一.プロローグ~三人の少年
△プロローグ△
夏から秋へと季節が移り変わろうとしていた
この日、ジオリブ国の内海に面するロゼナの
街には大きな嵐がやってきていた。
毎年この時期になると恒例行事となる為、
街の人々は嵐の季節と呼んでいる。
少しくらいの雨風を伴うものであれば、海で
果敢に波乗りに挑む者もいるのだが今日は
浜辺にすら人っ子ひとりいない。
その海辺を見渡す小さな丘の上に、庭を広く
取った白い煉瓦作りの屋敷があった。
いつもならば高く昇った陽の光が燦々と
窓辺へと射し込む時間であるというのに、
邸宅の中はとても薄暗く、ひんやりとした
空気に満ちていた。
煉瓦の色と合わせたのであろう白枠の窓に、
雨風が容赦なく打ちつける。
そこから覗く空は真っ暗で、時折稲光りが
ほとばしっていた。
窓の傍に寄せられたソファには薄灰色の髪を
した男が腰をかけている。
男は先程から時間を気にしているらしく、
暗闇でよく見えないであろう掛け時計に
何度もちらちらと視線をやっている。
先程、街の何処かの変電所に
雷が落ちたらしい。
地割れするような大きな音が屋敷まで襲って
きたのと同時に、部屋の灯りがすべて消えて
しまっていた。
はっきりと時刻を読めない苛立ちもあるの
だろう、彼は痺れを切らしたのかのように
溜息混じりに言葉を放つ。
「ずいぶん遅いな」
この男の名前はハクア・ニレという。
おそらくこのジオリブ国で彼の名を知らない
人はいないだろう。
それは彼がこれまでの人生で得てきた
功績もさることながら、その言動が
国に大きな影響力を及ぼすような
人物であるからだ。
それと同時に、今は気が立っているようだが
普段の彼はこの屋敷の気のいい主人としても
この街の人々にその名を知られていた。
ハクアの膝の上には三、四歳位だろうか、
まだあどけない顔をした少女が頭をもたげて
横たわっている。
少女も彼と一緒に何かを待ち、すっかり
くたびれてしまったのだろうか、今は静かに
寝息をたてて眠りについている。
着のみ着のままでは風邪をこじらせそうだと
思い、ハクアは自身の着ていたジャケットを
脱ぐと少女に優しくかけてやった。
そんな二人を横目に、傍で立ちつくす
もう一人の人物が静かに呟く。
「そろそろですかな」
そう呟いたのはハクアよりも随分歳をとって
いそうな初老の男であった。
彼も時間を気にしているのか、なんとか
外の雷光で文字盤が見えないものかと
何度も時計を窓辺に傾けている。
ハクアはその男の言葉にすぐに返答は
しなかったものの、やがて何かを言おうと
口を開いたそのとき―――。
近くの別の部屋から、まるで雨音を
押し退けるかのような強い産声が屋敷中に
響き渡った。赤子が生まれたのである。
その場にいるのであろう女達が歓喜の声を
あげている。
「生まれたようだな」
そう言いながら、ハクアは安堵したように
息を大きく吐いた。
雨音に遮られ、かすかであったが
女達が赤子の性別を高い声で興奮気味に
話しているのが彼の耳に聞こえてきた。
「どうやら男の子みたいだ」
ハクアの胸は喜びと期待に満ちていた。
嬉々とした様子で初老の男にそう告げる。
「男の子ですか。
それはおめでとうございます」
男もめでたいとばかりに微笑み、彼に祝いの
言葉を返す。
するとそのとき、外で一際大きな雷轟が
唸りを上げた。それに呼応するかのように
雨の音も一層激しさを増していく。
初老の男は窓から空を見上げた。
闇空をまるで真っ黒な紙を破るかのように、
稲妻が引き裂いている。
彼はその様子に、朗らかな表情から一転、
顔を曇らせ嘆くように呟く。
「この国も、あの空のように裂けなければ
良いのですが」
その一言で、ハクアはこの国と、この家の
幼子達の行く末は案じられるべきもの
なのだと改めて知らされる。
空の雷鳴の轟きは、赤子の誕生を喜ぶ祝いの
鳴り物にはなってくれないのだろうか。
彼もまた空を見上げ、憂いの表情を
見せるのであった。
△三人の少年△
ハクアの物語の始まりは時を遡ること
二十数年前。
彼はジオリブ国の首都、スイレン郊外に
居を構えるニレ一族の家に生まれた。
ニレの一族は、代々国の武勇を率いる強者を
多く輩出してきた家系である。
そして現当主ビャッコ・ニレの長男坊として
ハクアは物心がついた頃から当主である父や
叔父達によって武芸はもとより、才ある人物
となるべく厳しい教育を受けてきた。
剣術や体術、馬乗り、算術、戦法、習字――。
毎日が目まぐるしく、このとき齢十歳の彼の
柔らかな薄灰色の髪はよく汗をかき、
そのせいで汗疹が出来やすいからと、
母親の手でいつも坊主頭にされていた。
そしてその英才教育の主な舞台となったのは
ハクアの父ビャッコが親戚達と営むニレの
道場であった。
山の麓のだだっ広い一つの敷地内に、ニレの
家族はそれぞれ家を建てて暮らしている。
その道場もハクアの家のすぐ傍に
位置していた。
道場には一族以外の家の子ども達も多く
通っていて、算術やあるいは習字だけを
習いに来る子どももいたし、ハクアの
ように文武両道を目指して習いに
来る子も少なくなかった。
ハクアは同年代の子どもたちのうち、
当主の息子であるがゆえに誰よりも
幼き頃から修行を叩き込まれてきた。
しかし、だからといって他の子達よりも
常に頭一つ抜きん出ていたわけではない。
ハクアは凛々しく涼やかな外見とは裏腹に
頑固で負けず嫌いではあったが、素直な
部分も多かった。
そして他の少年達に対して凄いと思うことが
あれば、それを認めることも出来たし、
むしろ認めざるを得ない人物が道場には
何人かいた。
中でも、いつも一番知勇に秀でていたのは
ハクアより二つ年上のテンジャクという
金色の髪を持つ少年だった。
ハクアが子どもながらぼんやりと思ったのは
テンジャクは自分達の汗臭さと比べたら、
彼はとても身綺麗であること。
彼は鍛練で誰とどんな取っ組み合いを
しようが、道着の合わせを引っ張り帯を直し
すぐに身なりを整える術を持っていた。
彼がどこか良い所のお坊っちゃんなことは
大人達の話から想像がついたが、それだけが
彼の所作や立ち振舞いにつながっているとは
思えなかった。
そしてテンジャクは、ハクアや他の年下の
子どもに優しかった。
「ねえハクア、枇杷の実がなってるよ。
取ってこようか」
夕方の手習いの後、ハクアはテンジャクと
共に松や紅葉など多くの庭木が並ぶ敷地内の
砂利道を歩いていた。
テンジャクは緋色の実がなる琵琶の木を
指差しそう言った。
ハクアは彼を見上げた。
傾いた夕陽がテンジャクの金色の髪を
まばゆく照らし、まるで輝く金の稲穂の
ようである。
ハクアはしばし琵琶の実よりもそちらに
見とれていた。
そこへ後ろから、誰かが砂利道を走ってくる
のが聞こえた。
「ハクア兄。待って」
道着姿の女の子が駆け寄ってきた。
同じニレの遠戚である一つ年下の
キキョウだ。彼女も女の子ながらニレの家系
として、文武両道の道を敷かれている。
「その枇杷、キキョウが食べたいの。
ハクア兄、おぶってよう」
キキョウは一つに結んだ長い黒髪を靡かせ
ながら、琵琶の実を取るべくハクアの背中に
おぶさろうと彼の周りを跳び跳ねている。
ハクアはため息をついて少女を諭す。
「お前、さっきも食べていただろ。
そんなに枇杷ばかり食べると、
腹を冷やすぞ」
図星だったのかキキョウは途端にむくれ面に
なった。
そこへ別の少年が現れ、粗雑な言葉で彼を
からかう。
「ハハッ、おいハクア、そいつはお前に
甘えたいだけだぜ。お前、勉強は出来る
のにオンナゴコロはさっぱりだな」
同じく道場に通う商人の息子、ミードだ。
彼は商人の息子らしく、算術と戦法が
とても得意である。
「見ろよ、あの赤い顔」
と、ミードはハクアに囁きながら
キキョウの方を顎で指す。
ハクアがそちらを見ると、キキョウは確かに
赤い顔をしていたが、単にミードに
冷やかされて怒っているのではないかと
彼は感じた。
キキョウはくりくりした黒目を伏せ、べそを
かきはじめている。
「キキョウは、ハクア兄に遊んでほしい
だけだもん。いつもミードやテンジャクと
どこか行っちゃうんだもん」
もじもじと爪先で砂利に円を描きながら、
キキョウはなんとかハクアに相手をして
もらおうと粘っている。
でも今日はこの二人と――、
ハクアはキキョウをどう宥めようかと考えを
巡らせていた。しかし彼が何か思いつく
よりも速く、ミードは彼の肩に手をぽんと
置き、そしてキキョウに言い放つ。
「まーな。
お前も一緒に来てもいいが、これから
俺たちが行くのは…廃材置き場だぜ?
ネズミもいるし、トカゲもいる。
おまけにお前も俺たちもしまいにゃ
埃かぶれの泥だらけだ」
みるみるキキョウの眉間に皺がよる。
ミードが、それでも来るかい? と返事を
促すとキキョウは無言で首を振り、
身を翻し走り去った。
ミードはしてやったりと手を振る。
「じゃーな! ちびキキョウ!
……さてお二人さん、今日はどこに行く?」
ミードはハッタリをかましたことも忘れた
ようにさらりと二人の少年に向き合う。
そのとき、
「あたしはチビじゃない!
今に見てなよ、たわしミード!」
キキョウが負けじと遠くから言い返すのが
聞こえた。絶妙なあだ名に、思わずハクアと
テンジャクは吹き出した。
ミードは自身の茶色いボサボサ髪を撫で、
そんなにたわしみたいか? と自問した。
ミードは雑な話し方をするが、妙に人の心を
読むことや話術に長けている。
「本当に廃材置き場に行くか?
ごみやまの一番下がどうなってるのか見に行こう」
彼の思いつくことは少年達にとっていつも
魅力的だと思え、彼らの遊びを面白おかしく
してくれた。
その後三人は廃材置場で色んなものを
繋ぎ合わせては謎のヒーローごっこや
物々交換ごっこをして遊んだ。
遊び疲れた後は平らな鉄屑を探して腰かけ、
持ってきたリュックの中から水筒と
菓子パンを取り出し頬張った。
パンにかぶりつきながら、ハクアは二人の
兄貴分に尋ねた。
「テンジャクとミードは同い年だから、
次の春から高学院に行くんだろ?
もうどこにするか決まってるのか?」
テンジャクとミードは顔を見合せ、
にんまりした。
「ああ。俺たち二人とも、あの首都で一番の
とこさ。
お前の親父さん――お師匠様が、俺たちの
推薦状を書いてくれた」
「お師匠様もかつて学ばれた所だよ。
ハクアもあと二年したら一緒に通える」
「へー。試験受けたら十分入れるのに、何で
推薦状頼んだんだ? 父さんの推薦状の
値段って結構高いんだろ」
再びテンジャクとミードは顔を見合せた。
やがてミードが何か言いづらそうに、
たわし頭をわしわしと掴みながら
ハクアの方に向いた。
「俺たち二人とも、父親が問題アリでさ、
いや別に悪いことはしてねえんだぜ。
だけど政府に嫌われてるっぽいから……
あそこは政府役人も御用達だろ?
だからお師匠様に口添えしてもらわないと
恐らく、入れてもらえないかも
しれないんだと」
二人の父親……ハクアは今まで気にしたことが
なかったが、二人と出会い5年位は経って
いるのにそういえば家族の話題はあまり
出てきたことがなかった。
「……二人の父さん、
一緒に暮らしてるのか?」
ハクアがとっさに思い浮かんだ疑問だ。
母親は何度か、見学や送り届けのときに
道場で見かけたことがある。今思うと、
二人の父親は見たことも聞いたこともない。
ミードが俯いて食べかけのパンを見つめて
いる。その様子を見て、テンジャクが
柔らかい声で話す。
「一緒に暮らしてないんだ。僕の父は、
国の外で暮らしてる。今国を治めている
人々にとって邪魔だと思われたんだ。
……ミードのお父さんは……」
テンジャクが言いかけると、ミードは
ようやく前を向き、
「いいよ、俺が話す」
とテンジャクを手で制した。
「俺の親父は各地を渡り歩いてきた商人だ。
俺が生まれたときから、お袋や俺を置いて
家を開けることが多かったが今回は違う。
二年前からさ。国に入ってこれないんだ。
簡単に言うと、金が大好きな国の連中に
騙されたんだよ。……いや、違うな。
騙し合いで負けたんだ」
最後の方は独り言だったのか、
聞き取るのがやっとな位の小さな声だった。
ハクアが知る限り、常日頃あまり負の感情を
表すことのない二人であったが、このときは
表情からは輝きが消えていた。
そして廃材置場の埃っぽさと、今の今まで
気にしなかったこの場所の泥臭い匂いを、
三人は今更ながらに感じていたのである。