いつわりの仲間たち
ぱから、ぱからとミーレンの蹄の音が響く。轟々と燃えさかる炎と崩れかけた石壁を華麗に避け、ミーレンは走る。
「先生、もうちょっとだよ」
ミーレンは凛を励ますように言う。年若いとはいえ、ミーレンも立派な魔族だ。かなりの距離を走ったはずだが、その声に疲れは見られない。
だがミーレンの背中の鱗はじっとりと汗を掻いている。疲れではなく、過度の緊張と恐怖ゆえの汗。凛は彼女の背に跨り、ぐっと唇を噛んだ。
「……ありがとう、ミーレン」
「そう! 先生は笑ってて!」
ぐるりと首を回し、少しだけ速度を緩めてミーレンは緊張の微笑みを浮かべる。
「ケベルはね、ぜったい負けないから。先生が笑ってると、みんながんばれるの。わたしもそうだよ」
「ミーレン」
凛はその言葉に、微かに涙腺を緩ませた。そして拳で目元を乱暴に拭い、顔を上げた。そして、ぎょっと身を震わせる。
ミーレンの前方に立ちふさがる人影。
「ミーレ……前!」
「え?」
裏返った凛の声に、前方に向き直るミーレン。瞬間――
甲高い悲鳴を上げて、ミーレンが上体を反らせて後ろ足立ちになる。前足が空を掻き、鞍もない背中に乗っていた凛はあっけなく落馬した。
どっと肩から落下し、凛は歯の隙間から悲鳴を上げる。だが落馬の痛みも何も、目の前の光景を目にして言葉を失った。
横倒しになって廊下に投げ出されたミーレン。その腹部に深々と突き刺さった、幅広の剣。吹き出す赤い鮮血。
「ミーレンっ!」
肩を押さえてミーレンに近付こうとした凛だが、のど元に当たるひやりとした感覚に、身を震わせて立ち止まる。さっきまで、前方にいたはずなのに。
「動くな」
首筋に当てられた刃よりも冷たい、男性の声。振り向かずとも分かる。
真奈実によって瞬間移動してきた、人間界の勇者。
「こうもあっけなく落ちるとは……他愛のないことだ」
「というか、私たちの出番ないでしょ」
そう言うのは、ミーレンの体を足蹴にして歩み寄ってくる女性。僧服姿であることから、きっと神官なのだろうが、傷ついてうずくまるミーレンを見る目は冷たく、赤い口元に浮かぶのは残虐な笑みだった。
「……ああ、汚い。魔物の血ってどうしてこんなに汚いのかしら」
「神官の言う言葉ではないな」
魔道士姿の男性が呆れたように言うと、女神官はフンと鼻を鳴らせる。
「当たり前でしょう。世の中どうせ金よ。金がもらえるから神官になったのよ、悪い?」
「別に」
暢気な会話をする勇者の仲間たち。彼女らの背後で面を伏せる真奈実と、彼女側に寄り添って悲痛な眼差しでリンを見つめる女戦士。
「っと……」
わずかに動いた凛を逃すことなく、勇者の剣がのど元の皮膚に宛われる。血管が浮いて見えるくらい薄い皮膚は、彼が少しでも手を動かせばあっさり切り裂かれてしまう。ただの人間である凛は、頸動脈を切られたらあっけなく死んでしまう。
「……おっ、そっちも片が付いたか」
場違いなほど明るい声。勇者と同じく背後から近付いてくる気配に、凛は絶望で目を暗くさせた。
「……遅かったな、ゼス」
「あの魔物、意外と手強くってさ」
そこで言葉を切り、凛の目の前に回りこんできたのは、先ほどの格闘家青年。彼は凛の前にしゃがみ、ニヤリと笑った。彼の右手に嵌められた鉄の爪には、真新しい血がべっとりとこべり付いてる。
「……残念だったな、もうおまえの手下、いないけど?」
彼の言わんとすることが分かり、凛は悔しさに目を潤ませた。
ケベルが負けた。
胸が熱い。鼻の奥がつんとする。
「おっ、泣くか? そりゃそうだよなぁ、あれだけいた手下が全滅だもんなぁ」
ゼエゼエ息をつくミーレンを見て彼は言うが。
「違うっ……!」
絞り出すような凛の声に、勇者以外が反応する。
彼らは手下ではない。自ら身を投げ出して凛を守ってくれた、かけがえのない仲間。魔王城で共に暮らした、優しい魔族たち。そんな彼らを捨て駒のように扱われたことが、勇者たちに一矢喰らわせることもできない自分が、悔しい。
勇者は瞬きする。そしてその場に頽れる凛の首筋に剣先を添わせた。
「……待って、ディルフィード!」
凛ののど元に突きつけられた白刃がきらりと光る。勇者は凛から剣先を反らさず、目だけを脇にやる。
「……おまえに発言権はないはずだが? マナミ」
「……そうかもしれないわ」
真奈実は一歩前に出て、どくどくと真っ赤な血を流すミーレンを労しげに見つめ、キッと勇者に向き直った。
「でも、待って。確かに魔物は滅すべき存在でしょう。でも、凛さんまで殺める必要はないはずよ」
「同郷のよしみか、哀れみか……」
勇者の言葉に合わせて剣先が揺れ、すっとリンの首に赤い線が走る。
「マナミ、この女を見逃せと言うのか」
「彼女も私と同じ異世界人。殺すより生かす方が使い道があるわ」
真奈実の言い分は冷酷だが、ちらとこちらへ視線をやった真奈実は今にも泣きそうな、幼子のような表情を浮かべていた。
「それに、彼女は魔王から絶大な信頼を受けている。彼女を上手く使えば人質にも、囮にもなるわ!」
真奈実は決して凛を奴隷扱いしたいわけではない。自分と同じように凛に生きる道を与えろと、あわよくば共に地球へ返してくれと、その瞳は語っていた。
『どんな手を使ってでも……とにかく、帰れたらいいの』
悲しげな真奈実の言葉が、頭をこだまする。
勇者は必死に訴える真奈実を見、足元に倒れ伏す凛を見、そして虫の息のミーレンを見……剣を下ろした。
「……おまえの言い分ももっともだ。こいつを殺せば我々の計画も水の泡になりかねない……生かしておくのが賢明かもしれん」
「ディルフィード……!」
「だが、使者は二人も要らん」
歓喜に染められた真奈実の顔が、一瞬で蒼白になる。彼の言いたいことが瞬時に分かった真奈実と、よく分からず呻くしかできない凛。
ゆらりと、勇者の背後の魔道士が歩み出る。無表情のまま、彼は呪文詠唱する。その指先がまっすぐ指すのは、呆然と立ちつくす真奈実。
魔道士の指先が弾け、真っ白に燃え上がる火炎玉が吹き出す。バスケットボール大の炎はめらめらと燃えながら空を飛び、防御も何もしない真奈実の胸に直撃した。
胸を火炎玉に打ち抜かれた真奈実の体はぽんと飛び、床に打ち付けられて一度、二度跳ねた。カッと見開かれた黒い目はじっと凛に向けられる。
魔法によってぽっかり空いた胸の穴から血は出ない。真奈実は青ざめた唇を微かに動かし、血の混じったわずかな吐息を吐き出して……ふっと、霧が晴れるように消え去った。
凛の目から生気が奪われる。唇が青くなり、呼吸が乱れる。声を出すことすら忘れてしまった凛の代わりに悲鳴を上げたのは、勇者に同行していた若い女戦士だった。
「ディルフィード! どういうことなの!?」
彼女は真奈実が消え去った場所を一瞥した後、ミーレンと凛の前を横切ってすらりと、腰に下げていた鋼の剣を抜いた。その切っ先が向くのは、相変わらず感情に乏しい勇者。
「あんまりだわ! どうしてマナミを……」
「哀れみか、もしくは臆病風に吹かれたか……」
勇者は自分に向けられた刃をものともせず、じっと女戦士を見つめる。
「……マナミに近付きすぎたのが仇になったな、マティルダよ」
「ディルフィードっ!」
マティルダは目に涙を浮かべ、甲高い絶叫を挙げて大剣を振りかぶった。
勇者が斬られる。凛はとっさに目をつぶり、伏せったまま両耳に手を宛ったが。
剣が肉を断つ音。「ザクッ」とも「グサッ」とも違う、生々しい音。
剣が床に落ち、鎧に包まれた体が崩れ落ちる。血を吐く音。
「……あっけないな、マティルダよ」
だが、聞こえてきた声に凛ははっとして目を開け……目を開けたことを後悔した。
凛の方へ差し出されるかのように伸びる、細い女性の腕。籠手から覗く指先は青白く、微動だにしない。伏せられたその体の下からじわじわと赤い池ができあがり、真っ二つに割れた剣を飲み込む沼のように広がっていく。
物言わぬ骸となった女戦士マティルダ。彼女の背中に、とどめのように白銀の剣を突き刺す勇者。
肉が裂ける音。女神官の狂ったような笑い声。勇者の、嘲るような横顔。
「あ……あ、あ……!」
わけの分からない言葉を漏らす凛に背を向けたままずるりと、勇者は剣を引き抜く。真っ赤な鮮血に染められた刀身を見、勇者の頬が引きつったような笑みを描く。自分の頬にマティルダの返り血が飛ぶのさえ、喜んでいるかのように。
凛はマティルダから視線を離したいのに、引き剥がすことができなかった。
真奈実の死は、一瞬だった。胸に穴を穿たれ、その亡骸も消え去って。
だが、マティルダの体はそこにある。心臓の脈動に合わせて胸から止めどなく鮮血を溢れさせ、青ざめた腕をぐったりと投げ出し……。
「い、いやああああああああぁぁぁ!」
裏返り、ひび割れた絶叫を上げ、頭を抱え込んでガクガクと震える凛の体。
「いや、あ、そんな……あ……うぐっ……」
わけの分からない言葉を吐き出す凛の前に勇者が歩み寄る。かと思うと、籠手に包まれたその拳が凛の腹にめり込み、凛はぐるっと目を一回転させ、勇者の胸に倒れ込んだ。
「……それ、持って帰るんか?」
格闘家がうんざりした眼差しで指す「それ」は、勇者が今し方鳩尾を打って気絶させた異世界人の女性。勇者はゆっくり頷き、女性の腕を引いて青年の方へ差し出す。
「おまえが持ってろ。肩にでも担いでおけ。落とすなよ」
「あ? ……あー、ハイハイ。了解ですよ」
既に歩きだした勇者と神官と魔道士。格闘家はぽりぽり短い髪を掻き、ぐったりと意識を失った凛の腕を引いてひょいと自分の右肩に担いだ。
「……俺だって、あんたに殺されたくはないからね」
聞こえているのか聞こえていないのか、勇者から返事は返ってこなかった。




