忘れていません
「じゃ、行ってきます」
ヒール靴をつっかけ、資料でぱんぱんに膨れあがったトートバッグを肩に提げ、凛は母親に声を掛けて玄関を出る。
六月の早朝は涼しい。昼間はそれなりには気温が上がるが、朝、まだ日が完全に昇りきっていないこの時間は澄んだ空気が街中を満たし、風もどこか肌寒い。
トートバッグを自転車の前カゴに放り込み、愛車に跨って自宅の門をくぐる。このトートバッグは今年の正月、高校時代からの友人と駅前デパートで福袋を買った際、ストールやカーディガンが詰められていたのだ。福袋の袋にしてはおしゃれで丈夫。しっかり底にマチもあるので書類入れに最適。ということで教育実習の荷物入れに抜擢したのだ。
朝の街中は人通りが少ない。一般会社員はまだ自宅で朝食を取っているような時間に、凛は自転車を走らせる。
閑静な住宅街を抜けると、駅前のショッピングモールに突入する。凛の母校でもある教育実習先の中学校は駅に最も近い「都会っ子」が集う学校。ほとんどの生徒は通学途中にコンビニやデパート、大手スーパーのエリアを通ることになるのだ。
今日は朝一時間目から担当学級での授業。新しい分野に入るので、トートバッグの中には昨夜のうちに調べておいた資料や写真が詰め込まれている。夜中までプリンターを回したせいで両親には怒られたが、これならどんな生徒だって興味を持ってくれるだろう。
巨大電光掲示板が人目を引く交差点。凛が中学校へ行く際、一番時間を食う可能性があるのがここの信号なのだ。押しボタン式のため、タイミングが悪ければ延々待ち続けることになる。
今日は先にボタンを押してくれる人もおらず、「はずれ」に当たったようだ。ボタンの脇で自転車を止め、腕を伸ばしてボタンを押すが一向に信号は変わらない。まだ通勤ラッシュ時間前のため交差点を走る車は少ないが、いつ、誰がどこで凛を見ているか分からない。「教師として生徒の見本になるように」とイヤミ教頭から口を酸っぱくして注意されているため、信号無視はよろしくないだろう。
ふと、誰も見ないのに流れ続ける電光掲示板に目がいった。大抵は議会の様子や決算報告など、大抵はおもしろくない情報を垂れ流しているこの掲示板。「……の遺骸発見」という文字が流れたため、凛の視線はそちらに奪われた。
しばし、流れる文字を見送っていると件の記事が再び頭から流れた。
『女性の遺骸発見。被害者は××県に住む女子専門学生・宮野真奈実さん(二十一)。死因は不明。現在司法解剖中』
凛の黒い目が記事を追う。「宮野真奈実」の所で一瞬目が止まったが、すぐに文字を追って流れていく。
宮野真奈実という女性が死亡したと聞かされても、凛はさして驚愕も悲しみも感じなかった。あえて気になった点を挙げるなら、被害者の女性が凛と同い年だったということくらいか。
凛は電光掲示板から目を反らし、相変わらず変わる気配のない赤信号をじっと見つめた。
赤い、色。
ビルの影になっているため、少しくすんで見える色。
何かの、色。
凛はぱちくり一つ、瞬きした。今、脳裏に何かが駆けめぐった。
くすんだ赤色……いや、橙色。
ふと、後ろを振り返ってみる。誰もいない。
前に視線を戻す。黒塗りの車が一台、すごいスピードで走り去っていった。
誰かに見られている気がしたが、気のせいだ。凛はいつの間にか固まっていた肩をぐるぐる回してほぐし、頭をすっきりさせようと軽く両頬を叩いた。
りんせんせい。
声がする。か細くて、高い声。つい数日前も、実習生控え室で聞こえてきた、誰かの声。
誰だろう。誰の声だろう。
りんせんせい、いかないで。
おいていかないで。
「……誰?」
頭の中をぐるぐる回る声。聞いたことがないはずなのに聞いたことがある声。懐かしくて、胸が苦しくなるような、声。
思い出したいのに思い出せない。のどの奥まで言葉が出ているが、それ以上は出てくることができない、もどかしい思い。
せんせい、たすけて。
こわい、こわいの。たすけて、はやく。
助けたい、そう訴えられるなら助けてあげたい。
でも、あなたは誰? どこにいるの?
くらりと、目の前が一瞬暗転する。危うく自転車から転び落ちそうになって、凛は目頭を押さえながら自転車から降り、片手でハンドルを支えながらぎゅっと目を閉ざす。
目の前から都会の風景が消え去っても、声は執拗に頭の中を支配してくる。むしろ、さっきより声は強くなっていた。
せんせい。りんせんせい。
ねえ、こっちきて。みんな、まってるよ。
誰? あなたは誰?
ぼんやりと凛の目が開く。焦点が定まらない目はフラフラと視線をさまよわせた末、再び電光掲示板に吸い込まれていった。
『女子専門学生・宮野真奈実さん(二十一)。死因は不明』
遺骸で発見された女性。
どうしてだろう、どうしてだろう。
自分は、この女性を知っている。
新聞の中でも、テレビの中でも、ラジオで聞いたわけでもない。でも、知っている。
ラジオ? その単語も引っかかる。つい最近口にしたような。最近口癖のようにずっと言っていたような。
たくさんの単語が頭の中でせめぎ合い、くっつき合い、そして四散していく。回転すれども回転すれども填らないパズルのピースのように堂々巡りを続ける脳回路。
せんせい。
ぼくだよ。わすれちゃった?
忘れていない。そう言いたい。でも、思い出せない。
自転車のハンドルを握る手が震え、ちりん、とベルに手が当たる。
リン。
どうしたの、リン。
ぼくだよ、おぼえていないの?
さっきの子どもの声より低い、青年の声。おどおどした子犬のような、ちょっぴり情けない声。でも、憎めない、懐かしい声。
あなたは、あなたは。
あなたは、誰?
ぼく、ぼくだよ。
ぼくの、なまえは……。
「……アル……」
固く結ばれた凛の唇から、ため息のように漏れた名前。
信号前で苦悩する凛を嘲るように、一台のトラックが横断歩道を縦断していった。その直後、がしゃん、と金属とアスファルトがぶつかる音が響く。
トラックが走り去った後、横断歩道の反対側には横向きに投げ出され、カラカラとペダルを虚しく回す自転車と、前カゴから半分ずり落ちた大きなトートバッグのみが残されていた。
信号が、青に変わる。
だが誰も、横断歩道を渡らなかった。
誰も。




