生れ落ちた奴隷
うすぼんやりとした光しか見えない。
甲高い音がうぁんうぁんと響く。
なんだろう。
暖かいような。
どん、と背中に衝撃がはしる。甲高い音はますます高くなった。
呼吸ができない。わあああああ。
低い音と高い音が交差する。反響してうぁんうぁんとなる。
助けて。
誰か。
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遠い記憶の残滓がまどろむ頭に心地よい。
そういえば今日は大学の講義が朝からあった気がする。正直眠いから起きたくない。
とりあえず代返頼めばギリセーフだったはず。あの禿教授、服の色も見分けつかないくらいだからだい、じょうぶ
・・じゃない。
平和ボケした日本人だった記憶が脳の覚醒を妨げる。問題だ。気持ち悪さをなんとかこらえて頭を振った。
よし、よし、起きた。起きないとまた殴られる。起きていても殴られるが覚悟ができているだけまだ良い。
1、2、3よし。
石の壁と藁のベット、そしてぼろぼろの衣服は自分の惨めな立場をわからせてくれる。コツコツと足音と共に棒切れが俺の頭を襲った。覚悟のできた、痛みだ。
「ほれ『グベ』!めしだめし!いつまでもぐーたらねてんじゃねぇ!」
言いながら硬いパンと水のようなスープを投げ入れる。これが飯と言えるのか、どうみても栄養の足りない食事をすする。奴隷長はいつものようにニタニタとしながら言った。
「今日はちっと外歩きだぁ狩りをするお供だで、旦那様のお供だでぁしゃっとせ!」
「そ、外」
栄養の足りない体にはほとんど肉がついていない。日々の商品荷運びですらぎりぎりなのだ。外へ行くなど自殺行為に等しいのではないか。
そんな事を思った所で何かが変わるわけでもない。旦那様や奴隷長の言葉は神に等しい。しかしここは日本じゃない。八百万もいた神様も、ここでは何のご利益もない。罰か、あるいは鞭かの違いぐらい。つまりまったく価値が無い。そんなわけわからない事をぼんやりと考えながら、うつろに奴隷長を見た。
食べ終えて器を置くとそれが合図のように棒が頭に飛んでくる。これのせいで頭が悪くなっている気がする。
ほぼ毎日殴られているので、殴る調子で奴隷長の機嫌が分かるようになった。今日はおそらく機嫌が良い。
ひどいときは翌日に響くまで殴られる。単語ひとつしゃべるごとに殴られることもあった。
のろのろと檻から這い出て奴隷長の後ろをついていく。
外はまだ薄暗い朝で檻の中より寒い。秋の中盤に差し掛かった頃だと思う。屋敷の紅葉は落ち始めていた。
いつもなら小麦を中心として野菜などをひたすら荷馬車に積む労働をさせられていた。たまに水汲みや荷馬車の手入れなど。使用人もいるが、力仕事や面倒で汚く臭い仕事などはすべて押し付けられた。去年いた老いた奴隷仲間は倒れた拍子に馬糞に頭を突っ込んで、そのまま亡くなった。死体は俺が泣きながら片づけた。
その頃はまだ悲しいと感じるだけの感情と怒りが胸中を渦巻いていたが、棒と鞭の日常に摩耗していった。
「『グベ』!、身ぎれいにしろと旦那さまがおっしゃったで、川入ってけ!」
反発すら覚えず切るような水の中で体を洗う。歯の根が合わずかちかちとして、肌は青白くなっていった。冬になる前で良かったと安堵した。手早くすませ、衣服を着る。体を洗ったことで、鼻が通常になったのか、衣服が臭う。気にしてはいられない。ぼやぼやしていたらまた殴られる。
奴隷長はたき火の近くでお湯を飲んでいた。他の使用人達とは少し離れているが、同じ奴隷なのにこうも違うのかと、凍える体を抑えながら思った。
馬車の用意を言いつけられ、小走りで厩舎に向かう。馬の体温で少しでも暖を取ろうと思った。唾液まみれになるが、馬の口の中は暖かい。しばし臼のような歯に気を付けながら舌と戯れて、かじかんだ手が多少ましになったところで馬を厩舎から連れ出した。
奴隷長と使用人が馬車の取り付けをした。旦那様へのご機嫌取りなのか、良く見える仕事は彼らの仕事だった。ただ、旦那様が奴隷や使用人たちをどんな目で見ているのかは、表情から良く分かった。
おそらくは昆虫と大差ないのだろう。透明な青の瞳は俺や奴隷長や使用人たちを映していなかった。
こげ茶色の帽子の旦那様は動きやすそうな狩りの服装で、俺から見ても上等な、恰好をしていた。商人だと聞いていたけど、もしかすると貴族でもあるのかもしれない。その辺の事情はわからない。正直興味すらわかなかった。
旦那様はひきつれた赤く派手な姿の愛妾と馬車に乗り込んだ。俺と奴隷長は狩りの道具と猟犬の檻を載せた荷馬車で後ろからついていく。よかった。徒歩じゃなくて。冗談じゃなく本当に歩けと言われそうで、心配していた。
門がきぃと閉まって、遠ざかっていく。
二年前ここに連れてこられて以来、屋敷の外へ出ることはなかった。
望外すぎて夢にも見無くなった。あまりにもあっけなく外の景色は流れていく。秋真っ盛りの紅葉が日に照らされて、しばし意識がとらわれた。乗馬用の鞭でたたかれたとたん目が覚めた。
「『グベ』!ぼやぁっとしてねっでそろそろつくど!説明すっから頭に叩き込んどきのす!」
「ぐぅう」
不意打ちの痛みに耐え、そろそろと降車の準備をする。かなりの時間ぼうっとしていたようだ。あんなに朝早くから出たのに日はもう頂点にさしかかろうとしている。だいぶざっくりとした狩りの手順を教えられ、講義の終わりと共に馬車が止まった。
奴隷長は弓と矢筒を旦那様へ、俺は言われて、檻から猟犬達を出した。おとなしそうだが、襲われたら絶対に勝てない。まぁ骨と皮だけになっている俺は襲い甲斐が無いだろうけど。俺は彼らと共に獲物を追い立てるのだ。
「野兎にしましょうか?鹿にしましょうか?」
旦那様がうやうやしく声を出す。隣には随分と肥えて着飾った豚が、いや、たぶん貴族か何かがいた。旦那様の顧客だろう。ふいに豚がこちらを見た。
正直意外にも、久しぶりに、まっとうに、俺を見られたような気がした。すぐに顔を伏せて、猟犬が放たれるのを待った。共に獲物を追う準備をする。旦那様と何か話しているようだったが。よく聞き取れなかった。
「では、鹿でいきましょうか」
猟犬を扱う使用人が猟犬を放つ。奴隷長に指示されて声を出しながら獲物を追い込んでいく。野鳥がばたばた飛んでいく。ふらふらする。座りたかったがなんとか走った。ちょろちょろと小川の音がした。どうやら鹿が2頭水を飲んでいるようだった。
「HOU!HOU!」
獲物を見つけた合図を送る。向かいから猟犬が吠える。追われて鹿が逃げてくる。
「HOU!HOU!HOU!」
旦那様の前に獲物を送るように、誘導していく。フクロウのように叫びながら鹿はついに罠へかかった。眉間に一発の矢が突き刺さる。一つ甲高い音で啼きどう、と倒れた。片割れは小鹿だった。見逃しはしないのだろう。太った豚貴族が同じように矢を引き絞って、、、、俺を、見た。
ぞくりと鳥肌がたったような気がした次の瞬間に肩に矢が突き刺さっていた。
「あっ・・・・がっ」
叫びは枯れて声も出てこなかった。喉からうめきが聞こえ、いしきを、うしなった。
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「『グベ』!『グベ』!ほら逃げるぞ」
俺は『グベ』じゃない!久高録治くだかろくじだ!
走りながら名前を叫ぶ。ああ、そういえば逃げている。ごはんを盗んで逃げているんだ。
「『グベ』!なんか長すぎる、変な名前だ。お前は『グベ』だ!」
友人でもなく兄弟でもなく、仲間とも呼べない良く分からない同い年の少年が、俺の前を走っている。
たぶん仕事は成功して、無事隠れ家に逃げ切れたなら、俺たちはきっと
グベ!!
左から手が伸びて、俺の身体を抑え付ける。そして激痛が
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「ぐあぁ!はぁ!はぁ!はぁ!はぁ」
荒い息をついて起き上がった。左肩には丁寧に包帯がまかれて、おまけに服まで着替え、、ってなぜか女の子の服を着せられていた。ふりふりドレス。俺にそんな趣味はない。前世も今生も、男性器をもつ雄だ。
「なん、だこれ」
辺りを見回すと、ずいぶん場違いな所に寝かされていた。
天蓋付きのふかふかベットと豪華な調度品、まるで姫様の居室のような。頭をかかえて気づいたが、風呂まで入れてくれたのか、髪の毛がさらさらになっていた。
「失礼いたします」
ハスキーな声とノックが聞こえた。思わずはいと返事をした。入ってきたのは執事のような少年だった。執事のような、とは執事服と燕尾服とタキシードが俺には見分けがつかないからだ。丁寧にお辞儀をするさまは、気持ち悪い色気があった。
「お体の具合はどうでしょうか」
「え、っとはい。だいじょうぶ、です」
敬語がわからなくてとってつけたように「です」をつけた。今生では野良暮らしと奴隷暮らししか知らない。身分違いの人への敬語なんか数えるくらいしか覚えていない。
「旦那様がおまちです。お食事を共に、と」
なにかの間違いじゃないだろうか、いや、今までもだいぶ間違った様だったけど、違和感しかない。思わず後ずさった。少年は微笑んで大丈夫ですよ。おなかがすいたでしょう、と優しく言った。
なんとか、その声に促されて、あるいは料理の匂いにつられて、俺はゆっくりと天蓋ベットから這い出た。
屋敷の中は暖熱がしっかりしているのか、廊下までしっかりと暖かかった。しかしやたらひらひらするスカートの裾から風が入ってくる。気になって猫背でスカートを捕まえて少年の後を追った。
「旦那様、リッツでございます。お連れしました」
少し大きな両開きの扉の前で少年がノックする。扉が左右に開かれていく。
開かれた先には、料理、丸焼きの鳥、豪華そうなスープ、柔らかそうなパン、歯を立てたらしゃきしゃきしそうなサラダ、他にも多くの種類の見たことあるものないもの、あったかそうな湯気を出して長いテーブルに所せましと並べられていた。気づけばよだれが流れていた。思わず手で拭う。その長いテーブルの先には豚貴族、もとい、旦那様と一緒にいた貴族が座っていた。
「あーー、すまないねぇ思わず手元が狂ってしまい、身体は大丈夫かい?」
巨体から発せられたとは思えぬ美声に吹き出しそうになったがなんとかこらえた。しかし、噴き出しても、もしかすると、このでかい館の主は気にもとめないかもしれない。そんな優しい感じがした。
「はい。大丈夫、です」
大丈夫、といったあたりできゅるるるるるるとお腹がなった。ただでさえ小さい胃が更に小さくなる音だ。
彼は巨体を揺らしてにっこりと笑ってこう言った。
「もう心配しなくて良い。君はアンダルス氏の元へは戻らなくて良い。ああ、まずは腹を膨らませよう」
少年が俺の手を引いて前の席へ座らせてくれた。
「まずはスープを」
目の前に置かれたスープをすすった。のど元から胃へ落ちていくごとに、俺の中で何かがあふれていく、気が付くと涙がスープ皿に流れ込んでいた。俺はそれ事飲み干した。あとは嗚咽と一緒に、ただただ、目の前の豪華な食事を、消化していった。
臓腑が心地よい重さになると、今度は眠気が一気に襲ってきた。抗いきれずグラタン皿に頭を突っ込みそうになって、意識が飛んだ。
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野犬の鳴き声のような、猫のような。まどろみの中、そんな音を聞いた。
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