プロローグ
これは、ぼくが子どもだったころの話。母親は働いていたから、食事を作るのはぼくの仕事だった。学校から帰って、買い物へ行って、暗くなって母親が仕事から帰ってきたら、食事をあたためなおして食べさせる……
ずっとそんな日が続くと思っていた。こうやって大人になって、働いて、そして死ぬんだろうなあって。
それ以外の生き方もあるって知ったのは、彼女に会ってから。
彼女に会ったのは、ある雪の日。
小さいときは、冬がきらいだったんだ。吹く風は、けんかをしている人の声と区別がつかなかったし、寒くて目が覚めたら、だれもいなかったことが、よくあったからね。
話し相手になってくれる人ならだれでも良かった。あかりにひかれて入ったそこは、お酒とたばこと、あとは、なんだかよくわからない甘い匂いでいっぱいだった。
閉まっていると思ったドアは開いていて、だれもいないと思ったら声をかけられて、びっくりした。
中にいたのは、女の人だった。
「どうぞ」
彼女はこごえていたぼくに、あたためたミルクを出してくれたんだ。にっこりされて、ちょっとだけ、どきどきした。ほんとうにちょっとだけだけれどね。
それがはじまりだったんだ。
「だらしない」
母親は、彼女のことをそう言っていた。「ちゃんとした」仕事について、女手ひとつで子どもを育てているつもりの母親からすれば、自分とはちがう生き方を選んだ彼女のことが、許せなかったのだろう。今考えると、それだけではなかったことがわかるけれど。
お店には、いろいろなお酒の瓶が置かれていて、椅子に座って、読めない文字をさがすのが、好きだった。
お酒を飲むお店だったけれど、お店にあるのはお酒だけじゃないんだ。陶器の猫だったり、赤ん坊だったら入れそうなくらい、大きなコップだってあった。見たことのない国の地図や、ぼろぼろになった外套だってかざってあったよ。
ぼくはここが好きだった。
でも、壁にかかった、鹿の首は別だった。ハクセイだって? そうとも言うね。こわかったんだ。目がガラス玉なのに、いつも見られている感じがしたからね。おまけに、近づくと、にらまれるような気がしたんだもの。
雪がふると、母親の帰りは遅くなる。ぼくは、次々と消えるあかりを見ながら、ひとりで待っていた。
だから、冬はきらいだった。
「あら、冬は奇跡の起こる季節なのよ」
でもね、彼女は笑った。そして、ぼくに昔話をしてくれたんだ。