自由への逃走
久高録治として、なのか『グベ』としてなのか、自己認識する意識はいつ持ったのかはわからない。
気が付くとどこかの街のスラムに数人の孤児と共に群れていた。
お互いの名前や生い立ちや事情など知らない。知っても意味がなかったからだ。明日死んでいるかもしれない相手と仲良くなどする必要がない。
多いときは10数名、少ないときは2、3人だった。スラムの一角の壊れかけた廃墟に寝泊まりしていた。残飯あさりやかっぱらいで食いつなぎ、衣服は死体から剥ぎ取った。定期的な街の警邏の「掃除」から逃れ、昼も夜も警戒して生活していた。
チート能力でもあればスラムの孤児を組織して成り上がるなんて事できるのかもしれない。けれど自分自身の明日すらわからない状態で、なんの能力もない俺には、今日死なない事しかできなかった。
俺はふと歌を口ずさんでいた。
ウィーシャルオーバーカム
黒人霊歌がどうにも今の状況にあっているような気もする。
現状からきっと抜け出してやる、みたいな。
ああ、俺はきっとギラギラしていたのだと思う。
だから近くに座っていたやつがイライラしたんだろう。
「うるせぇよ。今すぐその耳障りな音やめろよ。」
背の高い痩せこけた少年だった。といってもここには痩せたやつしかいない。
だから鋭い碧眼とくすんだ金髪と、覆いかぶさるような威圧感で判断した。難癖をつけにきているのだと。
「陰気くせえしぼそぼそ近くで呟いてるからいらいらすんだよ」
だが俺はやめなかった。俺自身もいらいらしていたからだ。腹が減っていたらまともな思考もできない。俺はまだ知識チートを信じていたし、この状況を不当なものだと感じていた。
「こんなごみ溜めに泥混ぜたような場所から抜け出してやる」
「ああ?馬鹿かお前はどうやってぬけんだよそんな希望なんかねーよ」
そういって彼は俺を思いっきり殴った。よける気力が無い俺はそのまま食らったが、拳は思いのほか軽かった。まぁダメージがないわけじゃないので、そのままうめいてうずくまった。彼はふん、と一息して外へ出ていった。食糧調達とかだろう。捕まればいい。うう、とまたうめいて座りなおす、するとそれを見ていた近くのおなかまがやってきた。
「ねぇ、さっきのぼそぼそしてたのって、もしかして歌?」
ぎょろぎょろした目だ。こいつは茶色の瞳だなとその小さな体躯を観察した。灰色に染まる髪の毛は長く、どっからか拾ってきたのか飾り気のないひもで後ろにまとめてしばっていた。年は見かけ6,7歳くらいに見えたけど、みんな栄養の状態が良くないからもしかするともう少し上かもしれない。
「ああ、歌。」
「やっぱり!僕、歌好きなんだ。母さんがよく歌ってくれたんだよ」
こいつそういえば最近になって見かける顔だな。とふと思った。俺もかつてそんな感じで話しかけまくったような気がする。知識チートで協力してこのスラムを改革とか考えていた。けれど、改革なんて無意味だ。望んでいないやつらと何かをしようなんて無駄な事だ。日々を生き残る事が目標のやつらには、明日の事なんかどうでもいい。そしてその明日には、隣の顔が入れ替わっている現実。俺は一人で抜け出すことにしていたんだ。
「目障りだ、隅っこ行ってろよ」
「あ、ご、ごめん。その、でも聞いたことのない歌だから素敵だなって」
「・・・・」
寝たふりを決めた。
騒がしい音と多数の足音で目が覚めた。
「くっそ、あいつらに寝床がばれたみんな捕まるぞ!!」
これは仲間意識で出た言葉ではない。逃げる子供が多ければ、その分捕まる確率が低くなるからだ。
体をはね起こして裏口を出る。笛の音がピーピーこだましている。うるせぇよ。やかましい。
「あうぅ!」
後ろの方でずざざっと倒れた音がした。昨日の小柄でギョロ目の歌スキー君だ。俺は咄嗟に、官憲にあった時におとりにしようと、手を引っ張って体を起こしてやった。
ギョロ目がぎょろぎょろしている。
「来い」
俺は前から目をつけていた廃墟の教会を目指すことにした。スラムに唯一の教会だったが、ここにいた神父は住人に殺された。それ以来廃墟だ。奥まったところにあるので、官憲もめったに立ち寄らない。なんとか振り切ってそこまでたどり着いた。
先客がいた。背の高い、殴ってきたアイツだった。
「ここは俺のもんだ、出てけよ」
目つきの悪い碧眼をさらに鋭くして威嚇する。
「生憎、俺もここに目をつけていたんだ、出てくのはお前だ」
隙をみて飛びかかった。お返しの右ストレートはがっつり決まったが、倒れかけたアイツは俺の袖口を掴んでいた。
このままじゃ体を抑えられる。ざけんな。左足で腹を蹴った。しかし、弱るどころか両肩を捕まえられ、ヘッドバッドをくらった。
高身長からくる一撃は脳を揺らす。一気に倒され馬乗りにされた。ゴッゴッと顎と頭に拳が当たる音がする。
飛びそうな意識をコントロールしながら俺は腹に乗っかった奴の金玉を殴った。絶叫が走る。
「まって!まって二人とも、笛が近い!」
官憲が近いのか、響きはでかい。俺は声を殺した。奴も痛みに耐えながら口を噛みしめている。
「くっそ、てめぇ殺してやる」
くすんだ金髪野郎が何か小声で言っている。
笛の音は教会の前まで来た。吐息の音が静かに響く。
やがて音は去って行った。暫くは動けなかったが、ギョロ目が心配したように顔を覗き込んだ。
「あの、大丈夫?」
「心配はアイツにしてやれよ。潰れてるかもな、けけっ。」
「何が?あ、そうか、痛そうだったもんね。」
トト、と駆け寄って背中をさすっている。まぁ、痛み分けっていうか、俺のほうが与えたダメージでかいから勝ちだ。
と勝手に判定して、教会を調べ始めた。長椅子が乱雑になっている。部屋の真ん中には血のあとがこびりついていた。
神父が死んでそのままにされて長いんだろう。奥のステンドグラスに向かって立った。理不尽な世界を、どんな目で見ているのか。
俺は石を投げたくなった。まぁそんな無駄な事はしないけど。
くすんだ金髪碧眼は長椅子で横になった。ギョロ目の大丈夫?という声かけをうるせぇ糞が、と言いながら追い払う。まぁ、知ったことじゃない。
今日からはここが寝床だ。道具や食糧はなにもなかったが、台所の竈と、井戸もある。俺はかろうじて引っかかっていたカーテンを窓からひっぺがして毛布にした。
官憲のせいで減った睡眠時間を取り戻す。寝る。