佐々原4
戦々恐々しながら思い悩んでいると、部屋の呼び鈴が鳴った。
嫌な予感しかしない。
覗き穴を見ると、睨みつけるようにこちらを見上げる佐々原の姿があった。
居留守を決め込んでも良かったが、後が怖そうなので結局、招き入れることになる。
「もうご飯は済んだのか」
「食べるのを邪魔する話し相手がいなかった」
「そう思うなら、たまには誰かと食べろよ」
なぜだろう。
一瞬、殺されるかと思った。
「なぜ一歩下がる」
「なんとなく」
後ずさった分だけ、歩を進めてくるので、ぼくはその場に留まって脇にあるベッドに腰を掛けた。
「座れよ」
「うん」
無言の圧力がほんの少しだけ緩まり、佐々原はぼくの隣へと腰を下ろす。二人分の体重が掛かったベッドが撓み、自然、二人の距離が少しだけ縮まる。
こうやって隣同士で肩が触れ合う距離になっても落ち着いたものだった。
これが大使や少尉だったなら、全力で逃げ出していることだろう。
居心地がいい。
そうして静かで安らかな時を過ごしていると、佐々原が唐突に「約束」と言い出した。
「は?」
「眼鏡」
「あー……」
そういえば佐々原が言っていた。
部屋で眼鏡を掛けて見せろと。
「もういいだろ。こないだ見せたし」
「あれは部屋の前だった」
「なにが違うんだよ」
「他人に見られない」
「お前が見てんだろーが」
「私は隣人。他人じゃない」
なんだその言い訳。
それ言い出したら、同じ寮だからとか、同じ駐屯地だからとか。
どれだけでも広げられるだろ。
眼鏡を掛けたくないぼくと、それを見たい佐々原。
ぼくらの押し問答はおよそ三十分ほど続き、決して折れようとしない佐々原に、ぼくはついに根負けした。
「これで最後だからな」と前置きをして眼鏡を掛ける。
世界がクリアになり、佐々原の顔が鮮明に見えた。
やはり不思議と平気。
「似合う」
「可愛いとか言うんだろ」
「頭が良さそう」
それはなんだか嬉しい。
ただ。
「その言い方だと実際は頭が悪いみたいだな」
「いいの?」
「歴史は好きだな」
得意では無かったけど、教科書に載っている人物を使って、頭の中で戦記を描いたりしていた。
騙されたと分かった時に、小西行長はどんな思いだったのだろうとか。
黒田官兵衛視点で見ていくと、ただ人の話を聞かない間抜けだけれど、実際には誰だろうと同じ境遇に立たされていたと思う。
たとえば過去のぼくがそうであるように。
人は自分に都合が良いよう考えてしまう。
「お前はどうなんだよ」
「一般教養が得意」
「それは教科じゃないだろ」
倫理の授業とかなら倫理と言え。
「人形を使っての教練は好き」
「訓練だろ、それ」
体育と言えよ、体育と。
「私の学校は軍事教練しか教えない」
「どんな学校だ」と、言ってぼくはふと顔を顰める。
学校。
そのキーワードが話題に出る度に、アレクシーの顔が思い浮かぶ。
やっぱりフー大使に聞いてみるべきなのか。
他人の自分がそこまで踏み込んでいいのか。
それさえ見極められれば今すぐにだって問い質すのに。
「どうかした」
「なにが」
「頭を壁に打ち付けそうな顔をしている」
どんな顔だよ。
もどかしいとは思っているが、壁に頭なんかぶつけない。
「ちょっとアレクシーのこと思い出して」
そう言ったところで口を閉ざす。
秘密だと口止めされていたし、本人以外が言うべきことじゃないだろう。
言葉を途中で止めたことに不満を覚えたのだろう、佐々原は僅かに目を細めた。
ぼくだからこそ分かる微細な違いだったが、これは相当に苛立っているに違いない。
「今の流れで彼女を思い出す理由はなに」
「前に同じようなことアレクシーと話しててな。ちょっと思うところがあるんだよ」
「それはなに」
「言えない」
あ。
今、明確に機嫌が悪くなった。
ぼくは言い訳がましく言葉を繋ぐ。
「人には言えない問題なんだ。聞きたきゃ本人に聞けよ」
「学校と言った時に、不愉快げに眉を顰めた。それに関連すること」
目ざとい。
そして、くどい。
「本人には言うなよ。あれで案外、メンタル弱いから」
「………イクトはアレクシスに甘い。食堂でもそう。面倒だと思ったら、イクトは相手を煩雑に扱う。けれど彼女にはそれが無い」
まるで相手によっては人でなしのように言うな。
相手が礼儀正しかったり、ぼくに対して友好的ならば、相応の対応をする。
利害関係が無ければそんなもんだろう。
あとは重い過去を背負っていたり、とか。
特別な事情を抱えている人間に強くは当たれない。
それはきっとぼくが平凡ながらも、まともな親に育てて貰えたからだろう。
幸せだった。
後ろめたさがある。
「そう言ってくれるなよ。アレクシーは悩みなんか無さそうに見えるけど、昔に色々と苦労してるんだ」
そこで佐々原は黙り込む。
何事かを頭の中で整理するように目を閉じ、そして開いた。
「イクトに質問がある」
「改まったな」
責めるような流れが一度は止まったので、こちらも落ち着いて対応が出来る。
「なんだよ」
「イクトは彼女が苦労をしているから優しくしている?」
「理由の一つだな」
誰だってそうだろう。
苦労人に鞭打つような真似が出来るのは、それこそ人間じゃない。
「他の理由は?」
「ぼくに対して嘘が無いところだな」
「嘘」
「分かるだろ? 嘘でも褒めて欲しいってよりも、悪態でも本当のことを言ってくれる方が安心するんだよ。わざわざ嘘をついて人を貶したりしないだろ? そういう意味ではぼくは郷原のことも嫌いじゃない」
もちろん、好きでもない。
ただああいう人もいるんだと思う程度だ。
「大変な過去があって、嘘が無い」
ぼくに対する問いかけではなく、佐々原は小さく呟き、床の一点を見つめた。
唇を引き結び、瞬きすらしない。
筐体のファンが唸る音だけが部屋に響く。
彼女との居心地のいい空間が侵されていく。
話題を変えようと口を開きかけたところで。
佐々原が意を決したようにこちらを見た。
「さっき私が通っていた学校はどんなかと聞いていた」
話題が変わったはずなのに、ぼくは違和感を拭いきれない。
ぼくは殊更に明るく「好きな教科を素直に教えてくれる気になったか」と笑顔でそう尋ねた。
「案内する。眼鏡を掛けたまま付いて来て」
言って立ち上がった佐々原は部屋を出て行く。
後ろを振り返りもしない。
ぼくは慌てて彼女の後を追いかけた。




