私は戻ってきました
くすんだ橙色の空が広がる大地。手入れの怠りが目立つ庭園の木々を眺めながら、背の高い青年はふうっと細い息をついた。
生暖かい風を受けて彼の、少し癖が付いた金髪が緩やかに揺れる。耳元の髪が持ち上がり、先が引っ張られたかのように尖った彼の耳が一瞬露わになる。
「アル様」
背後から掛かる、しわがれた声。ぽてぽてとびっこを引きながらやって来る、足音。青年は振り返ることなく、言う。
「……戦況はどうだ、セバス」
「は……」
腰が曲がり、真っ白な髭が地面を擦るくらい伸びている老魔物は青年の数歩後ろで足を止め、恭しく頭を下げた。
「勇者キールは一旦ベルゲンハイムへ引き返した模様。ですが、これまでの戦いで多くの魔族が命を落としました……」
「……では、彼らも……」
彼ら、で言いたいことが通じるくらいアルとセバスの絆は深く、そして「彼ら」の存在は大きい。セバスはカラカラに乾いた唇を噛んで頷く。
「はい……ヌオとウィは五百年前の急襲時に、ウィックは三百五十年前の略奪時に、スニクは百二十六年前の侵攻戦で、そして今回はピシューやディエが……」
「……」
「ピシューはご存じの通り、手足がないためニンゲンが張った罠に掛かり、そのまま……。ディエはそんなピシューを助けようと、我々の制止を振り切って戦場に戻った結果、魔道士に脚を奪われて……」
アルはセバスの報告を聞き、彫刻品のように整った顔を歪めた。
「……リンの教え子たち……救えなかった……」
「アル様。スニクらはアル様のため、そして敬愛するリン様のために命散らしました。どうか、悲嘆に暮れることなきように。彼らも、ここでアル様が立ち止まっては報われますまい」
「だが……!」
アルの声はオレンジ色の空を震わせる。しかし次に発する言葉が思いつかず、アルは口を閉ざし、ふと何かを思い出したかのように庭木をじっと見つめる。
「……あの庭木……しばらく、手入れできなかったな」
「はい……リン様が植えられた若い木。すっかり大きくなりましたが……」
アルは無言で頷く。あの時、凛が魔物の子どもたちと一緒に植えた庭木の苗。彼女がいなくなって五百年経過し、すっかり木はたくましい幹をつけ、青々とした葉を生い茂らせている。元々この土地は植樹に適していないが、凛の提案で植えられた木はすくすくと成長し、色素の乏しい魔界に癒しを与えるかのように鮮やかな緑を提供しているのだ。
その木も最近すっかり手入れがご無沙汰で、ところどころ樹皮が剥がれ落ち、勝手な方向に伸びた枝が隣の枯れ木のテリトリーを侵害していた。
「……手入れ、するか」
「アル様……」
「分かっている。だが……少し、時間がほしいんだ」
そう言い残し、アルはマントを翻して剪定用具を取るよう、彼の部下に言いつけた。忠実なる老魔族はそんな主を、眩しげに目を細めて見つめていた。
伸びきった枝が切り落とされ、足元に枝木の山を作り上げる。
「すまないな、おまえに任せて」
「構いません。リン先生の木ですから」
剪定ばさみを器用に操って無駄な枝を切り落とすのは、ほっそりした三本脚を持つ青年魔族。濃い赤毛を背中に垂らす彼は、下級魔族とは思えないくらい端正で鼻筋の通った顔を綻ばせ、魔王を見下ろして微笑む。
「このまま伸ばし放題にすれば先生に叱られてしまいます。私の木をぼろぼろにして! って」
「はは……確かに。リンが怒ると怖いからな」
「それは、アル様限定だと思いますが……」
「そんな、ひどいぞ、ニテ」
ニテはクックとのどの奥で笑い、コンパス脚で器用に歩きながら、勝手気ままな方向に伸びた枝をどんどん切り落としていった。
凛が去って五百年。彼女が教えを施した魔族の子どもたちの大半は続く戦争の犠牲者となり、戦場の風となって散っていった。だが、この戦の世を生き残った者たちは立派な大人の魔族に成長し、ある者は魔王アルの側近となり、ある者は凛に次ぐ教育者となって魔族の子どもたちを指導し、そしてある者は子どもを産んで母となっていた。
美貌の魔族ニテもまた、アルに従う魔族の騎士となり、亡きケベルの遺志を継いでアルの側近の位に就いた。幼少期からリーダーとしての素質を煌めかせていたニテは成長してもそのカリスマを失わず、魔族を束ねる優秀な将軍になっていたのだ。
将軍や騎士といっても、人間のように先陣を切って相手を殺めるのではなく、仲間を守り、戦を回避することを生業としている。凛の教えは五百年経った今も薄れることはなかったのだ。
ニテによって切り落とされていく木の枝。ぼんやりとそちらを眺めていると、一瞬、手の平サイズの木の苗を抱えてこちらに背を向けてしゃがみ込み、幼いニテやミーレンたちと一緒に穴を掘るリンの後ろ姿が見えた気が、した。
「一通り終わりましたよ、アル様」
はっと意識を引き戻すと、ニテが剪定ばさみに付いた木の葉を払い取り、セバスが切り落とされた枝を集めて庭の隅に積み重ねているところだった。あの木の枝は手先の器用な魔物たちの手によって家具や武器として生まれ変わるのだろう。
「では、これは僕が片付けておきますので」
「……ああ、すまない」
「リン……」
ベッドに腰を下ろし、膝を抱えてアルは呻くようにその名を呼ぶ。
このベッドに馬乗りになられて猫背矯正の試練を受けたのは、もう五百年も前。痛い痛いと喚いていたのは、もう取り返しのつかない昔の話。文句言うな、と一喝されたのも今では思い出の欠片。
「リン……僕は、どうればいいんだ……?」
強くあれ、と心に誓っていた。「魔王としての威厳を持て」と口を酸っぱくして言っていた凛。彼女の期待に応えるべく、この五百年、一人称を変え、態度を変え、振る舞いを変えてきた。人間が攻め込んでくれば魔物を率いて人間を追い返し、魔界各地で天変地異が起きればすぐさま飛んで駆けつけ、魔族軍の指導に身を投じてきた。
強くなったつもりだった。魔王として生まれ変わったと思っていた。
それでも。
「僕は……弱いんだ……」
馬鹿ね、と背中を叩いたちいさな手は、もうない。うるさい! と一喝した声は、もう聞けない。
覚悟の上だった。魔族の戦争に巻き込むくらいなら、これ以上傷つけるくらいなら、全ての記憶を失って故郷に帰った方が凛のためになると分かっていたから。
「リン……リン……!」
凛の意志を無視して無理矢理眠らせ、儀式を施して故郷へ帰したアルに、凛を懐かしむことは許されない。それでも。
「……助けて……リン……」
もう一度、側にいて。
震える魔王の目尻から、ぽとりと涙の粒が転がり落ちる。その瞬間。
アルの鼻孔を、花の香りがかすめる。思わず顔を上げて、すん、と鼻をひくつかせると、胸の奥が疼くような甘い匂いが胸に広がった。
優しい匂い。温かい体温。
五百年間待ち望んだ感覚に、アルが目を瞬かせた、と思うと。
腹部に、強烈なタックルを喰らった。
ぐえっと潰れたカエルのように呻く魔王。そう、彼は魔王なのだ。いきなりぶつかられたくらいで動じるはずがないのに。
ベッドに腰掛けるアルの腹部に落下したのは、白のシャツと黒のズボンを纏った若い女性。ふわっと香る、香水の匂い。
アルの腹の上に正座になる彼女は薄暗い室内を見回し、自分の座布団となっている美形の魔王を見、きょとんと首を傾げる。
「……あれ、アル? あ、よかった、ちゃんと思い出せたー」
うんうんと頷く凛。わけが分からず、ぽかんと顎を落として自分の腹の上に着地した凛を見つめるアル。凛はアルをそっちのけで一人納得したように頷き続ける。
「そうか……真奈実さんはこっちの世界で死んだから、あっちでも死亡扱いになって。私も記憶が飛ばされて、ここに戻ったとたんぶわっと思い出したと……ん? アル、少し大人っぽくなった?」
「え、え……え?」
「あはは、そのビビリ方、やっぱりアルだね」
おおそうだ、と凛は話についていけないアルを全無視し、にこっと微笑んだ。
「ただいま、アル」
ひとつ、魔王は瞬きし、そして今にも泣きそうに顔を歪めた。
「うん……おかえり、リン……」




