二十四.迫り来る牙
ハクアの自宅、ニレの屋敷群の庭からは
蝉の声が聞こえてくる。
その姿を探し回る、小さな子達の声。
本来ならばハクアも彼らに混じって、
木の高い所にある蝉の抜け殻を
代わりに取ってやるのだろう。
だがこの時のハクアは外に出て遊ぶどころか
ベッドから起き上がる気力さえ何処かに
置き忘れてきてしまったようである。
「ハクア坊ちゃま。
お友達が遊びに来ておいででございます」
もう昼前にも関わらず閉じられた部屋の
カーテンを開けながら、爺が呼びかける。
「今は忙しいって言っといて」
ハクアはベッドにふて寝したまま、
ぶっきらぼうに答えた。
「よろしいのですか?
テンジャク様とミード様でございますが」
その二人の名を聞くなり、ハクアはぼんやり
していた眼を見開いた。
「……お通ししますね」
ハクアが何も言わずとも、爺は彼の心情を
察したようである。
やがてぺちゃくちゃと何かを話しながら
階段を上ってくる足音が二つ。
それらがハクアの部屋の前で止まったかと
思うと次の瞬間、勢いよくドアが開け放れた。
「よう、ハクア! 元気になったか!?」
最初に景気のいい声を発したのはミードで
ある。いつの日かハクアの妹分である
キキョウに『たわし』とあだ名を付けられた
その頭をわしゃわしゃと掻いている。
「大丈夫? 体の方はもう良さそうだけど」
ミードに続く、柔らかな声はテンジャクだ。
どうやら二人はハクアを心配してやって
来たらしい。だが当のハクアは二人に
背中を向けベッドに横たわったままだ。
「あのさ、もう済んだことは仕方ないよ」
そうテンジャクが話す、『済んだことと』
とは。
坑道に隠された洞窟にて。
コウモリの翼を持つ白猫の姿をした生物、
シルクスとハクアが相対した日から既に
二か月が経とうとしていた。
しかし、そのときの出来事がまだハクアの
心と体に未だ傷を負わせていたのである。
あの日、洞窟内で起きた勝負開始の合図は、
真っ先に攻撃を仕掛けた翼を持つ大猫、
シルクスによるものだった。
子どもだからという手加減も無しにハクアに
襲い掛かってきたシルクスの猛攻。
ハクアはそれをかわし、或いは木刀で
受け止めていた。
だがシルクスの爪や牙から繰り出される
攻撃が洞窟の岩壁に当たる度に、
かなりの硬度であるはずの岩が粉のように
砕けるのを見てハクアはぞっとした。
もはやそれは猫の武器ではなく獅子や虎の
それに近いのではないかと思った程である。
人語を操り、己の考えを持ち、百年以上も
生きていると言われるラウルスと同じ種族
ながらも、彼より齢を重ねているらしい
この賢猫に敵うことなど出来るのだろうか。
しかもシルクスは、ラウルスとジュラは
そっちのけで、何故かハクアばかりを追い
攻めてくる。
――何で俺ばっかりなんだ!?
何か俺悪いこと言ったっけ?
ハクアがそう思ったときである。
シルクスは鋭い牙が並んだその口を
ぐにゃりと歪めて不気味に笑った。
「怖いか、ニレの小僧」
「!?」
「だが、おぬしが武の道を進む以上、
この位で臆していては元も子もない」
「だから、何で俺のことそんなに知って
いるんだよ!?」
ハクアはもと来た階段を駆け上がり、
階下にいるシルクスを見下ろして対峙する。
階段は幅が狭いため、体の大きなシルクス
には登れないらしい。
しかし逃すものかとばかりに咆哮を上げて
ハクアを威嚇しながら、シルクスは彼の
真下を行ったり来たり繰り返している。
ジュラは先程からハクアの手助けをする
べくシルクスを止めようとするが、それも
あっさりとかわされてしまっていた。
「ハク坊、あまりにも危険です。
お逃げください!」
その言葉を聞いたシルクスが高笑いする。
「逃げる? 逃げるだと!?
あいつはそんなことはしなかったぞ?」
「あいつって誰だよ!」
「お前たちの一族を始めた男、
トージャさ!」
「……!
トージャ様のことを知って
いるのか?」
「ああ、友達だ。
私は全部、知っている」
『トージャ』とは、ニレの本家である
滝の一族の始祖と言われる人物の名である。
正しい名を、トージャ・サルバトと言う。
よって滝の一族の長の家系、始祖トージャの
血を引く者はサルバトの名を名乗っていた。
そのトージャに会ったことがあるとすれば、
何百年も前のことだろう。
だがそれ位、昔から生きていたであろう
シルクスならば、彼を知っていても全く
おかしくはない。
「強くて立派な人だったって聞いている」
ハクアの言葉にシルクスはしばし攻撃を
止め、ああ、と頷く。
だがその間にもハクアの身動きをまるで
獲物を追う豹のごとく眼差しで追い、
ハクアが微かにでも動くと今にも飛んで
きそうな雰囲気であった。
洞窟の端ではラウルスが固唾を飲んで
ハクア達を見守っている。
「ああ。立派な男だったとも。少なくとも、
我らに怯えたりはしなかった。
おぬしに彼の血が入っているのならば、
その片鱗くらいは見せてくれるのかと
思ったが」
「君が襲い掛かってくるからだろう!?」
「ははは。そうだな。では、ここで問おう。
私が何を食べて生きているか知って
いるか……?」
そう言ってシルクスはハクアをじろりと見、
再び牙を見せてにやりと笑った。
ハクアの背筋に悪寒が走る。
ハクアは頭に一つの考えをよぎらせ、
ジュラと目線をかち合わせた。
同時に二人は頷く。
「今だ、逃げろ!」
二人は一目散に来た道を戻り洞窟からの
脱出を図る。ジュラは駆けるラウルスの
背に飛び乗り、ハクアに追い付いてくる。
その背後からこちらに目線を向けて
コウモリの翼をはためかせるシルクスの姿。
おそらく飛んでくる気らしい。
そんな緊迫の最中にも関わらずハクアは
驚いた。駆けていたラウルスは勢いを十分に
つけて飛び上がると、ふわりと浮き上がり
一気に階段の上まで飛んで来たのだ。
すぐにハクア達はここまで来るのに潜り
抜けてきた、隠し路へと逃げ込む。
「ここまで来れば、この狭さです。
あの大猫は追いかけては来れまい」
やれ一安心、という風にジュラが言う。
だが、その隣でラウルスはガタガタと
震えている。
「いいや、あのヒト絶対来るよ。
すごくしつこいもん」
ラウルスの言う通りであった。直後、激しい
振動が彼らを襲った。
洞窟への入口にハクアは目をやる。そこでは
なんと、シルクスが岩壁に体当たりし、
岩壁を邪魔だと言わんばかりに牙で噛み
砕いていたのだ。
一気に血の引くハクア達。
「来た道を引き返そう」
ハクアは提案した。
「しかしコウモリはどうしますか」
と、ジュラ。
そうであったとハクアははっとする。
ハクア達は元々コウモリの大群を避けて
ここまで来たのである。
道を返しこの隠し路から出るなり、
そこには再びコウモリ達の来襲が彼らを
待ち受けているであろう。
その事実をすっかり失念していたハクアで
あるが、背に腹は変えられない。
彼らの背後には、大猫がこちらを追わんと
生み出される衝撃が。
「コウモリの方が何倍もマシだ!
行こう!」
ハクア達は駆け出した。
隠し路の入口の岩を押しのけ、現坑道へと
続く通路に這い出たのである。
通路には先ほどの洞窟と違い、外から届く
明かりはない。
懐中電灯はどこかへ落としてしまったきり。
周りはよく見えず、そこにはひたすらに
闇が続いていた。
それでも自分たちがやってきた道へと
まっすぐに駆け出すハクア達。
そのころ既に姿を潜めていたものの、再び
どこかでざわざわと感じる気配。
大コウモリ達だ。
追い付かれる前に早くここから脱出せねばと
ハクア達は焦りを募らせる。
やがて後ろで大きな爆砕音が起きた。
ハクアが暗闇に少しばかり慣れた目で振り
返ると、なんとシルクスの顔が岩の隙間から
飛び出し、こちらに向けて夜目を光らせて
いる。ラウルスが震えるような声を出す。
「あいつ、もう追い付いてきた!」
この速さで山中の岩壁を砕き削るシルクスの
爪と牙は、まさに恐るべき強度であった。
ハクア達は駆ける足の速度をこれ以上出ない
だろうという位に引き上げた。
ついに壁を全て破壊し、穴より抜け出てきた
シルクスはハクア達めがけて突進を始める。
その頭上には、いよいよ暗闇より姿を現し、
彼らに追い打ちをかけんが如く勢いである
コウモリの軍勢。
「もうすぐ出口だ!」
前方にはようやく、来るときに鍵を開けてきた
青銅の扉が。
あそこさえ抜ければ、あとはトロッコに
乗って脱出するだけだ――。
「ラウルス、今度は足を扉に挟まないでね」
ハクアはふと来たときのことを思い出し、
ラウルスに忠告する。
「当たり前だよ! ここにはシルクスの気配
があるって気付いて、行きたくなかった
から足を引っかけたんだ!
今はむしろ早く帰りたいよ!」
――ああ、それを来る前に話してくれていたら
こんな事にはなっていなかっただろう。
動かず話さずのラウルスをどうにかする為に
ここへやってきたハクア達であったが、
その成果がまさに『早く言ってくれよ』的な
ものであろうとは。
ハクアはそう思い、うな垂れつつも出口を
開こうと青銅の扉に手をかける。
あとは引くだけだ。
だがその刹那、力が抜け落ちて動かなくなる
ハクアの肩と腕。
ハクアは何が起きたのかわからなかった。
彼は肩に違和感を感じ、振り返る。
そこには生暖かい感触と、こちらを睨み付ける
碧目の双眸。
ハクアの肩には、シルクスの牙が深く食い
込んでいたのである。
「ハク坊!」
「ハクア!」
ジュラとラウルスと、ほと走る激痛に耐える
ハクア。
それぞれの絶叫が洞窟内にこだました。




