクアは銃口に見定めをつける。
その目はまるで瞳孔が開いた獣の様に
見えただろう。
それからの光景は、ハクアにはまるで
スローモーションのように見えていた。
跳ね上がる銃口から撃ち出される、
細長い針。振りかぶる、ハクアの腕。
――ここだ……!
眼前を針が通り抜ける刹那。
ハクアは小刀を振り下ろした。
チリン、と微かな音を立て、小刀に
捉えられた麻酔針は見事に地面に叩き
落とされた。
おお、と感嘆の声が他の兵士達から上がる。
と同時に、ビャッコは攻撃を繰り出した
兵士に一喝した。
「息子に当たったらどうする気だ!」
「しかしお坊ちゃんが……」
麻酔銃をぶっ放した兵士がしどろもどろに
なっている、その隙に。
翼を広げたシルクスはハクアの後ろ襟を
前足で掴むと、残炎揺らめく網を
まといながら飛び立った。
個体の上昇とともに火煙はやがてただの煙と
なり、散り散りになった残りの網は
シルクスから剥がれ落ちていく。
大猫は天井の光へ向かい、翼をはためかせ
飛翔しながら、前足にぶら下がるハクアを
後ろに放り投げ、自身の背に乗せた。
「なんという無茶な! だが助かった。
特別に我が背に乗せてやろう!」
この状況になっても魚を離さず、
はむはむと口半分で話すシルクス。
やがて彼らは遥か頭上にある、煌めく天窓を
思わせる抜け穴まで浮上していく。
やがて光射す外界を目指し、地中から飛
び出して行くのだった。




