二.道場破り
ある秋の涼しくなった頃、街にある 噂が
流れていた。獣の皮を被った男が突如現れ、
街の片っ端から道場破りをしていると。
この国には武術愛好家の道場をはじめ、
元軍人による道場もあるが、ことごとく
道場破りにあっているらしい。
そんなある日、ハクアは自宅の庭で木刀の
素振りをしていた。彼は体を動かしやすい
秋を好んでいた。
傍らの縁側に、腰をかけ糸で綴じた古書を
読み漁りながら、何やら雑談を交わす
テンジャクとミードの姿があった。
「その獣男、ものすごく強いんだと。
なんでも、獣の技を使うらしいぜ」
「道場破りって何だっけ」
古書に目を落としながらテンジャクが
ミードに尋ねる。
「道場の一番強い人に勝負を挑むことさ。
挑戦者が勝ったら、その道場は看板を
外さなくちゃならないんだと。
俺、そんなの本の中でしか起こらないと
思ってたぜ」
「ヘエ。この道場にも来るのかな」
「おい、何だかワクワクしてんな」
テンジャクの些細な心情を読み取ったのか、
ミードはにやつきながら胡座をかいた。
「だって、獣の技ってどんなんだろうね。
ハクアはどう思う?」
ハクアは素振りのスピードを一定に保ち
続けながらも返答した。
「……牙を持つか。長い爪で引っ掻くか。
歯だろうと爪だろうとどっちにしろ
俺が刀で追い返してやるさ」
「そうか、ハクアは剣術が一番得手だもんな」
廃材置場での打ち明けから、もう何週間にも
なる。色々と気になることはあったが、
楽しい雰囲気が台無しになりそうだったので
ハクアはその手の話に触れないことにした。
突如、縁側の障子が開き、中から涼しげな
目をした女性が顔を覗かせた。
「あら、こんなところにお三方。
寒くはありませんか。今、お茶とお菓子を
持ってきますからね」
ニレ家当主の妻でありハクアの母カズラだ。
カズラとハクアとが並ぶと、
二人はまさにそっくり親子。
彼女の薄い灰色の髪や涼やかな目元は
そっくりそのままに一人息子のハクアが
受け継いでいた。
だが短髪の彼と違い、肩まで伸ばした髪を
カズラは耳にかける。
そして、羊羮でいいわね、とにこやかに
言い残しパタパタと足音を立てて勝手場の
方に向かって行った。
「最近、お前のお袋さん機嫌いいよな。
いつも険しい顔してんのに」
カズラの姿が部屋の向こうに消えるのを
確認した後、ミードが小さな声で呟いた。
「最近父さんが政府高官の依頼でよく王宮へ
出向いてるんだ、現役時代の軍服着てさ。
きっと、母さんは自分まで若返ったように
思うんだろう」
ニレ家の人間は、代々国の軍の将校や
それに近い地位を務めてきた。
ハクアの父であるビャッコは若くして
大将を務めた人物である。
一線を退き道場運営、後進育成に力を入れる
現在も人々に『大将』と親しまれ、現在も
特別顧問として、籍は未だ軍部にある。
ハクアも、若大将と名高かった父の白い
軍服姿を見るのは母カズラと同じく、
とても誇らしかった。
しかし、父の姿が誇らしいという気持ちは
父親と離れて暮らすこの二人の前で
口にするのは気が引けた。
そしてその夜、父ビャッコの帰りは
とても遅かった。
母カズラは軒先で明かりを灯し、
帰りをまだかと心配そうに待ちわびる。
ハクアも二階の自室の窓からそっと、
家へと続く並木道を覗いていた。
結局、父が帰ってきたのは彼が待ちくたびれ
眠りに落ちる寸前のときだった。
ガチャリと玄関の鍵を閉める音でハクアは
はっと目を開けた。
帰ってきた父に、母が労う言葉をかけるのが
聞こえてくる。父が母に遅くなった訳と
仕事の経緯を話す声が端的に聞こえてくる。
時折母が、まぁ、そんな大変なことが、
とか色々と合いの手を入れている。
きっと自分にはわからない内容なのだろう。
ハクアは寝相を整え、いよいよ眠りに
つこうとした。
瞼が重くなり、意識も朦朧としてきた中。
その刹那、胸の中を突如怒りの感情がよぎった。
「彼らが何故、私達より先に王宮に知らせた
のか。私にはさっぱり理解できない」
下の居間にいるはずの父の声が、目の前に
いるかのようにはっきり聞こえた。
しかし感じた怒りはすぐに去り、話声が
居間から聞こえてくるだけだ。
ハクアは不思議に思いながらも睡魔には
勝てず、眠りに落ちるとともに翌朝には
不思議な出来事をすっかり忘れてしまった。
次の日からも、ハクアは鍛練と勉強に励み
続けた。
父ビャッコはやはり王宮直々の仕事が絡む
らしく、帰りが遅くなる日が増えた。
そんなある雨の日、噂の男はとうとう
彼らの道場にやってきた。
その日は朝から騒がしく、何事かと思い
ながらハクアは目を覚ましたのだ。
「坊っちゃん、大変でございます」
部屋の外に出るなり、世話役の爺が
声をかける。
「道場破りなる男が、当主と試合をさせよと
道場内に居座っております」
ハクアは欠伸をしながら返事をする。
「父さんならすぐにねじ伏せてくれるさ」
沈黙がややあって、再び爺の声。
「大変申し上げにくいのですが、
お父上は王宮に赴かれています。
生憎叔父上も。
他の若い者はすでに倒され、
床で延びています」
「え? じゃあどうしたらいいの」
爺はハクアを上から下まで眺め、
「まずは顔を洗い、すぐにパジャマから
道着にお着替えください」
と宣った。
「俺が戦うの!?」
爺は眉間に皺を寄せ、残念そうな顔をする。
どうやら、そういうことだろう。
当主の序列はビャッコ、ハクア、
次いでビャッコの弟ロウガの順である。
よって当主ビャッコが不在であり、
代わってくれそうな叔父ロウガもいない。
となると、もうハクアしかいまい。
ハクアはずいぶん悪い予感がした。
以前、刀で追い返してやると豪語したことも
忘れ、彼は今や背筋が凍る想いに
取りつかれていたのである。