冬だから死ななくちゃ
〈ぼくと、ぼくのたったひとりの親愛なる弟、ユキの話〉
ぼくはユキって名前でね、そう、生まれた時に雪が降っていたんだって。白くて柔らかくてまあるい雪が、町中に静かに積もっていく。また完全な満月の神々しい光、ひそやかな星の囁き。まるで絵本の中へ迷い込んでしまったように綺麗な夜だった――という風にぼくは決めつけている。もう十一年も前の話だもの、覚えているわけないじゃない。だったら美しい方がいいでしょう? まあ、とにかくぼくは冬生まれなんだ。肌がみんなより白くてすべすべなのも、かき氷が好きなのも、水泳が苦手なのも、全部にきっと冬生まれってことが関係しているんだ。
ぼくの双子の弟もユキって名前でね、そう、生まれた時に雪が降っていたからだよ。ユキも、生まれた時の景色は覚えていないみたい。仕方ないよね、だって十一年も前の話だもの。とにかくユキも冬生まれなんだ。だから肌がみんなよりも白くてすべすべで、かき氷が好きで、水泳が苦手なんだよ。
ぼくはユキのことをユキって呼んでいる。ユキもぼくのことをユキって呼んでいる。ややこしくないかって、みんな聞くけれど、まさか! ぼくはぼくのことをぼくっていうし、ユキもユキのことをぼくっていう。ぼくがユキって呼ぶのはユキだけだし、ユキがユキって呼ぶのもぼくだけだ。間違えるはずないじゃない。十一歳だってそれくらいの分別はあるよ。もっとも、ぼくたちはいつだって二人でいるから、ごっちゃになったって、そんなに困ることもない。どっちがどっちのユキでも、ぼくとユキにとっては、夜更かしと朝寝坊くらいの違いしかないんだ。
「ユキ。」
ぼくたちの憎むべき季節が、すぐそこまで来ている。ぼくは去年までと同じように怖がりなユキの手を握ってやる。ぼくにはユキが、ユキにはぼくがいる。ぼくとユキが繋がれば永遠だ。だから大丈夫さ――ユキ。
夏の間遊びにおいで、と兄からの絵葉書は締めくくられていた。ぼくは、美術館を出た後のような、不思議でいて妙に静かな気持ちになって、部屋の中をぐるりと見回した。白塗りのドア、出窓に育ちかけの青水晶、星座早見盤。勉強机の上には下敷き代わりの元素記号表――ここまで全て、兄が残したり贈ってくれたりしたもの――そのまた上にそれ自体が氷のようなフラッペグラス。青ばかり痩せた絵の具のチューブ、つまり様々な青の並んだパレット。端まで引いた藍白のレースカーテン。ベッドシーツにその透かし模様のマーブリング。ぼくの冬色の部屋は、ぼくのために、精一杯日射しを薄めようと震えている。
終業式の日の午後だった。ぼくは夏服のボタンをひとつ外して、空調を一度下げた。
「だから、夏の、間、遊びに、おいで。一雄、より。」
その冷風を胸いっぱいに吸ってから、読み上げてみる。
「……嘘。」
何か飴玉の破片のようなものが喉の奥に引っかかる。
「兄さんは嘘つかないよ。」
「でも嘘って思わない?」
「嘘みたいにうれしいね。」
ユキがぼくにすり寄る。かき氷のソーダシロップの吐息。真っ青な舌。頬は月明かりを映す綿雪、髪は帚星の走る空。ぼくとよく似たぼくのユキ。触れ合ったところから、宇宙の仕組みが崩れていく。
「夏の間って、いつからいつまでのことかな。」
「ぼくとユキの真ん中だから……。」
「永くて、短いね。」
溶けかけのかき氷を、スプーンでぐるぐるかき混ぜる。青い地球は回り続ける。ぼくはその中心をえぐって食べてしまいたい。そしてぼくをぼくのいるべき場所に永遠に留めたい。
「夏なんか大嫌いだ。」
それは、まだ何者でもないぼくの、祈りの言葉に違いなかった。
「でもほら、今年の夏はちがうよ。」
ユキの細い指先が、兄の手紙の最後の一文をなぞる。そこから涼やかな、透き通った風が吹き上がり、ユキの輪郭をぼやけさせる。兄の住んでいるところ。涼しくていいところ。ぼくは目を閉じてそこへ旅立つ――ぼくは東京からスケッチブックと絵の具だけを持ってきている。雑木林の緑を、透明な川面を、兄を、描いて過ごす。そしてぼくは、生まれて初めて、夏を惜しむことを知る。十二回目の夏がぼくを変える。ぼくは冬になっても事あるごとに狂ったような日差しを請い、弱いユキを気にかけることを一瞬、忘れてしまう。
――ぼくは眼を開く。ユキが柔い産毛をきらきらさせている。ユキ。ぼくのたった一人の親愛なる弟。
「どこで過ごしても夏は夏だよ。」
「この夏なら、ユキも気に入るかもしれない。」
「無理だよ。ぼくとユキには……。」
ユキはさらにぴったりと身体を寄せてきた。ユキの身体ははじめ、ぼくよりほんの少し冷たいが、すぐにぬるまってしまう。ぼくはユキを引き離そうとして、手をかける場所が溶けてしまっていることに気がつく。面倒になって、そのまま再び目を閉じる。夏のにおいがする。生命の炙られるにおいだ。
「行こうよ。」
ユキの声は風鈴の音に似ている。透明で、淵の青い、薄い硝子の風鈴の音。その涼やかさは、ぼくの熱を優しく宥める。
「ぼくは行きたい。ユキと行きたいよ。」
ユキがぼくの肩を掴んで揺さぶる。骨張った指だ。ピアノを弾いたり、絵筆を持ったりする為の――ぼくとそっくりの――白い指。しかしこの中身、いや指だけではない、ありとあらゆる骨と骨の間には、得体の知れない粘着質なものがみっちり詰まっていて、近頃、ぼくを夜な夜な脅かす。蒸しかえる空気のなかで、ぼくは息を荒げて身もだえる。ぼくはせめて綺麗なものを順番に思い浮かべる。使い古した玩具の行進は、決まってぼくとユキが生まれた日の雪景色で終わる――はじめ視界が白く霞むほど激しかった雪は、進むうちに次第に静まって、繋いでいるユキの手の力も、それに合わせて弱くなる。
「ユキ!」
ぼくはユキの肩を掴んで揺さぶる。ユキは瞼を持ち上げることすら億劫そうに、それでもどうにか弱々しく微笑んでみせる。
「ぼくもう死ななくちゃ。」
ユキ、ぼくの親愛なるもう一人のぼく! ユキはぼくにとびきり優しく囁きかける。雪の季節はもうじき終わります。ぼくは冬に生まれ、冬には死ななくちゃなりません。残されるきみに訪れる新しい季節が、どうか幸いなものでありますように……。ユキはそれから、立ち尽くすぼくの胸に手を当てる。それはぼくの体温で忽ち溶けだし、ぼくの中へと流れ込む。ぼくはそれを止める術を知らず、ただ、夜の闇の静けさに震えている。
「……きみは怖くないの?」
緩く頭を振って雪を落とし、冬色の部屋で深呼吸をしてから、ユキに問いかける。ユキの臆病はぼくの比ではなかった。勇気づけるのは、励ますのは、いつだってぼくの方だった。何かを決めることができるのは、ぼくだけのはずだった。
「ちっとも怖くないよ。」
「どうして。」
ぼくは涙が出そうになるのを必死で堪えて畳み掛けた。ユキはいっそ無邪気に答えた。
「だってぼく、その為に生まれてきたんだ。」
そしてユキはかき氷の残りを飲み干してしまった。
一人になってから、ぼくは窓辺の青水晶が光を忙しなく散らすのをしばらく眺めていた。糸で吊るされた秘密の塊。法則通りの美しさは、ある日突然正体を現す。そして逆らうことを許さない。
飴玉のようなピンで、絵葉書を壁に刺す。難解な、それでいて弱い魔法のような名前の雪国の景色。滑らかな夜の幕、不釣り合いなほど大きな満月――ぼくとユキはやはりそういう日に生まれたに違いないということ。そして、大嫌いな夏の始まりに、こんな絵葉書が届くことを、ぼくもきみもその時から分かっていたということ。ぼくはユキに伝えたいと思った。
「ユキ。」
闇に灯る雪を指の腹で撫でると、僅かに、逆さまの兄のペンの跡が分かった。
〈ぼくのたった一人の親愛なる弟、幸雄へ〉
この頃暑くなったね。うんざりしているだろう? 父さんと母さんの言う事も、その為だといいんだけど。
幸雄は外遊びがあまり好かないようだし、かといって家でも遊び相手がなくて、寂しいんだろう。それでそんな妙な芝居をするんだね。父さんも母さんも心配しているよ。そしてかわいそうに思っている。
兄さんも同じです。お前とは一回りも違う上、こう離れているから、何も分かってやれないようですまない。しかし幸雄も次の春には中学生だ。そろそろ、ごっこ遊びは卒業しよう。兄さんの弟は幸雄一人だけです。幸雄一人のためになら、兄さんはなんでもしてやりたいんだよ。
だから夏の間遊びにおいで。一雄より。