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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 39

 目覚めた時、そこはまだ夜だった。

 薄く開いた瞼の隙間に、青い光がふわり射す。月光だ。霧のような柔らかさで、無人の公園を包んでいる。ベンチの足元には携帯電話が落ちていて、ランプがまるで蛍のように、緑色に光っていた。

 拾わなくちゃと思ったけれど、ついに腕は、伸びなかった。

「紺野ちゃん……」

 ベンチに横向きに倒れたまま、膝を抱えて、私は泣いた。

 ――――紺野ちゃんは、死んだ。

 陽一郎が、教えてくれた。紺野ちゃんは、事故で死んだ。

 知らなかった。そんなの、全然。でも私が知らないのは当然だった。

 だって私は、事件の後に――――袴塚市を一度、去ったのだから。

 全部、思い出していた。小学五年の頃の私の、春から夏にかけての罪を。

 私は紺野ちゃんと友達だった。でも私達の関係は、決して綺麗なものとは呼べなかった。

 寧ろ、逆だ。汚かった。私は紺野ちゃんを『ばい菌』扱いしていたのだ。『人間』だとさえ思ってなくて、触れば身体が穢れてしまう、汚物同然と見做していた。

 なのにその紺野ちゃんが死んだと聞けば、私は涙を流すのだ。

 ――――見苦しいキチガイね。

 記憶の声が、私の醜態を嗤っていく。さっき出会った美少女と、声音がほとんど同じだ。

 季節外れの転校生。この公園に舞い降りた、白い美貌の黒い死神。

 私は彼女を『呉野さん』と呼んだけれど、その呼び方では違ったのだ。

 あの子は、『氷花ちゃん』だったのだ。今も昔も変わらず非道で、私をキチガイ呼ばわりした、あの『氷花ちゃん』だったのだ。

 今は一体、何時だろう。ここで眠りについてから、かなり時間が経ったはずだ。携帯を見なきゃと思ったけれど、光る液晶を見下ろすうちに、そんな気持ちは挫けてしまう。

 怖い。携帯を拾うのが。だってこの携帯で私は陽一郎と話したのだ。その会話をきっかけにして、紺野ちゃんの死を知った。

 なのに携帯をまた拾って、私は一体どうするの?

 陽一郎に、また電話? 紺野ちゃんは死んだのに?

 本当に死んだの? 死因は? 証拠は? 状況は?

 ねえ、実は、事故死じゃなくて。

 自殺、なんじゃないのかなあ?

 引き攣り笑いを浮かべながら、私は首を横に振る。そんな質問、無理だ。出来ない。もし自殺だなんて分かったら、きっと後を追いたくなる。

 それに私が携帯を恐れる理由は、他にも一つ、別にあった。

 ――――お父さん、お母さん、どうして?

 携帯の液晶は点滅を繰り返し、メールか着信を受けた事を、私に報せ続けている。通知の相手は確実に、私のお父さんかお母さん。私の帰りが遅いから、心配させてしまったのだ。嫌な動悸を抑えながら、私は携帯を凝視した。

 嬉しいはずの気遣いが、今、とても恐ろしい。

 もう、気付いていたからだ。二人の態度の不審さに。

 私は『忘れ過ぎ』ていた。氷花ちゃんの指摘通り、私の忘れ方は変なのだ。今なら私もそう思う。私と暮らす両親だって、変に思って当然だった。

 なのに、二人の態度は普通だった。家には常に幸せの香りが、ふんわり温かに満ちている。今朝だって、リビングで朝ごはんを皆で食べて、行ってきます、気を付けてねって、和やかなやり取りを、笑顔で交わしあったのに――――、私は、大声で泣き出した。

 自分でも、分かったからだ。この上辺だけの幸せの、下に隠れた真実が。

 二人共、どうして?

 どうして幸せな振りをするの?

 本当はとっても不幸なのに? 白い男の人のいる場所にも、まだ通わないといけないのに? 私に隠れて離婚の話ばっかり、たくさん、たくさんしてるのに?

 ああ、と私は息を吐く。

 ――――私は、こんなにも『見て』きたのだ。

 ――――なのに、こんなにも『忘れた』のだ。

 これが私の正体だ。私という人間は、嘘と誤魔化しで出来ている。見て、忘れて、見て、忘れて。それをひたすら繰り返しながら、私は今まで生きてきた。

 そんな芸当を可能にしたのは、偏に恐怖故だった。

 袴塚中学校での私は、完璧だった。綺麗な笑顔を振り撒いて、誰からも好かれる態度と言葉を身に付けた。頭は馬鹿なままだけれど、元気と愛嬌でカバーした。努力していたのだ。すっかり忘れていたけれど、私は、努力していたのだ。

 もう間違いたくなかった。昔の二の舞は嫌だった。

 汚い『ばい菌』に塗れる事は、魂が孤独に堕ちる事だ。何度記憶が欠け落ちても、その教訓だけは骨の髄まで沁みていた。どうか、綺麗に。綺麗に。綺麗に。綺麗な姿でありますように。透明できらきらで綿菓子のように甘やかで、可愛い美也子でありますように。

 それは間違いなく刷り込みで、けれど同時に本能だった。

 私は自分の命を繋ぐ為に、綺麗な美也子になったのだ。

 その生き方を貫く事を、孤独の痛みを知った日から、堅く魂に誓ったのだ。

 そんな、私だったのに。

 十一歳の一学期に、よりにもよって『ばい菌』の子と、友達になろうと決めたのだ。

「……」

 あの席替えの日の事は、今なら昨日のように思い出せる。

 教室に出回った紺野ちゃんの『ばい菌』を、私達は面白おかしく押し付け合った。そんなに嫌がった『ばい菌』なのに、私は最後、その汚さを受け入れた。紺野ちゃんを、受け入れたのだ。

……妖精と出逢って、しまったから。

 華奢な身体。白い肌。伏せられた栗色の睫毛の、一本一本まで思い出せる。

 切ない吐息が、喉から漏れた。

「撫子ちゃん……」

 雨宮撫子ちゃん。

 私の失くした記憶の中で、誰より美しかった女の子。

 あの夏、撫子ちゃんは学校のルールに違反した。

 皆の楽しい遊びを邪魔して、壊して、紺野ちゃんを攫っていった。

 とんでもない罪だった。ルールを守る者として、私は撫子ちゃんを許せない。どんなに愛しい妖精でも、狂おしいほど辛くても、許すわけにはいかないのだ。

 でも今の私の心には、当時程に熱く滾る、怒りや悲しみはもうなかった。

 喪失感が、あの日の激情を呑んでいく。心にぽっかり空いた穴に、血がゆっくりと溜まっていく。そこで膿んで、腐っていく。なんて不潔な心だろう。私は、自分が嫌になった。

 ――――だって、もういないのだ。

 私がいくら怒っても、そしてどんなに悲しんでも。

 妖精を罰したあの子の事を、咎める事は、出来ないから。


『代わりに、言ってよ! 私じゃ、何にも、言えないよ……!』


 私達の関係が、最悪の結末を迎えた夏。

 紺野ちゃんは鋏を手に、声の限りに叫んでいた。

 怖い、と。

 死にたい、と。

 もう学校には来たくない、と。

 自分からはもう何も、言葉にするのも嫌なのだ、と。

 その絶叫を胸に刻み、十五の私は今、思う。

 本当はまだ、認めるのは嫌だった。でも言い逃れはできないのだ。目を背ける私の視界、頭上の方、ベンチの隅っこ。錆の匂いがしそうな、赤。そこに私の罪がある。見ない振りは出来なかった。

 もっと早くに、気付かなければ駄目だった。これでは小五の時とおんなじだ、と。私の魂はいつの間にか、余裕と慢心に染まっていた。

 結局、自力では気づけなかった。

 だから、人から言われてしまったのだ。

 ――――友達でも、プライバシー勝手に覗かれたら気持ち悪いっていうのが、どうしてあんたには分からないの!

 泣き笑いの顔で、私は「そうだね」と呟いた。

「そうだね、和音ちゃん。私、やっぱり馬鹿だから、久しぶりに、間違えちゃったみたい……」

 小五の私は、『ばい菌』の紺野ちゃんを助けてあげたつもりだった。

 もう一人じゃないよ、紺野ちゃん。そんな風に思っていて、仲間外れの寂しさから、救った気になっていた。

 でもそれは、私の思い上がりだったのだ。

 泣きながら去る毬ちゃんの背が、私に教えてくれていた。怒る和音ちゃんの酷い言葉が、私の間違いを責めていた。あんな怒りと悲しみを、私は四年前にも一度見ている。紺野ちゃんの血濡れの言葉が、全てを物語っていた。

 小五の私は、紺野ちゃんを助けてなんていなかった。

 『人間』だろうと『ばい菌』だろうと、紺野ちゃんは一人だった。

 仲間外れの、ままだった。

 ――――私が、そうしたのだ。

 大人しい紺野ちゃんを、派手なグループに混ぜたから。深まるばかりのあの子の孤独に、全く気づいてなかったから。孤独の汚さを祓うつもりが、新たな孤独を生んだから。私がそうした。私がやった。仲間外れのルール違反を、率先して私がやった。私は学校のルールを破ったのだ。

 私はもう綺麗な美也子じゃない。

 汚い『ばい菌』の美也子だった。

「紺野ちゃん……ごめんね、ごめんね……」

 涙ながらに、懺悔した。でも遅すぎると分かっていた。紺野ちゃんはもういない。陽一郎が教えてくれた。紺野ちゃんは事故で死んだ。あの言葉が本当なら、紺野ちゃんにはもう会えない。それに紺野ちゃん自身、死にたいとはっきり叫んでいた。

 死者に、言葉は届かない。

 私がいくら謝っても、言葉はどこにも届かない。

 でも、会いたかった。私は『ばい菌』塗れの女だけれど、会いたい気持ちは本物なのだ。だって紺野ちゃんは私をあだ名で呼んでくれた。私に涙を見せてくれた。逆に私が泣いた時は白いハンカチを差し出してくれた。それから、それから、それから。まだある。たくさんある。紺野ちゃんとの思い出が。忘れていない。ここにある。私は馬鹿な女だけれど、今だけは全部覚えている。

 最初は、『人間』じゃなかった。

 そして次に、『友達』になった。

 それから一度『他人』になって、もう一度『友達』をやり直した。

 けれど結局私達は、また『ばい菌』に戻ってしまった。

 私と紺野ちゃんの関係は、決して綺麗なものじゃない。汚いと蔑まれても、言い返せないものだと思う。

 それでも私達は、友達だった。

『人間』以下の存在でも、どんなに歪な関係でも、確かに、友達だったのだ。

「紺野ちゃん、お願い、許して、許して……」

 紺野ちゃん、ごめんね、ごめんね。もう『ばい菌』なんて言わない。『人間』初心者なんて言わないから。紺野ちゃんの時間が何歳で止まったかは知らないけれど、私は紺野ちゃんが知らない間に、十五歳になったのだ。もう臆病者の美也子じゃない。身も心も何もかも、紺野ちゃんにあげられる。

 でも紺野ちゃんは頑固者だ。自分を仲間外れにした女を、絶対に許しはしないだろう。

 それに、二度目なのだ。こうやって紺野ちゃんへ、許しを請うのは。

 夕刻の住宅街で、私と紺野ちゃんが喧嘩した日。私は紺野ちゃんへ謝ろうとしたけれど、記憶は何故か、そこでぷつっと途切れていた。どうやって家に帰ったのかも曖昧だ。ただ、次に紺野ちゃんと話したのは、それから一か月も先の事だ。

 あの時の事を、私は謝れていないのだ。

 なんて酷い女だろう。私は紺野ちゃんに恨まれても仕方がない。四年前の中庭でも、確か逃げながらそう思った。あの時抱いた罪悪感は、やっぱり真実だったのだ。紺野ちゃんが鋏を私へ向けたのは、『ばい菌』塗れの私の罪を、断罪する為だったのだ。

 ――――なのに私は、逃げてしまった。

 紺野ちゃんは、まだ誰も裁けていないのに。

 悲しい未練を残したまま、一人ぼっちで逝ってしまった。

 紺野ちゃんは、多分、きっと。

 私の事なんて、大嫌い。

 顔も、見たくないだろう。

 ――――それでも私は、謝りたかった。

 伝えたい。この気持ちを。どんなに手遅れだとしても、言葉の形で届けたい。それが叶わないならせめて、罪塗れの私へどうか、厳しい罰を与えて欲しい。ルール違反の撫子ちゃんへ天から罰が下ったように、私にも同じ罰が欲しい。

 でも、もし。私に罰が下るなら。それは神様からのものじゃなくて、紺野ちゃんの手からがいい。私は紺野ちゃんのあの鋏で、裁きを受けて死にたいのだ。

 そこまで考えた私は、これは名案かもしれないと泣きながら笑った。

 私と紺野ちゃんは、罪と罰とを絆にするのだ。なんて美しい友情だろう。良い。素敵。綺麗。私達は死に別れても、心はずっと一緒なのだ。

 紺野ちゃん。

 ごめんね。

 会いたい。

 だから。

 今度こそ、本当に今度こそあなたの手を取って、『ごめんね』が言えたら。

 紺野ちゃんは、私を許してくれるかなあ?

 それを想像したら、私は何だか、悲しいのに嬉しいような、不思議な気分になってしまった。

 紺野ちゃん。

 ねえ、私達は、本当に。

 もう、二度と会えないの?


「…………。そんな事、ないよね? 紺野ちゃん…………?」


 私はベンチから、上体を起こした。

 疲労で凝った身体は石のように固まっていて、首の辺りを血液が、どろりとゆっくり巡った気がする。頭が、とても痛かった。

 でも、悪くない気分だった。

 まるで霧が晴れたみたいに、私の視界は鮮明だ。慢性的な眠気もない。世界が変わったみたいだった。

「あははは」

 にたぁ、と口角が攣れて、唇の端がぴりっと切れた。血の味がする。一瞬、自分に嫌悪が湧いた。でも、いい。気にならなかった。

 陽一郎は、紺野ちゃんは死んだと言った。

 だから、紺野ちゃんとはもう会えない?

 私は、笑い飛ばした。

 まさか。

 そんな事、あるわけない。何故なら私達は友達だ。強い絆で繋がる二人が、たかだか生死の問題くらいで、お別れなんてするわけない。陽一郎はこの四年で、少しお馬鹿さんになったのだ。

 大体、陽一郎が紺野ちゃんを知らな過ぎる。陽一郎は紺野ちゃんに良くしてくれた方だけれど、それでも陽一郎の優しさなんて、私の愛には及ばない。今の私ほどに紺野ちゃんを想える者が、果たして他にいるだろうか?

 いない。誰も。私が一番。私こそが紺野ちゃんの理解者だ。

 だから分かるのだ。頑固者の友達が、何故私の前から消えたのか。

 思い返せば紺野ちゃんは、遊びで『鬼』役ばかりやっていた。運動の出来ない子だったから、いつも苦しそうだった。

 ううん、『苦しそう』じゃない。『苦しかった』のだ。

 紺野ちゃんは、『鬼』をやるのに疲れていた。私達の遊び方に、ずっと不満があったのだ。そうだ。そうだ。絶対そうだ。だってあの夕暮れ時の『かくれんぼ』だって、終わった途端、紺野ちゃんは泣き出した。

 可哀想に。我慢の限界だったのだ。本当は隠れる側になりたかったに違いない。紺野ちゃんはあの遊びで、とても悔しい思いをしていたのだ。


 だから、紺野ちゃんは――――私から、『隠れて』いるに違いない。


 ううん、それとも『隠れて』いるではなくて、『逃げて』いるのだろうか? うん。そうだ。紺野ちゃんは『逃げる』側になったのだ。『鬼』役ばかりで拗ねてしまって、先手を打って『逃げた』のだ。「あはははは!」と、胸を逸らし、私は高らかに笑った。

 つまりこれは、遊びのやり直しなのだ。しかももう始まっている。紺野ちゃんは先に『逃げて』、私が来るのを待っているのだ。ああ。分かる。怖いくらいに。紺野ちゃんの心が分かる。死んでしまった紺野ちゃんの、未練がはっきり見えてくる。楽しい、楽しい、楽しい――――。ぞくぞくとした興奮で、心が奔り出していく。身体はみるみる軽くなった。浮き立つ気持ちの加速に任せて、私は空へと絶叫した。


「紺野ちゃん! 私、鬼になる!」


 しんと冷たい夜の中に、私の決意が木霊する。コートがずるりと地に落ちて、ぶわりと靡いた巻き髪が、私の視界を覆っていく。それを払う暇さえ惜しんで、私は哄笑を上げ続けた。

 紺野ちゃん。鬼役、私が代わってあげる。

 いつも紺野ちゃんが鬼だったから、今度は私が鬼になる。さあ、遊ぼう。今度こそ。あなたが笑顔になる遊びは、一体どんな遊びだろう? 私は懸命に考えた。

 紺野ちゃんは、私から『逃げて』いる。

 だったらこれは、〝鬼ごっこ〟でいいんだよね?

 もしそうなら、二人だけではちょっと寂しい。もっとメンバーが必要だ。少人数では遊びがすぐに終わってしまう。長引くように、長引くように。私達の楽しい遊びが、より良いものになるように。月明かりの下、私はうっとり目を細めた。

 誰を、遊びに招待しよう?

 まず私という『鬼』が一人。

 次に、逃げる紺野ちゃん。

 私は少し考えて、「陽一郎!」と名を唱えた。

 陽一郎は紺野ちゃんの友達だ。紺野ちゃんは多分だけれど、陽一郎が好きだった。捻くれ者の紺野ちゃんは、陽一郎には笑顔を見せた。その陽一郎が遊びに混ざれば、紺野ちゃんは嬉しいはず。

 三人目は、これで決まり。でも、これではまだまだ物足りない。

 次は、だぁれ? 誰にしよう?

 私は少し考え込んで、恥じらいながら、名を告げた。

「撫子ちゃん」

 好きだ。会いたい。撫子ちゃんはルール違反の子だけれど、だからこそ皆と遊んで罪を償うべきなのだ。

 ただ、ここで一つ問題があった。

 私の記憶が確かなら、紺野ちゃんは撫子ちゃんが嫌いのはず。

 どうしようかと迷ったけれど、私は撫子ちゃんと遊びたい。紺野ちゃんには悪いけれど、私の小さな我儘一つ、どうか目を瞑って欲しい。

 じゃあ五人目はどうしよう?

 今度は、すぐに顔が浮かんだ。

 氷花ちゃんにしよう。

 あの女は許さない。私の事を気持ち悪いって言った。醜いって言った。汚いって言った。私が『鬼』のこの遊びで、『ばい菌』を被って死ねばいい。熱い怨嗟を滾らせるうち、六人目の参加者の名前と顔も、自ずと頭に浮かんできた。

 六人目は、三浦君だ。

 理由は、氷花ちゃんと同様だ。

 あの男子も許さない。中庭の事件の時も、最悪のタイミングで現れた。撫子ちゃんが怪我で動けないのをいい事に、気取った手つきで身体に触れて、私の最愛の妖精を、王子様みたいに攫っていって――――ああ、死ね、死ね、死ね。許せない。許せない。許せない。氷花ちゃん共々『ばい菌』に塗れて死ねばいい。

「氷花ちゃん、三浦君……死んじゃえ……」

 私はへらへら笑いながら、他は誰にしようと思いを馳せる。

 ミユキちゃん? 夏美ちゃん? 私のあの時の友達を、とにかく皆誘ってみる?

 駄目だ、そこまで誘うと多過ぎだ。あの辺りの友人は一人に声をかけようものなら全員呼ばないと駄目になる。一匹出たら百匹はいるっていうゴキブリみたい。女の子ってやんなっちゃう。私は頬に手を当てて、自分の想像に吹き出した。

 結構な人数が揃ってきたし、ここで打ち止めでもいいだろう。

 でもちょっと寂しい気もしたから、「うーん」と私は唸った。

 せめてあと一人か、二人。いてくれてもいい気がする。

 それに、もう一つ決まっていない事がある。

 この〝鬼ごっこ〟、どんなルールがいいだろう?

 一口に〝鬼ごっこ〟と言っても、種類は実に様々だ。ただの鬼ごっこでもいいけれど、色鬼とか高鬼とかゾンビ鬼とかたくさんある。

 紺野ちゃんとする遊びは、どんな鬼ごっこがいいだろう?

 頭を悩ませながら、私はすとんと俯いて――――運命的なタイミングで、それを見つけた。

 地面には私の携帯やコートの他に、通学鞄も落ちていた。落下の衝撃で中身がほとんどはみ出ている。筆箱からはお気に入りのシャーペンや消しゴムが零れていた。

 そんな文房具に混じって、一つ。

 ぎらり、と。

 鈍色の刀身が、月光を受けて光っていた。

「……」

 目が釘付けになった私は、やがてベンチを振り返る。


 赤いマフラーが、そこにあった。



     *



 じゃき、じゃき、じゃき、じゃき。

 一心腐乱に手を動かすと、赤い繊維が一太刀ごとに舞い飛んだ。蒲公英の綿毛みたい。案外簡単に切れるんだなあと、私はちょっと感動した。

 指が怠くなったから、適当な所でやめにした。

 ふうっと息をついてから、私はそれを、両手で吊るす。

 酷い見た目。何にも考えずに切り刻めば、こんなに簡単に汚くなる。ちょっと悲しくなったけれど、どうせこれは、毬ちゃんに受け取りを拒否された。それなら試し切りで使い捨てて、新しいのを買ってあげればいいだろう。

 そうしたら、今度は受け取ってもらえるかなあ?

 私は頬を緩めたけれど、やがて笑うのをぴたっとやめた。

 これでは試し切りというよりも、八つ当たりになってしまう。花を、私は切らなくては。あの紺野ちゃんと同じように、花を、私は切らなくては。辺りを見回すと公園の入り口付近に黄色い花を見つけたので、私はマフラーを放り捨てると、ふらりとそちらへ歩き出した。顔に笑みが、また浮かんだ。

 これからとても、忙しくなる。私が遊びに誘った子達は、あちこちの中学に散っている。それに今は受験期だから、勉強の追い上げで自主休校も有り得るだろう。迎えに行っても欠席ではあんまりだし、私は皆の家も知らないのだ。

 でも大丈夫。携帯さえあればへっちゃらだ。

 女の子の情報網が、全部私に教えてくれる。社交性は魔法なのだ。この人脈を駆使する事で、必ず全員の家と学校を突き止めて見せる。

 ――――そうだ、良いこと考えた。

 皆で遊ぶのは、受験の当日にしよう。

 絶対に誰も休まない。皆は高校に入る為に、必ず試験を受けに来る。そうと決まれば皆の志望校を調べなくちゃ。受験する高校、被ってればいいな。運動の不得手な『鬼』としては、標的は一か所に集めたい。何だかうきうきしてしまって、私は 右手を、空へ向けた。

 青色の柄を、月光に翳す。

 柄には大小二つの穴があって、小さい方には親指を、大きい方には人差し指と中指を嵌めていた。他の指は入らなかった。小学生時代の物だからサイズが小さいのだ。「ちょき、ちょき」と歌いながら、私は指をリズミカルに動かした。

 二つの刃が、ぱちんと鳴った。そこには私の顔が映っている。鏡みたい。満面の笑みと向き合いながら、私は夢見心地で呟いた。

「和音ちゃん……」

 佐々木和音ちゃん。

 私の事を、気持ち悪いと言った友達。

 和音ちゃんって本当に酷い。それに天狗になっている。クラスの苛めっ子のご機嫌取りも出来ないくせに、その不器用さを棚に上げて、自分が正しいと思っている。なんて傲慢な悪だろう。皆と仲良くしようとしない。これは重篤なルール違反だ。

 しかも、それだけじゃない。

 和音ちゃんは二か月前から、急に私を避け始めた。

 私と毬ちゃんを引き離して、近づけないよう邪魔された。

 和音ちゃんは、私を仲間外れにしたのだ。

 皆で仲良くしようとしないで、私だけを、除け者にした。

 ――――ルール違反だ。

 私が紺野ちゃんにしたのと、同じ。

「和音ちゃんは、私とおんなじだったんだね……」

 これは、嬉しい発見だった。

 私と和音ちゃんは、似た物同士だったのだ。

 紺野ちゃんは、私に仲間外れにされた。

 私は、和音ちゃんに仲間外れにされた。

 これは、同じ罪だった。同じ鋳型で作ったみたいに、姿かたちが同じ罪。私達は同じルールに違反した、同じ種類の『ばい菌』なのだ。

 仲間外れの紺野ちゃんは、人に罰を求めた時、どんな言葉を叫んでいた?

 私は紺野ちゃんの真似をして、その台詞を言ってみた。

「代わりに、言ってよ……和音ちゃん」

 こてんと、首を傾げてしまう。

 私は和音ちゃんに、何を言ってもらう気だろう?

 紺野ちゃんは周りの子が怖いから、自分の言葉を持てなかった。でも私は違う。耳障りのいい言葉を、好きなように自分で言える。そんな私が紺野ちゃんの真似をしても、肩代わりして欲しい言葉なんて見つからない。

 ううん、一個だけあった。

 私は、ぱあっと明るくなった。

「謝ってもらおう」

 決めた。

 和音ちゃんには、『代わりに』謝ってもらおう。

 私は紺野ちゃんを仲間外れにしてしまった。だからその罪を懺悔したい。

 でもそう思う一方で、やっぱり不満も残るのだ。

 だって紺野ちゃんは、私がいないと駄目な子なのに?

 あの小学生の記憶の中で、紺野ちゃんに居場所はなかった。私という友達がいたから、見た目は『人間』でいられたのだ。中身が孤独の『ばい菌』でも、体裁くらいは繕えた。それだけでも結構、私の功績って大きいんじゃないかなあ?

 和音ちゃん。私やっぱり謝りたくない。

 でも、謝りたいとも思ってるの。

 だから、謝って。和音ちゃんが。

 紺野ちゃんだって撫子ちゃんに、そんな願いを押し付けた。だから私がおんなじように求めても、絶対いいに決まってる。

 これは『罪』を『罰』で雪ぐ為に、絶対必須の儀式なのだ。

「代わりに謝ってよ……和音ちゃん、私の代わりに、謝って……」

 仲間外れになった紺野ちゃんが、私に罰を求めたように。

 私もまた和音ちゃんに、罰を求めていけばいい。

 『代わりに言え』という言葉を、復讐の始まりにすればいい。

 そう、これは復讐なのだ。私の、和音ちゃんへの復讐。

 私が和音ちゃんをこの遊びに誘うのは、元友達への復讐なのだ。

 でも私にとっては復讐だけれど、和音ちゃんの目で見るなら、きっとこれはラストチャンス。

 和音ちゃんは私と同じ『ばい菌』だ。でも私と同じ『鬼』になれば、きっと罪を償える。私は鋏を空へ掲げ、刃をちょきちょき打ち鳴らした。

 ほら和音ちゃん、こうすればいいんだよ? 私は紺野ちゃんからこうされた。紺野ちゃんに寂しい思いをさせたから、鋏を身体に向けられた。

 だから私もこうするの。和音ちゃんにこうするの。これからするの。鋏で切るの。和音ちゃんは何をされても、文句なんて言えないよ?

 だって私は『鬼』なのだから。汚れを押し付け合わないと綺麗になれない、とても罪深い『鬼』なのだから。

 でも和音ちゃんは、私と同じ『ばい菌』だ。

 私と同じという事は――――『鬼』になる、資格がある。

 私は、微笑んだ。

 いいよ、和音ちゃん。許してあげる。和音ちゃんさえ心を決めれば、『鬼』になってくれればいい。罪を償う側じゃなくて、罪を罰する側においで? もし和音ちゃんがそうするなら、私はもう恨まない。その時はまた、友達関係やり直そう?

 だから和音ちゃん、一緒に遊ぼう? 和音ちゃんは紺野ちゃんと面識がないけど、大丈夫。だって和音ちゃんと紺野ちゃんって、ちょっと似ている気がするのだ。頑固な所とか、不機嫌そうな顔付きとか。似た物同士、きっと仲良く遊べるはず。もしそれが不服なら、毬ちゃんも一緒に遊べばいい。

 うん、そうだ。そうしよう。私だって毬ちゃんと、きちんと仲直りがしたい。素晴らしい考えに私は心を弾ませながら、公園の入り口目指して歩いていく。

 紺野ちゃん、遅くなってごめんね。

 準備、できたよ? さあ、遊ぼう?

 私達の昔の遊びは、紺野ちゃんに未練を残した。

 だから、今度こそ。紺野ちゃんが楽しめるように、新たな遊びを皆でしよう。

 それに紺野ちゃんの未練って、それだけじゃないと思うのだ。

 私は、思い出していた。五年一組の死んだナデシコ。開花した花はほとんど切られていたけれど、一輪だけ、無事な花も残っていた。

 ――――氷花ちゃんの、ナデシコだ。

 紺野ちゃんは花を切った犯人だけれど、どういうわけか氷花ちゃんの花だけは、切らずにそのまま残していた。

 時間がなかったのか、それともただの切り忘れだろうか。多分後者だと私は思う。だって相手はあの氷花ちゃんだ。顔だけ見れば綺麗だけれど、中身はヘドロみたいに汚い子。あんな溝臭い女の子、紺野ちゃんだって嫌いのはず。

 紺野ちゃんは本当に、たくさんの未練を散りばめて、先に遊びに行ったのだ。

 それなら。

 その未練。私が果たしてあげる。


 紺野ちゃんが切れなかったナデシコは――――私が見つけて、切ってあげる。


 紺野ちゃんに出来ないなら、代わりに私がやってあげる。あなたの果たせなかった未練、私が全部果たしてあげる。私が全部やってあげる。出来ない紺野ちゃんの代わりに、私が上手くやってあげる。

 その時私の脳裏には、天啓のようにある名案が閃いた。

 氷花ちゃんの存在が、紺野ちゃんの、未練。

 氷花ちゃん。変わった名前の女の子。氷の花で、氷花ちゃん。


 氷。


 喜びで、唇が震えた。

 やっと決まった。これしかない。鬼の名のつく遊びの中で、これを越えるものはない。この高揚を言葉にしようと、私は口を開きかけた。

 そこで、一瞬はっとした。

 これから私の言う台詞は、過去に既に言っている。

 これは、あの日出来なかった〝はないちもんめ〟の台詞だった。

 心に決めた女の子の名を、遊びのメンバーへ明かす言葉。

 一瞬符号に気づきながら、それを早くも忘れかけて――――私は照れ笑いを浮かべながら、遊びの開始を、宣言した。


「――――決ーまった!」


 紺野ちゃん。遊びましょ。

 陽一郎。遊びましょ。

 撫子ちゃん。遊びましょ。

 氷花ちゃん。遊びましょ。

 三浦君。遊びましょ。

 毬ちゃん。遊びましょ。

 和音ちゃん。遊びましょ。

 遊びましょ。遊びましょ。遊びましょ。あそびましょ。あそびましょ。アソビましょ。〝アソビ〟ましょ――――。


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