無念です
魔王城の各所に放たれた火は、数時間後には全て消し止められた。勇者の撤退によって最悪の事態は免れられた。魔王アルの戦死、もしくは凛の死亡。どちらかが発生していればまず、魔族たちは立ち直ることができなかっただろう。
勇者一行の襲撃によって、多くの魔族が命を落とした。特に、集会場にいた幼い魔物の子どもたちのうち、炎に耐性のない者は一瞬で消し炭になったと言われている。
魔王城では慌ただしく負傷者の手当がなされ、戦死者は弔われ、城の修復作業に取りかかった。そして、城の一角。この魔界で最も清潔な一室では、未だ目覚めない黒髪の女性の姿があった。
凛は魔道士の火炎を受けて手足の所々に火傷を負い、頭を柱に打ち付けたため後頭部の皮膚が裂け、勇者に攻撃されたため、体中に数え切れないくらいの傷が残されていた。
ぼろぼろになった凛の服を女性魔族が着替えさせ、真っ白なローブ姿で凛はセバスの治療を受けていた。
「……ねえ、セバス」
自分に背を向け、何やら薬草や木の実をすり混ぜて調合しているセバスに向かって、アルは声を掛ける。すっかり覇気の抜けた、いつも通りの情けない声で。
「リン……大丈夫だよね?」
「……どうでしょうな」
セバスは床にあぐらを掻き、自分を中心に様々な薬草を円形に並べる中から一つをつかみ取り、抑揚のない声で言う。
「少なくとも、ミーレンらのようにはいきますまい」
ミーレンは勇者に斬りつけられ、一時は危篤状態になったがセバスらの看病によって傷は完全に塞がり、もう既に魔王城の復興作業を手伝えるようになっていた。てっきり凛も一晩で完治し、いつものようなお説教を喰らうのだろうと、アルは見積もっていたのだが。
勇者の襲撃から丸三日経った今も、目を覚まさない。傷の治りも圧倒的に遅く、傷を塞ぐ布を剥がそうとすれば痛々しい傷跡がくっきりと見えてしまうのだ。
「……僕、すぐリンも元気になると思ったのに……」
「リン様は魔物に近い体質をされていると申しましたが……食事を見ても分かるでしょう? 体のつくりに関してはリン様は普通の人間と何ら変わりありません」
セバスはすり鉢と乳棒に目を落としたまま、アルを見ずに言う。
「ミーレンやニテら、幸運にも命長らえた者たちは魔物。魔道士の火炎玉も爆風も剣戟も、幾分耐性を持っておりますが、リン様は無防備そのもの。炎を浴びれば火傷で死に、爆風を受ければ軽々と吹っ飛び、剣で斬られれば一瞬で事切れる……それがリン様なのです」
優しく、だが容赦ないセバスの言葉を聞き、アルはぎゅっと拳を固めた。先ほどセバスに無理を言って凛の手当を手伝った際、彼女の後頭部の傷がはっきり見えた。髪でほとんど隠れているが、膿んだようなじくじくの傷口は真っ赤に腫れ上がり、あて布をしていないと瘡蓋が取れて傷口が開いてしまう。
かつてアルも、酷い怪我を負ったことはあった。凛のように頭を打ち付けたこともある。だがどんな傷も一晩眠れば塞がったし、悪い場合もセバスが煎じた薬を塗ればすぐに楽になった。
自分と凛は違う生き物なのだと、痛いくらいに実感させられ、アルは両腕で抱えるように頭を伏せった。
しばし、部屋に沈黙が流れる。一定のリズムでセバスが薬を煎じ、何やらもごもご言いながら新しい薬草をすり鉢に足していく。
徐にアルの背中が動いた。
「……勇者の目的は、僕の魔王としての血を蘇らせることで、そして実際僕は魔物たちやリンを盾に取られて勇者の思惑通り、血を覚醒させてしまった……」
アルは伏せていた面を上げ、じっとこちらを見つめるセバスを見返した。
「ニテらが言ってたんだね。リンがチキュウに帰れたら、こっちでの記憶は一切消されるって。何も思い出せなくなるって……」
「はい……マナミという女性がそう言っていたと。現に彼女もその契約の元で勇者の配下として暗躍していたそうです」
「ならば、迷うことはないな」
アルの横顔を明るいオレンジ色の光が照らした。
「どうして! 私は勇者が憎いわ……子どもたちをたくさん殺されたのよ!」
「君の気持ちはよく分かるよ、リン」
凛の自室で対峙する魔族の王と、人間の女性。凛はまだ本調子でないので、ベッドのポールに右腕を巻き付け、縋るような形でアルに詰め寄る。
「敵を討って何がいけないの! そう……一発あのお綺麗な顔を殴るぐらいなら、私にもできるわ!」
「リンは勇者に近寄ってはいけないよ。ただでさえ、利用価値があると言われたんだろう?」
「そうだけど……」
凛は包帯の巻かれた腕に力を入れ、ぐっとアルの胸ぐらに掴みかかる。
「でも、悔しいのよ! 私はあの子たちを守りたかったのに、何もできないどころか守られてしまった……」
目を閉じれば、魔物たちを焼き尽くす地獄の炎が、ミーレンを襲った刃が、胸を貫かれて消滅した真奈実が、そして真奈実のために戦って散ったマティルダが、嫌でも思い出される。
「……真奈実さんもマティルダって人も、私が、もっとしっかりしてれば……あんなことには……」
「リン……」
「私が無力なのは分かってる! それでも……いぢっ!?」
腹筋に力を入れたとたん、ぷちっと何かが切れる音が。アルに食って掛かっていた凛の目が見開かれ、歯を食いしばったまま、ずるずるとその場に崩れ落ちる。
「い、いたたた……傷、裂けたかも……」
「ほ、ほら! 無茶するから……!」
ベッドにしなだれるように倒れ込んだ凛を抱え起こし、そっとベッドに寝かせる。
「セバスも言ってただろ? まだ動いちゃだめだって……」
「それでも……!」
ぽんぽんと額に触れるアルの手を、鬱血しそうなほど握りしめる凛。アルはそんな凛を見、そして背後に静かに佇むセバスを見……観念したように息をついた。
「そうか……リンはどうしても、勇者に報復したいんだね」
「そう言ってるでしょ!」
「分かった」
一瞬了解してくれたのかと目を輝かせた凛だが、アルは暗い面持ちで首を横に振った。
「ごめん、本当にごめんね、リン先生」
アルは何度も先に謝り、自分を憎悪の眼差しで見つめる凛の口元に自分の細い指を当てた。
ひんやりとした指が唇に添えられ、ぎょっと目を見張る凛だが、アルが一定のリズムに合わせて指でとんとん唇を叩いていると、やがて凛のまぶたが震え、頭がこっくり船を漕ぎ、そして急に体が力を失って後ろ向きにベッドに沈み込んだ。
「……さすがアル様。催眠術の方法も心得られましたか」
セバスに茶化すように声を掛けられ、アルは凛を腕に抱えて複雑そうにその寝顔を見下ろす。
「……こんなことに使いたくはなかったんだけどね」
「女性の抱きかかえ方もマスターして……リン様が知ればさぞお喜びになるでしょう」
「そうかな? 触るな、変態! って殴られそうだけど」
アルは笑顔で返し、腕の中の凛を軽く揺すぶって顔を引き締めた。
「……セバス、儀式の準備を。リンを……帰すんだ」




