妙な声に導かれる模様です
「少し、いいですか。城崎先生」
背後から掛かる声。自分の名が呼ばれ、廊下の集配ボックスにプリントの束を押し込んでいた若い女性の背がぴくっと震える。
きゅっと黒いナースシューズを鳴らせて振り返ると、この暑いのにしっかり長袖カーディガンを羽織り、日焼け対策ばっちりの中年女性教師が、クリップボード片手にこちらへ歩み寄ってきていた。
城崎先生、と呼ばれた彼女は片手でプリントを押し、腰を伸ばした。
「はい、何でしょうか、教頭先生」
「さっきの授業、廊下で見させてもらったのだけれど……あなた、本当に教師になりたいの?」
「……」
教頭先生、は逆三角形の眼鏡を押し上げ、どこか蔑むような目で目の前の若い女性をじろじろと見つめる。
「右から二列目の先頭にいた男の子、ずうっと斜に座っていたでしょう。あなたがプリントを配っても無視。まあ、そういう子どもが多いのはわたくしも理解しています」
「……はい」
「わたくしが言いたいのは……その時のあなたの対応。子ども一人一人に注意を払い、全員が参加できる授業を作らねばならないというのに、なぜ、彼を注意しなかったのですか? 無視すれば事が済むとでも思ったのですか?」
またか、と女性は教頭の小言を片耳にうっそりとため息をつく。この女性教頭は彼女のことが気にくわないのか何なのか、彼女の授業風景を見に来ては小言を残し、あれがよくない、あそこはこうしろ、あれは何だ、おまえはクズだと散々に言い募ってくれるのだ。
最初数日こそ、ぼろくそに言われたことがショックで泣き寝入りした彼女だが、一週間もすれば教頭の小言を右から左に、もしくは左から右にと聞き流すスキルを身につけられていた。そのようなスキルを習得するより、授業力向上スキルを持ちたいのだが、あいにく物事はそう簡単には進まない。
彼女の意識がふぬけていることに気付いたのか、教頭の、元々細い目がさらに細まり、年齢を隠せない額に深い皺が刻まれた。
「城崎凛。あなた、教育実習生だからといって何でもかんでも許されると思ってはなりません。あなたたち実習生は我々にとっては邪魔者以外の何でもないのです。我々が時間を割いてまであなたたちに協力するのは、未来の教師を育成するため。あなたのような不真面目な態度で取り組まれては、こちらにとっても不利益にしかならないのですよ」
それは学校が実習生に言うのではなく、大学が実習生に言うことではないのか。城崎凛は後ろ手に手を組み、ぎゅっと抓るように自分の腕を掴んだ。
教育実習生として大学を離れ、母校である中学校で実習するようになって早二週間。一年生の授業を受け持っている凛は自分の仕事に手を抜いているわけでも、不真面目にしているわけでもない。若輩ながら実習をこなそうと日々勉強している。
授業のスキルはまだまだと言われても仕方ない。先ほどの授業でも教頭が言うように、凛の話を真っ向から聞こうとしない子どももいたし、そういった子どもへの対応に苦心していることも事実だ。
だからといってこれはさすがにやりすぎだろう、と凛は唇をかみしめる。凛と同期で教育実習を行う、他の三人の仲間たち。彼らの授業にも教頭は顔を出すらしいが、利点を誉めちぎり、「次もこの調子で」と激励の言葉を贈っているのだそうだ。
先日、教頭に頭ごなしに貶されたと控え室で凛が愚痴ると、数学を担当する男子実習生は驚いて目を丸くしたのだ。「教頭先生ほど的確なアドバイスをくれ、なおかつ褒めてくれる先生は他にいないよ」と。
それは、他の二人……理科と体育の実習生も同じだった。確かに、凛が他の三人よりもいい授業をできていないのが原因だろう。だが、それにしても。
一通り言いたいことを並べ立てて満足したのだろう、教頭はカツカツとヒールを鳴らせて職員室へと去っていった。教育の場にふさわしくない靴を履く教頭にべっと舌を出し、凛は実習生控え室として宛われた空き教室へと靴先を向けた。
遠くの方でチャイムが鳴る。この部屋は空き教室もとい倉庫扱いのため、スピーカーが取り付けられていない。二時間目終了のチャイムを合図にわっと廊下に飛び出す中学生たち。凛は控え室の自分の机に突っ伏し、子どもたちの元気な声をぼんやりと聞いていた。
次の時間も空きコマ。四時間目に授業を控えているので最終確認しようと、あらかじめ机に教科書やカンペノート、数珠なりに繋がったマグネットを揃えていたのだが、教頭の有難いお説教を受けた直後、教科書を手にする気にはなれなかった。
マグネットを片手で離したり引っ付けたりを繰り返しながら、凛は虚ろな目で自分の右手を見つめる。
世の中には叱られて伸びる派と褒められて伸びる派が存在するそうだ。どちらかというと後者が多数派だろうし、凛もまた、利点を褒められることでやる気を捻出し、逆に叱られればやる気も意欲も腑抜けになるタイプだった。
だからこそ、自分の授業では子どもたちを褒めるようにしていた。叱るのは、本当に必要なときだけ。褒めて、褒めて、褒めまくる。甘いくらい褒めてきたつもりだった。
だが、凛を目の敵か何かのようにして付きまとい、あれこれ注文を付けて愚痴を飛ばし、指導案や資料をこれ見よがしに放り捨てるクソばばあ……もとい、教頭先生。
「……ちっきしょーめ」
外が騒がしく、しかも部屋の中には自分以外誰もいないのをいいことに、凛は紅の乗らない薄い唇から愚痴を飛ばす。
ナースシューズのかかとを外し、パイプ椅子に深く尻を乗せて脚をぶらつかせ、余ったプリントの裏に汚らしく教頭の似顔絵を描く。
「本当に、意欲失せる……なんで、私ばっかり……」
才能が許す限り不細工に描こうとしたのだが、思いの外似顔絵は上手く描き上がった。これを黒板に貼り、マグネットでも投げて鬱憤晴らしにしてやろうかと、凛の唇がわずかに持ち上がった。が。
くすくすと、微かな笑い声。いや、笑い声に似た、何かの音。
マグネットを手にしたまま、凛は面を上げる。漣のような音は凛が耳をそばだてるとすぐ、聞こえなくなった。体を起こし、辺りを見回しても、実習生控え室のくすんだ机や小テストの入った段ボール箱、短く折れたチョーク入れやテーブルサイズの裁断機が鎮座するのみの、薄汚れた部屋が広がるだけ。奇声を上げながら女子生徒が部屋の前を走り去り、すぐにそのスリッパの音も遠のいていった。
聞き間違いだろうか。ひょっとしたら疲れが溜まって耳鳴りがするのかもしれない。凛は教頭の落書きプリントをぺいっとはね除けて机に突っ伏した。三時間目開始のチャイムが鳴るまでこうして伏せっていようと目を閉ざしたのだが。
ふわり、風が吹いた。
凛は体を起こし、窓が閉まったままなのを見て不可解そうに顔をしかめる、と。
いきなり腹部にタックルされたかのような、衝撃。息の詰まるような痛みに凛は思わず苦悶の声を上げ、よろよろと椅子から立ち上がって数歩後ずさった。
「っ……な、に……」
左手で腹部を押さえながら、凛は目をぎゅっと閉ざして右手を突き出した。机の端を掴もうとした手は、しかし虚しく空を掻いた。
風が吹く。ぐらりと傾く体。悲鳴を上げる三半規管。どこか遠くで笑い声のような音がしたのを最後に、ぷっつりと凛の体から力が抜け落ちた。
風が止む。実習生控え室は一瞬静寂に包まれたが一拍遅れて、棚に積み上げていた小テストが雪崩を起こしてばさばさと床に広がった。
最後の一枚がふわふわと宙を舞い、小山を作り上げた小テストの頂上に着地する、その直後、勢いよく控え室のドアが開いた。
右腕いっぱいにB4サイズの紙を抱えた中年男性教師は誰もいない控え室を見、ひっくり返った段ボール箱と小テストの山を見、やれやれとばかりに肩を落とした。持っていたプリントを裁断機に乗せ、半分のサイズに切るべく機械のスイッチを入れる。
裁断機が怪しげな音を立ててプリントを切っている間に彼はこぼれ落ちた小テストをかき集めて段ボール箱に戻し、ついでに側に落ちていた教頭の似顔絵を見て鼻に皺を寄せる。
「……まったく、やはり実習生は使い物にならんな……」
重い音を立てて裁断機が紙を真っ二つに切り落とす。男性教師はぶちぶちと愚痴をつぶやきながらB5サイズに切られたプリントを抱え、控え室を後にした。