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もう一人の異世界人

 今日も一日、よく働いた。


 凛は本日の記録を紙にまとめ、たん、と自室の壁に貼り付けた。既に壁一面が「本日の行動」で埋め尽くされている。それは子どもたちの体調から始まり、アルの朝の目覚めについて、掃除の成果や運動の結果について。それから、アルが拗ねた回数とセバスが淹れてくれたお茶の種類。子どもたちの話した内容と、アルの夜の様子と……。


 くすりと、笑みが漏れる。見返してみると、本当にアルのことばかりだった。体は大きく、世の女子大生が黄色い声を上げて称賛するだろう美貌の魔王様だが、中身は全くの子どもだ。甘え下手で、幼くて、新しいものや知らないものへの好奇心が強い子ども。


 誰よりも愛情を必要としている、大きな子ども。

 凛はふと、笑顔を消した。無意識のうちに右手が、自分の右脇腹に触れる。ぴりっとした痛みに、凛の鼻に皺が寄る。


 この怪我のことは、セバスしか知らない。凛が頼み込んで、アルへの口外をしないと約束してくれたのだ。


 凛にこの怪我を負わせたのは、紛れもなくアルだ。今朝のアルの目覚めは本当に悪く、どうやら悪い夢でも見ていたらしい、唸って悶えて、凛が起こしに来たのにも気付いていなかった。そうして彼は、シーツを剥がそうとする凛が夢で出てきた何者かと勘違いしたらしい。薄目を開け、ぎらりと輝く爪を振り上げてきたのだ。


 反射的に、凛は避けた。だが一番長い中指の爪の先が凛の脇腹を捕らえ、薄い皮を引き裂いた。凛はすぐさま部屋から撤退し、自室に戻ろうとする際にセバスと鉢合わせになり、彼に事情を説明する羽目になってしまった。


 手当を受けた後にもう一度アルの部屋に行ったが、アルは通常通りし合わせそうに眠っていた。無理矢理起こした後も、けろっとしていた。凛に襲いかかったことを、覚えていなかったのだ。


 セバスはこのことに非常に憤っていた。寝ぼけていたとはいえ、凛を傷つけたのは事実なのだから伝えなくてはならない、と声高く主張していた。凛はそんなセバスを説き伏せ、アルに怪我のことも、アルが凛を怪我させたことも伝えるなと頼んだ。


 それが、きっとアルにとって一番いいだろうから。

 優しい彼は、自分が凛を傷つけたと知ったら、きっと苦しむだろうから。


 かたり、と小さな音に、凛は顔を上げた。脇腹に当てていた手を下ろし、音のした方……開けっ放しになっていた窓辺の方を見やって、はっと息をついた。


 テラスに続く窓。そこに揺らめく、黒い影。


 人だ。


 凛は唾を呑んだ。不審者がテラスにいる。すぐさまアルを呼ばなければならないのだが、なぜだろう。非常事態だというのに、凛の心は穏やかだった。


 むしろ、テラスにいる人物にどうしようもない親近感すら感じる。自分と同じ匂い、同じ気配を、感じる。


「……あなたは?」


 つぶやくような、ため息のような声が唇から零れる。凛の声を聞き、テラスに立つ人物は面を上げた。細身のため高身長かと思いきや、直立して向き合うと、凛よりも頭一つ分背が低かった。全身を黒衣に包み、頭にも黒い頭巾を被っているのだが体の線は細い。体の動きからしても間違いなく、女性だ。


 黒衣の人物は口元まで覆う頭巾の奥でふうっと小さく息をついた。

「……あなたこそ。名前は?」


 口布の奥から発された声はやはり、若い女性のもの。凛の声よりトーンが高く、儚い雰囲気のする少女の面影を残した声。


 凛は背中に腕を伸ばし、そっと後ろ手にテラスのドアを閉めた。何かあっても城の魔物たちに危害を与えさせるわけにはいかない。

「……城崎凛」

「凛……やはり、あなたも……」


 憂うような、少女の声。黒衣の女性はふるふると頭部を振り、目元まで覆う頭巾に右手をかけ、後ろへと頭巾をまくり上げた。


 濁ったオレンジ色の空。微かに差し込む光を受け、空気中に晒された彼女の髪がふわりと揺れ、頭巾の隙間から零れる。軽く頭を振ると頭巾が解け、彼女の髪が明らかになる。肩先で切りそろえられた、凛と同じ色……漆黒の髪が。


「……私は真奈実。……これだけ言えば、分かるわよね?」

「真奈実……」


 黒い髪の女性。真奈実、という名前。それだけの情報だが、十分だ。

 手が汗で滑る。ズボンの裾で両手の汗を拭い、凛は一歩、後退した。


「……あなたが、勇者に召喚されたっていう使者……」

「そう。……魔物を滅ぼすため、その手段として召喚されたのよ」


 真奈実は黒い目を細めて笑う。小柄で体の線も細く、顎もすんなりと尖っている。口元は相変わらず黒い布が覆っているが、かなりの美人であることは明らかだった。


 だが、油断はできない。凛はじっと真奈実を見据える。

「……それじゃあ、あなたも魔族を……」

「そういうことになるわね」


 でも、と真奈実はすうっと息を吸い、テラスから一望できる魔王城の庭園を見回した。凛の指揮によって徐々に華やかさを取り戻している中庭。先日植えたばかりの木の苗が夜風を浴びて微かに葉っぱを揺らせていた。お手製のウッドデスクには、ブリキを曲げて作った歪な形のじょうろが鎮座している。とても魔界の城とは思えない、愛らしい風景。


 真奈実の視線が凛に戻る。


「……勇者に命じられて、魔王城の偵察をするよう言われたの。どうやら私は……いえ、私たちは魔物に近い存在らしいわ。特殊な魔法を使わずとも魔物の言葉が分かるし、魔王城に立ちこめる障気にも耐えられる。あなたもそうでしょう? だから勇者は、私にこの仕事を託したそうよ」

「……障気……そんなものがあったの?」

「そう。長くここにいるあなたでも、気付かなかった。それくらい、私たちは強い耐性を持っているの。魔王の近くでも平然としていられるのでしょう? クラン・クレイルの普通の人間なら、魔王の覇気にすぐにやられちゃうそうだから。さすがの勇者も障気には難儀していて、今障気を打破する作戦を練っている最中なのよ」


 あの魔王ならそんなことはないだろうが……と要らない心配をする凛だが、論点はそこではない。ぺらぺらと重要事項を息のように吐き出す真奈実を、凛も見つめ返す。


「……勇者の使者にしては随分饒舌ね。いいの? 今言った内容、機密なんじゃなくて?」

 だが真奈実は凛の指摘に臆した様子もなく、ふふっと軽く微笑んだ。


「そうね……下手すればこちらにとって不利になるわね。それくらい、私たちの存在はこの世界にとって異質なものだから」

「勇者サイドの割には友好的なのね」


 最初はとにかく時間を稼ごうと質問したのだが、今は単純に好奇心が湧いてきた。この真奈実という女性は、凛が持つ以上の情報を蓄えているのだ。


 真奈実も少し緊張の糸をほぐしたのか、強ばっていた肩を落として軽く目を伏せる。

「そうね……私だって人間だもの。人として当然の感情は持ち合わせているし、何が正しくて何が間違っているか把握しているつもり」

「……どういうこと?」


 真奈実は目を閉ざし、ひとつ、ふたつ呼吸を置いてゆっくり黒い目を開いた。


「……ここ数日、あなたの様子を見せてもらったわ。私、隠密の才能があるらしくて魔王にも気付かれずに偵察できたの」

「……それで?」

「驚いたわ。私、てっきり魔王に召喚された使者は魔王にこき使われ、虐げられ、操り人形にされているとばかり思っていたから」


 でも、と真奈実はどこか寂しげな笑顔を浮かべ、凛を見つめた。

「私が見たあなたは……全く違っていた。おぞましい見てくれの魔物たちを指導し、一緒に遊び、叱り、共に食事を取って。あの、極悪非道と噂される魔王でさえあなたの前では赤子同然だもの」

「……まあ、アルについてはあいつがそういう性格であることもあるんだけど」

「そう、それも意外な点だったわ」


 すっと真奈実の目が細く寄せられる。顔立ちがシャープなので、細い眉と細い目が非常にマッチしていた。

「……クラン・クレイルの人間は魔王を恐怖の対象として見ているわ。あなたも知っての通り、先代魔王の時からずっと、魔族はこちらへ戦争を持ちかけることはなかった。でも、これは期を見ているのだ。こちらが気を抜けばすぐに奴らは襲いかかってくると、そう信じ込まれているの。実際の魔王は弱気で引っ込み思案……だけれど、人間界に伝わる魔王は邪悪そのもの。長い年月の間で、事実が歪曲されていったのよ」

「……」


 真奈実の意図が分からない。凛の目が三角形に吊り上がる。

「……真奈実さん、あなたの言うことは何となく分かるけど……でも、それと勇者との関係が分からないわ。あなたは勇者の仲間のはず。でも今言ったことは、勇者や人間に思想を覆すこちになる……それに、あなただって魔王城に単身で乗り込めるくらいなら、か弱い魔物を倒すことだってできたでしょうに……」

「さあ……? これ以上は話せないわね。後はあなたの中で考えてちょうだい」


 さらりと凛の質問をかわし、真奈実は自分のストレートヘアーを押さえながら元のように黒頭巾に押し込んだ。

 きちんと目深にフードを被り、真奈実はテラスの手すりに体を預ける。と、


「リン!」


派手なガラス音を立てて背後の扉が開き、凛はびくっと身を震わせた。振り返れば、ぜえぜえと息をつく金髪の美青年……アルが、つかつかと真奈実に歩み寄るところだった。凛に向かい合う形になっていた真奈実はアルの登場が見えていたのか、平然として手すりに尻をかけて座った。


 アルはツカツカ長靴を鳴らせて真奈実に詰め寄り、すらりと腰の剣を……抜いた。装飾剣とばかり思っていたその長剣は鞘に反して異常に長く、アルの立ち位置からでも剣先が真奈実ののど元にぴったりと添えられた。


「アル!?」

「リン、下がっていろ」


 アルを止めようと一歩前に出た凛だが、アルは振り返ることなく凛を制する。これほどまで鬼気迫るアルの声を聞いたのは、おそらく召喚された直後の「娘よ、私のしもべとなり、私に力を貸すのだ!」以来だろう。彼の体中からにじみ出すさっきに気圧され、凛は立ち止まってしまう。


 一方の真奈実はのど元に剣を突きつけられても動じることなく、しげしげとその白銀の刀身を見つめる。

「意外ね……魔王様、てっきりヘタレかと思ってたわ」

「黙れ、侵入者!」


 アルは細い目を吊り上げ、吐き捨てるように言うが剣先はぶれない。オレンジ色の空が、刀身に映ってみえた。


「何をしに来た? 答えろ、勇者の使者!」

「物騒な物言いね。私は凛さんと世間話をしに来ただけよ」


 真奈実は余裕綽々で両手を耳の横に挙げ、くすっと笑う。

「今日はこの辺で勘弁するわ。私だって、首を刎ねられたくないから」

「……誰にだ」

「さあ?」


 真奈実は首筋の剣をものともせず、くるりと凛の方を見つめた。その目は先ほどと同じように、寂しそうな色を讃えていた。


「……凛さん。私、あなたが羨ましいわ」

「え?」

「何でもない。それじゃあ、またね」


 真奈実はちらとアルに目をやり、黒衣の懐に右手を運んだ。その手が何かを掴んだかと思うと……ふっと、霧が晴れるように真奈実の姿はアルの剣先から消え去っていた。まさに、瞬きするほどの間。凛がぱちくり目を開くと、アルは小さく舌打ちをして剣を鞘に収めた。鞘の方を見ずともきちんと剣が収まった辺り、やはりアルは相当の剣の腕を持っているのだろう。


「逃げられたか……」

「あまり深くは追わないで、アル」

 背伸びし、凛はアルの広い肩をぽんと叩いた。


「真奈実さん……あ、さっきの人の名前だけど……あの人、勇者の使者だって言うけど悪い人には見えなかったわ」

「だが、うちの結界をものともせずに侵入できたんだ」


 アルはぎらぎらと瞳を燃やしたまま、真奈実が座っていたテラスの手すりをにらみつける。いつもは穏やかな青色の目が今は濃い藍色に染まって見え、凛の背中に悪寒が走る。

「しかも、あの女もリンと同じ異世界人だ。生かしてはおけん!」

「だから、私は何も……」

「すぐにセバスに追わせる! リンも……」

「……人の話は最後まで聞けぇっ!」

「ひいっ!?」


 凛の一喝に、魔王の肩がびくっと震える。その拍子に目の色もいつものような澄んだ青に戻り、一気に及び腰になる。


 凛は通常運転になったアルに歩み寄り、ぐいっとその上着を掴んだ。

「真奈実さんは……どういう魂胆かまでは教えてくれなかったけれど、人間側の情報を教えてくれたわ。ここ数日うちに潜伏していたようだけど、その間も子どもたちに手を出さないでくれたのよ!」

「え、え……え? 見てたの? というか、うちにいたの?」

「らしいわ。私も気付かなかったけれど、あんたの情けない姿もよーく見られてたの」

「そ、そんなぁ……」


 しょぼん、と項垂れる魔王様。凛はそんなアルの背中を押して部屋に入り、後ろ手にガラス戸を閉めた。先ほどアルが叩き開けたせいか、窓枠に填められたガラスが一枚、今にもずれ落ちそうになっていた。


「……それにしても」

「え?」

「アル、さっき別人みたいだったわ。普段からあれくらいの気迫出せばいいのに」

「え? え? 何のこと?」

「……だからさっき真奈実さんと対峙して、とーっても勇ましいこと言ってたじゃない」

「そう、なの? 僕、いつも通りのつもりなんだけど……」

「いつも通りの魔王様はこうして、私の一歩後ろを歩く弱虫さんでしょう」

「ううう……」

「とういことで、普段からあれだけの覇気を出せるよう、特訓に励むわよ」

「え、えええ!? もういいだろう? 本気になったら勇ましくなれるみたいだし……」

「うっさい」

「……イエス」


 魔王城での時間は優しく、緩やかに流れていった。

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