人には得手不得手というものがあります
掃除が始まって早一時間。床は乾拭きの後、軽く水をまいて雑巾掛けする。ほとんどの窓も魔族たちの必死の研磨によって白玉のような輝きを取り戻していたのだが。
「アル! あなたが一番最後よ!」
「そ、そんなぁ! リン、僕に一番広い窓を任せただろう!?」
「あのねぇ……どう見てもこの廊下、全部窓の大きさ同じでしょう。文句言うならこの城作った人……いや、魔族に言ってよ」
「そ、そんなのもうとっくに死んじゃってるよ!」
「じゃあ文句言わずに拭く! 終わった子は魔王が終わるまで休憩!」
「わぁい!」
とたん、雑巾を放り投げて駆けだそうとした子どもたちだが、凛の無言の圧力を背に受け、しぶしぶ雑巾をバケツに入れ、固く絞る。凛が指導したおかげで、雑巾絞りも楽にこなせるようになった。
さすが人間より力持ちな魔族。長年の埃を被って煤けていた窓はかなり輝きを取り戻し、凛の顔を映し出していた。
子どもたちも窓ガラスに自分の顔が映ったことに感動したのだろう、感嘆の声を上げて窓ガラスに駆け寄り、いろんな位置から自分の顔を眺める。中にはガラスに映り込むのが自分だと信じられないようで、きょとんとして自分の映るガラスをつつく者も。
「リン先生……」
くいくいとズボンの裾を引っ張られる感触。そちらを見下ろせば、スニクら小柄な魔物や、だるま形のピシューのように手足のない者たちが集っていた。
「スニク。床のお掃除は終わったの?」
「はい」
スニクのように手足の短い者は窓拭きのように高い位置の仕事はできないし、ピシューらも言うまでもない。そんな彼らには廊下の掃き掃除や拭き掃除、ゴミの回収を任せている。スニクの身長でも、短めに柄を付けた手製の箒なら使えるし、ピシューも目に入らないよう注意すれば床の雑巾掛けができる。
「じゃあ、ピシューたちの雑巾はミーレンに任せておこうか」
「う、い」
ミーレンはケンタウロスの女の子だ。毛深くて勇ましい見かけに対して繊細で、引っ込み思案な性格をしている。彼女は凛の言葉が聞こえていたのだろう。ぴくっと裸の背中を震わせ、艶やかにうねる深緑色の髪を靡かせて振り返った。その唇は小さく尖り、眉間に深い皺が刻まれている。
「先生! どうしてわたしがピシューのまでしないといけないの!?」
すねたような、不満を含んだミーレンの声が響き、廊下がしんと静まりかえる。ミーレンは腰に手を当て、自分の方をじっと見上げるピシューを一瞥してふんと鼻を鳴らせた。
「わたし、自分のは洗ったわ。すんだわ。でも、どうして? ピシュー、自分のは自分でしないと!」
「でもね、ミーレン。ピシューにはミーレンみたいな長い手がないでしょう?」
凛は対峙する二人に歩み寄り、腰をかがめてミーレンを視線を合わせる。
「ね、ピシューたちのも手伝ってくれない? ミーレンなら任せられるのよ」
「いやっ! 雑巾絞り、できないピシューが悪いの!」
凛の視線も何のその、ぷいっとそっぽを向いてほおを膨らませるミーレン。彼女の四本脚も不満を表すかのようにカツカツと荒々しくタイルを鳴らしている。
「わたし、関係ないわ! 知らない!」
「ミーレン!」
初めて、凛が魔物たちに声を荒らげた。今までアル相手に怒鳴り散らしている凛は何度も見てきたが、自分らに対してはいつも丁寧で優しい凛。そんな凛が顔を歪め、じっと黒い目でミーレンを見つめている。
ミーレンは引きつれたような声を上げて黙り込み、その他の子どもたちもまた、困惑と恐怖の入れ混じった面持ちで凛を見つめている。
凛は一つ息をつき、自分よりわずかに背の高いミーレンの髪をそっと梳る。
「ミーレン。あなたはピシューのお友だちでしょう? お友だちが困っているのに、ミーレンは何もしないの?」
「……だってぇ」
幼子の顔を歪め、ミーレンは拗ねたように蹄の脚を床にこすりつける。
「わたし、関係ないもん……できないピシューがだめだもん……わたしの方がすごいんだもん……」
「おい、ミーレン……」
堪りかねたのかニテが声を上げる。学級委員長的立場の彼には聞き逃しがたい言葉だったのだろう。彼は固く絞った雑巾を脇に置き、炎の髪を逆立てて咎めるようにミーレンに詰め寄った。
「何だよ、その言い方は。ピシューとミーレンの体が違うのは仕方ないことだろう!」
「でもっ……」
「分かったわ、ミーレン」
凛は火花を散らさんばかりに対峙するミーレンとニテの間に割って入り、ぽんと両手を打った。
「試してみましょう……ミーレンの言うことが正しいのか。本当にピシューがあなたより劣った魔族だと言えるのか、をね」
「これ、見ての通り、バケツね」
凛が右手に高々と示し上げるのは、掃除中も使っていたブリキのボロバケツ。特徴的な四肢を持つ魔物用に、人間が使うバケツよりも口が狭く、縦に長い構造になっている。
子どもたちが一挙一動を見守る中、凛はバケツを足下に置いて横向きに倒し、そしてポケットに手を突っ込んで中から出した「何か」をバケツの奥に放り入れた。
かつん、と軽い音。
「さあ、ミーレンとピシューに、ここに入っている物が何か、見てもらいましょうか」
ミーレン、と凛に先に呼ばれ、すっかり及び腰になっていたミーレンはおずおずと、友人たちの輪から外れて凛の前にやってくる。
「ミーレン、手でバケツを持ち上げたりせず、目だけで中を覗くこと。中に何が入っているか、みんなに教えてちょうだい」
「は、はい!」
楽勝だ、とミーレンは顔を綻ばせ、海藻のようにうねる緑色の髪を押さえてバケツを覗き込もうとして……はたと、顔を上げた。
バケツの口は自分の方を向いている。だが、横向きになったバケツの高さはせいぜい数十センチ。
「……先生。もうちょっと、高い場所においてくれない?」
「だーめ。この場所で見るのよ」
あっさり申し出を拒否され、ミーレンはううっと唸り、自分の蹄の高さに寝かされたバケツをにらみつけ、馬脚の膝を折った。
だが、馬の体はいくらはいつくばっても曲げられない。それは上部に付いている人間の体も同じで、どれほど体を前に倒しても、凛に示されたバケツの中を覗くことはできなのだ。何度か体を伸ばし、馬の脚をずらし、人の両手を床に突いても、バケツを覗くには至らない。
ぜえぜえと息をついて四肢を投げ出すミーレンの背中を撫で、凛は続いてピシューを見つめた。
「ミーレンはこの位置のバケツを見ることはできなかったわね。じゃあ、ピシューはどうかな?」
「お、おう」
ピシューはころころとミーレンの隣まで転がり、馬腹の横に並び、おおっと声を上げた。
「見え、る。せんせ、おれ、見え、る」
「何が見えるかな?」
「ひか、る。きら、て、まるい、見える」
えっ、とピシューを見下ろすミーレン。凛は微笑み、バケツを持ち上げて中に入っていた金色の丸いコインを取り出した。
「その通り。ねえ、ミーレン。確かに雑巾絞りはピシューにはできなくてミーレンにはできたわね。でも、低いところにあるものは、逆にピシューには見えたけどミーレンには見えなかった」
「……はい」
「みんなは体にいろんな特徴があるから。できることやできないことがあって当然なの。今、ミーレンはピシューに見えたものが見えなくて悔しかっただろうけど……さっきミーレンに酷いこと言われたピシューもきっと、同じ気持ちだったの」
「……」
「できることがあれば、力を貸す。できないことがあれば、他のみんなの力を借りる。そうしていったら、一人じゃできないこともみんなならできるの。いい?」
「……はい」
「よし。じゃあ、ピシューに言うことは?」
「……ごめんなさい」
しおしおとピシューに謝るミーレン。周りの魔物たちが息をのんで見守る中、ピシューの目がぐるんと回転した。
「おれ、気にし、ない。ミーレ、だいじょぶ。おれ、だいじょ、ぶ」
「よかった」
ほうっと息をつき、凛はミーレンとピシューの頭を撫でた。
「よしよし、こうやって仲よくなるのよ。いいわね?」
「はい……!」
「……あれ? そういえばまおーさまは?」
ウィックの指摘に、一同ようやく、この城の主の存在を思い出す。振り返れば、窓の張り付くようにして雑巾掛けする美貌の青年が。
「……アル、窓拭きは終わったの?」
「えっ!?」
ツカツカと戻ってきた凛に聞かれ、アルの額を冷や汗が伝う。
「え、え、ええと……その、努力は、したんだけど……」
「いいのよ。で、どれくらい拭けた?」
「えと……」
もじもじと肩を寄せ、リスのように手足を丸めて窓を示すアル。そちらに目を移せば、全体のうち上方四分の一ほどが磨かれた窓が。
「……」
「ご、ごめんなさいぃ! さっきの、リンの話聞いてたら、その、手が、止まって……」
「……アル」
「ひいいいいい!? ごめんなさごめんなさいぃ!」
「いや、土下座までしなくていいから」
踏み台から飛び降り、その場でひれ伏してガクガク尻を震わせる魔王を見ていると、いじめをしている気分になる。このまま「許してほしけりゃ焼きそばパン買ってこい」とでも吹き出しが付きそうな場面だが、さすがにそこまで鬼にはなれない凛。ポンポンと魔王の肩を叩き、その手から雑巾を優しく奪い取る。
「頑張ったなら今日はこれでいいよ。これから他の子は道具を片付けて、技の訓練をするみたいだから。さすがに私はそこまで教えられないから、アル、みんなの様子を見といて」
「え、僕が!?」
重要な役を任され、アルの背がピンと張られる。
「ま、任せて! きちんと見ておくから!」
「ええ。セバスもそっちに向かわせるから、何かあったら彼にね」
「はい!」
凛からようやく認められたと、足取りも軽く子どもたちの列に加わって廊下を去っていく魔王様。
保護者というよりは大きなお友だちだな、と凛はくすっと笑い、アルが放り投げた雑巾を拾って踏み台に脚をかけた。
「アル様、楽しそうですね」
子どもたちと一緒に中庭に向かう途中、すっと影のようにセバスが横に付き、アルは嬉々として頷く。
「ああ! やっとリンに認められたんだよ!」
「認められた、というより呆れられた、といいますか……」
「ん? 何、セバス?」
「いえ……」
すっかりご機嫌な主。もともと魔王としての威厳も自覚もないのだが、最近はますます、魔王として情けなくなっている気がする。
それでも。
セバスは目を細め、るんるんと先を行く主の背中を見つめた。
前魔王が勇者に討ち取られて二百年あまり。ふさぎがちで暗かったアルがここまで表情を和らげ、感情を露わにしているのだ。
決して、彼らが凛を召喚したのは間違いではなかったのだろう。セバスは髭の奥でこっそりと笑みを浮かべた。




