魔王という名の残念イケメンに会いました
くるくる舞う。ちょうど、ミキサーに掛けられたフルーツのように。
きっと今朝、フルーツジュースにした冷凍桃やバナナたちはこんな気持ちだったのだろう。くるくる、ねっとりした空気の中を舞い踊る。
目を開けても、白く濁った世界が広がるばかり。
私は一体どうしたのだろう、と声を上げようとするが、できない。巨大なミキサーは凛を飲み込んだまま、回転を続ける。
くるくる、回る。
どうしてこうなったのだろう、と思いながら。
果てのないミックスジュースの旅は唐突に終わりを迎える。ヨーグルトのごとくドロリとした空気は一瞬で消し去り、ねっとり重苦しい空気は冷えた、湿っぽい風に変わる。
頬の下が冷たい。冬の早朝、うっかりトイレの便座を下ろし忘れた(むしろ男性家族が使用後に下ろさなかった)ためにヒヤッと驚いた、そんな感じの冷気。
凛は回転の後味が抜けきれない頭を回し、呻きながら両手を前に差し伸べた。凛の体は冷たい台の上に横たえられているらしく、突き出した手は冷たい壁に触れた。
目を開ければ、真っ黒にくすんだ壁と、それに触れたため埃が付いた自分の両手が。
何ごとか、とぱちくり瞬きする凛だったが。
「よくぞ来た、異界の使者よ」
コツコツと、長靴のかかとがタイル床を鳴らせる。重い生地の衣服が床を擦り、微かに漂う、血の香り。
凛はこしこしと拳で目元を擦り、ゆっくり体を起こした。
狭くて汚らしい正方形の部屋。壁には蜘蛛の巣が引っかかり、巣の主がぶらんと糸を引いてぶら下がる。中学校の控え室ではない、どこか。
長靴の音が止む。顔を上げると、薄暗い部屋には似つかわしくないほど豪華な人物が。
金髪。紛れもない金髪。アジア顔の日本人が無理に黒髪を金に染めるのは何度も見たことがあるが、彼の金髪は本物。手芸用糸のように細くてきめ細やかな薄い金色の髪は、さぞ触り心地がいいだろう。
その、眩しいぐらい鮮やかな金髪を持つのは年若い男性。某有名ゲームの登場人物のような整いすぎた顔立ちをしており、金髪から覗く両耳は先が引っぱられたかのようにツンと尖っている。彫像かのように白い肌をしており、それと対照的な真っ黒なコートを羽織っているため、余計に肌の白さが浮きだって見える。色白で有名な凛だが、この青年の病的な白さには到底敵いそうになかった。
彼は、不躾なほど自分を見つめる凛を見返し、にっと赤い唇を引いて微笑んだ。
「なるほど、黒い髪に黒い目……異世界人であることは間違いないようだ」
すっと耳に心地よい、テノールの声。あなたはどこかの声優さんですか、と問いたくなるような声を聞いて凛はぱちくり瞬きする。そして青年はくくく、と笑い、マントの裾を払って指で凛を指した。
「娘よ、私のしもべとなり、私に力を貸すのだ!」
ばっとマントを広げ、声高く宣言する青年。
だが、一方の凛は、
「……あぁ? 頭おかしいの?」
と一蹴。白目ばかり目立つ三白眼で、寝起きの掠れた声で、最強に不満げな声で発せられた一言に、目の前の美形青年の体がびくっと震える。
そして、裏返った声で、
「あ、頭おかしいって……何だよ、いきなり!」
「うっさい!」
「ひいっ!?」
つい数秒前までの威厳はどこへやら、青年は凛のだみ声に全身の毛を逆立て、じりじりと凛から一歩、また一歩と後退する。
「な、なんて口を利くんだ! 僕が誰だか知っての発言か!?」
一単語発するごとに後退し、勇ましい文句を吐き出すが威厳の欠片も見受けられない。一人称も変わっている。そんな彼にも凛は容赦しない。
「知らない。知らないから教えなさい」
「う、うう……!」
青年はすっかり凛の気迫に打ちのめされていたが、ここで引き下がっては負けだと判断したのだろう、ぐっと拳を固め、息を吸い、
「僕は……僕の名は、アル!」
「うん、知ってる。名前があるのは分かってるから、だから何て名前?」
「だ、だから、名前がアル、っていうんだ!」
寝起き人間の必殺ボケを喰らい、先ほどの決意はどこへやら、青年は切れ長の目を今にも泣きだしそうに潤ませて叫ぶ。
「僕は魔王! このクラン・クレイルの魔界を統べる王なんだ! 魔王だ!」
まおーだ、まおーだ、まおーだ……。
狭い部屋をわんわんと青年の声がこだまし、そしてすぐに静かになった。
しばし、空白。台の上の凛は表情ひとつ変えず、青年もまた、叫んだポーズのまま制止して凛の出方を伺い……。
「……さいですか」
そうだ、きっとこれは夢だ。わざわざ頬を抓るまでもない。きっと教育実習の疲れが溜まって控え室で居眠りしてしまったのだろう。
凛はくあぁ、と隠すことなく大きなあくびをし、ころんと硬い石の台の上に横になった。両脚を丸め、魔王と名乗ったメルヘンファンタジー思考な人物に背を向ける。
「おやすみ。もうちょっと寝させてもらうわ」
「え、えええ!? 何で、何で寝るの!? 今起きたばっかでしょ!?」
「これは夢。夢の中で寝たら目が醒めるってなんかの特番で観た気がするから」
「夢じゃないよー! 僕が君を召喚したんだ! ほら、起きてってば!」
「あー、もう、静かに寝かせてよ」
ゆさゆさと凛の体を揺さぶる魔王の手。妙に筋が硬く、爪が長く、骨張った大きな手だが凛は腕を捻ってその手をぺいっと引き剥がした。
「じゃあ、またね、魔王さん」
「またね、って……」
情けない声を上げる魔王を無視し、わざとらしく寝息を立てる凛。そんな彼女にもうお手上げらしく、自称魔王はわああ! と声を上げて部屋の隅へと駆ける。
「どういうことだよ、セバス! 僕、ちゃんと召喚したんだよ! うまくいったんだろう? ねえ、ねえ!?」
「アル様、どうかお気を鎮めて」
えぐえぐ泣きわめくアルの声に返事が返る。歳を取った男性のような声だ。凛は気付かなかったが、この部屋には凛と魔王の他にもう一人、参加者がいたらしい。凛は軽く脚をもぞもぞ動かし、体が楽な姿勢を模索しながら背後の会話に耳を傾ける。
「きっと使者も疲れているのでしょう。何せ、アル様の魔法で異次元移動をしたのです。まずは、休ませてみては?」
聞き慣れない単語が耳に飛び込んだが、そこは無視、無視。ひんやり冷たい石のベッドに頬をくっつけ、凛は丸い息を吐く。
「なに、勇者とて今日明日すぐに攻め込むわけでもありますまい。まずは使者の体調を万全にし、そしてこちらの情勢を伝えるのが賢明かと」
「そ、そうだな。それもそうだな!」
老人の言葉を聞き、安心したように相槌を打つ魔王様。
「それじゃ、彼女はここに残しておいてもいいかな?」
「アル様。いくら異世界の使者といえど、彼女は女性ですよ。このような小汚い部屋に残すなんて無礼に値します」
なかなか気の利く老人だ、と凛は心の中で賞賛を送る。いくらもう一眠りするためといえど、この石台は睡眠には最高に不適切だ。夢にしては妙にリアルに頬の下の石が冷たく感じられる。できればふかふかのベッドで現実世界へ舞い戻りたいものだ。それがだめならせめて、低反発枕だけでも提供してほしい。
「わ、分かった! それじゃ、頼むよ、セバス」
「何をおっしゃいますか。私のような老いぼれには困難を極めます。何しろ、この手足ですから。アル様ならば、彼女を抱えて運ぶこともできましょう」
「え? 抱える? どうやって?」
「……それくらいご自分で検討くださいませ」
「えええ!?」
ぶつぶつ文句を垂れる魔王様。そんな魔王様を一蹴する、老人セバス。仕方なくアルは狸寝入りする凛に歩み寄り、両腕を前に伸ばし……その姿勢のまま、わきわきと両手を開いたり閉じたりを繰り返した。
その姿は凛の体のどこを揉もうか思案する変態にしか見えず、老人のツッコミが飛ぶ。
「アル様、何をなさっているのですか」
「だ、だって、僕、ニンゲンを抱えることなんてないし、それにこの人、何だかおっかないし……」
すぱん、とアルの頬に強烈な蹴りが入る。黒いズボンの右脚がさっと持ち上がり、アルの右頬に強烈な一撃。上半身は横を向き、腰を捻って放たれたキックに情けない悲鳴を上げる魔王アル。
「うわぁぁぁ! 蹴られた、蹴られたよう、セバス!」
「さよう。立派な体技ですな。目を閉じながら標的を正確に蹴り上げる達人技……魔界でも有数の戦士になりそうですね」
「この人起きてるよ! ねえ、起きてるんだよ! 運ばなくてもいいよね? ね、ね?」
「アル様」
「う、ううううう……!」
セバスにも見捨てられ、魔王はうんうん唸りながら目の前の女性を抱きかかえるのだが……。
「アル様、それは抱える、ではなくて担ぐ、と言うのですが」
「僕にはこれが限界なの!」
二つ折りになった布団のように魔王の肩に乗っかる凛。言いたいことはたくさんあるが、そこそこ体重のある凛をひょいと持ち上げ、難なく右肩に乗せられる怪力なのだから文句は言わないでおくことにした。この細くて骨張ったモヤシ腕のどこに筋肉があるのだろうか。
「さ、使者の部屋はこちらです。アル様、くれぐれも彼女を落とさぬように」
「は、はぁい……本当はその辺に落としておきたいけど……うげっ!」
背中にクリティカル膝蹴りが入り、魔王は沈黙した。
運ばれた先はふかふかベッド。寝かせる、というよりは放り投げる、に近い動作で凛の体はベッドに横たえられ、魔王様はようやっと役目が終わったとばかりにほっと息をつき、すぐさま部屋の隅へ後退。
「そ、そ、それで? それでどうするの? このニンゲン……」
狼狽しきった魔王アルの問いに、セバスは軽く鼻を鳴らせて応える。
「まだ、彼女は夢の中と思っているのでしょう。一眠りいただき、頭の中が整理されてから事情をお話しするのがよろしいでしょう。もちろん、アル様の解説で」
前もって極太の釘を刺され、アルはうええ、と情けない声を上げる。
「どうして僕なの? さっきだって……ほら、セバスが言った通りに自己紹介したのに、全然効果なかったんだよ。それどころか、蹴られるし……」
「ですから、アル様の言葉でしっかりと説明されればいいのです。私が考えた言葉をそっくりそのまま発しても効果はありますまい」
「……はぁい」
アルはとぼとぼとベッドに寝かせた女性の元へ歩み寄り……おや? と首を傾げた。
「セバス……寝ちゃってるよ」
「本当にお疲れだったのでしょう。さあ、ひとまず我々は撤退しましょう。女性の部屋に長居するものではありませんよ」
「……女性って言うにしては乱暴だけど」
はたと、口を衝いて出てきた言葉に戦慄するが、おそるおそるベッドを見下ろしたところ、女性は固く目を閉ざし、肩を上下させて眠りに就いていた。黒いズボンに覆われた脚が蹴りを放ってくる様子もない。
「……寝てるんだよね?」
「……」
「……おやすみ」
魔王はこそっと声を掛け、一足先に部屋を出て行ったセバスを追うように、わたわたと退散した。