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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 38

「遅いよ……。今更、グループ変わるなんて。できないよ」

 鋏を鳴らす紺野ちゃんが、撫子ちゃんに近づいた。撫子ちゃんはびくっと震えたけれど、果敢にも立ち上がって「できなくなんて、ない」と言った。

 でも声はそこで悲鳴に変わった。

 紺野ちゃんが撫子ちゃんへ、鋏を大きく振るったのだ。

 肩を強打されて、撫子ちゃんがふらつく。「ひっ」と叫ぶ私の耳に、声が、すかんと突き抜けた。

「できないよ!」

 目を、大きく見開いた。

「どうして! 遅いよ! そんなのどうやって言えばいいのっ? 分かんないよ! 抜けたいなんて言えない! 無理だよ、言えないよ、できないよ! ……代わりに、言ってよ、代わりに言ってよ、代わりに言ってよ、代わりに言ってよ! 助けてくれるなら、全部! 私の代わりに皆に言ってよ! 言いたくないよ、言えないよ、私じゃ、何にも、言えないよ……!」

 私は茫然と、その怒声を身体に受けた。

 絶叫、だった。

 とても、大きな声だった。

 紺野ちゃんは泣いていた。大粒の涙を流しながら、鋏をきつく握っていた。握る力が強すぎて、指の関節が白く見える。歯を食いしばった紺野ちゃんは、「できないよ!」とまた叫んだ。獣みたいな声だった。私は、すごく怖くなった。

 だって紺野ちゃんは、大人しい子のはずなのだ。人付き合いが苦手で私がいないと何もできない、とても弱い子のはずなのだ。

 でも、目の前の子は違った。喋っていた。怒鳴っていた。荒々しく狂暴に、死にもの狂いで叫んでいた。私の知らない紺野ちゃんが、今目の前に立っていた。立って、何かと戦っていた。私はやっぱり怖くなった。

「嘘だよね、紺野ちゃん、嘘だよね……?」

 震え声で、私は言った。

 だって紺野ちゃんは、明らかに――――私達を、責めていた。

 これではまるで、紺野ちゃんは私達と一緒にいるのが嫌で、辛くて、死にたいって言ってるようなものだった。

 違う。有り得ない。私はがむしゃらに首を振った。私達は友達なのだ。紺野ちゃんは『ばい菌』から『人間』になれて、私はそんな紺野ちゃんと一緒にいられて、皆幸せだったはずなのだ。

 そこまで考えて、ひやりと背筋が冷たくなった。

 本当に?

 本当に幸せだった?

 私は紺野ちゃんと友達になれて、本当に幸せだった?

 ――――私達は、どうやって、友達になったんだっけ?

 頭の中で、たくさんの映像が渦巻いた。写真をシャッフルしたみたいに、色と声とがぐるぐる回る。遠くの席の紺野ちゃん。紺野ちゃんを無視する皆。ばい菌ごっこ。記憶喪失。最初の出逢いはどっちだった? 遊びの記憶が溢れてぶつかり、頭痛となって私を襲う。やめて、やめて。頭を抱えて私は呻いた。このまま考え続けたら、私はおかしくなってしまう。

 とにかく。

 これは、違う。絶対に違うのだ。

 紺野ちゃんが何を言っても、私は全然関係ない。紺野ちゃんがどんなに辛かったのだとしても、それは私の所為じゃない。

 だから紺野ちゃん、もうやめて。嘘は駄目だ。ルール違反だ。そんな言葉を言い続ければ、身体が孤独で『汚れて』しまう。学校にいられなくなってしまう。

 だから、やめて、やめて、やめて、やめて――――。

 でも紺野ちゃんはやめなかった。

 私の心を砕くように、血染めの叫びを上げ続けた。

「できないよ、怖いよ、言えないよ、抜けたいなんて言えないよ、やだ、もう学校なんて来たくない、死にたい、死にたいよお、もうやだあぁ、やだあああ、あああぁぁ……!」

 決死の声は次第に涙で潰れていって、聞き取りにくくなっていった。私もいつしか泣きながら、耳を塞ぎ続けていた。

 すると押さえた指の隙間から、優しい声が、滑り込んだ。


「できる」


 私は、泣き濡れた顔を上げた。

 ……撫子ちゃんだ。

 顔色は、さっきよりも青い。肩を手で抑えながら、荒い息を宥めている。きっと紺野ちゃんが怖いのだ。今の私とおんなじで、撫子ちゃんだって怖いのだ。

 でも瞳だけは、恐怖に屈していなかった。

 真っ直ぐ前を見据える目に、悲壮な覚悟が光っている。

 ――――まだ、諦めていないのだ。

「大丈夫。できる。もう、言ってるから、安心して。私の、友達も……皆、いい、って、言ってくれたから」

 紺野ちゃんが、はっと黙った。

 撫子ちゃんは腕を広げて、紺野ちゃんへ近づいた。

 何もしないという意思を、身体全体で示すように。

「紺野さん、皆、いいって言ってくれたの。私だけじゃなくて、私が一緒にいる子も……一緒にいようって、言ってる。紺野さんと、話したいって。仲よくしたいって……皆、今までずっと、他の子の目とか、気にして……言いにくかった、だけなの。それに、先生も。紺野さんの事、気にかけてる。もう皆、分かってるから、紺野さんの事、心配してるから、だから、言うだけなの。紺野さんが、こっちに来たいって、言ってくれたら、それだけで……、紺野さん、お願い。お返事、して。私の話、信じて」

「信じない!」

 紺野ちゃんは、最後まで聞かなかった。

 もう一度鋏が振り回され、気付いた撫子ちゃんは今度は避けた。栗色の髪の先端だけを、さっと刃物が掠めていく。私は息を呑んだけれど、ほっと胸を撫で下ろした。

 ――――よかった。避けてくれた。

 でも、そこで終わらなかった。

 紺野ちゃんは、信じられない暴挙に出た。

 鋏を持っていない方の手で、撫子ちゃんのツインテールを片方、ぐんと強く引いたのだ。

 髪がぶちぶちと引き千切られて、高くて長い悲鳴が上がる。あまりに壮絶な事態を前に、私は腰を抜かして震え上がった。

 紺野ちゃんはそんなにも――――撫子ちゃんが憎かったの?

「紺野さん、お願い、話、聞いて」

「聞かないっ!」

 撫子ちゃんの哀願を無視して、紺野ちゃんは鋏を振り上げた。

 顔に刃先を向けられて、撫子ちゃんの目に涙と悲しみが薄く浮かぶ。

 その顔のまま撫子ちゃんは、紺野ちゃんを突き飛ばした。

 二人はもつれ合うように転び、先に起き上がったのは撫子ちゃんの方だった。手負いの蝶が羽ばたくように、弱々しく走り出す。

 すぐに紺野ちゃんも起き上がり、「逃がさない」と恐ろしい声で叫んだ。鋏をじゃきりと鳴らしながら、撫子ちゃんを追い掛けていく。

 死の鬼ごっこを始めた二人を、私は見送る事しかできなかった。

 まだ、立てないままだった。

「撫子ちゃん、逃げて、逃げて、逃げて……!」

 私は涙ながらに訴えて、目の前の光景に戦慄した。

 撫子ちゃんは見る間に追い詰められて、校舎の壁際で立ち往生していたのだ。

 中庭の隅、青色の影の中。掃除用具ロッカーがあるだけの狭い空間で震える撫子ちゃんに、じりじりと紺野ちゃんが近寄っていく。怖いくらいにゆっくりだった。もう捕まえたとでも言わんばかりに、見る者の恐怖を煽ってくる。優位に立った人間が、獲物に迫る動きだった。

 逃げられない。

 袋小路だ。

「紺野ちゃん、やめて……!」

 掠れた声で、私は叫んだ。

 止めなくちゃ。紺野ちゃんを。立ち上がろうと頑張ったけれど、足はすっかり萎えきっていて、自分のものじゃないみたいだ。でもこのままでは駄目なのだ。撫子ちゃんが危ない。鬼のような紺野ちゃんに、鋏で苛め殺される。撫子ちゃんの綺麗な身体が、どんどんぼろぼろになってしまう。紺野ちゃんの手にかかって、みるみる『汚く』なってしまう。

 ……あ。

 ――――『汚く』、なる。

 私の脳の辺りが突然、ぐらんと大きく揺れた。

 自分でもびっくりするほど、意識がどろりと重くなる。けれど芯の部分は変にクリアで、妙に冴えた意識のまま、私は撫子ちゃんの姿を見た。

 ほつれた髪。赤く上気した頬。首には汗の玉が光っている。着衣は砂で茶色いし、腕も膝も掠り傷だらけ。それから、ほら、さっき紺野ちゃんが、肩と手の甲を、鋏で掻いて――――。ひくっと私の顔が、変な感じに痙攣した。

 ……紺野ちゃんが、やったのだ。

 全部、紺野ちゃんがやったのだ。

 真っ白で綺麗な妖精の身体を、こんな風に、ぐちゃぐちゃにした。


 殺意が、湧いた。


 紺野ちゃんが、撫子ちゃんを汚した。綺麗な妖精をこんなにした。紺野ちゃんが、紺野ちゃんが、紺野ちゃんが、紺野ちゃんが。胸の内が、どろどろと熱く煮立っていく。心を赤く眩ませながら、私は淡々と理解した。

 やっぱりこの紺野ちゃんは異常なのだ。友達に刃物を向けるなんて、学校のルールに違反している。『人間』のする事じゃない。ううん、もう『人間』じゃないのだ。

 『人間』じゃなかったら何なの?

 分からない。でも、だけど、多分。

 この子は、『ばい菌』に戻ったのだ――――。

 最悪の事実を知った、まさにそのタイミングだった。

 ぶつっ、とノイズの弾ける音が、校舎の中から聞こえてきたのは。

「え?」

 私は、ぽかんと驚いた。

 目の前でシャボン玉を割られたみたいに、ぱちんと音が頭で爆ぜる。騙し討ちを食らった私は、さっきまでの考え事を、夢のように忘れてしまった。

 そしてすぐに、はっとした。

 今のノイズは、校内アナウンスだ。放送で誰かを呼び出している。五年一組と聞こえた気がして、あっと私は口を押さえた。

 ――――私達を、呼び出しているのだ。

 昼休みが終わったのに、教室に戻って来ないから。

 撫子ちゃん達も放送に気付いたのか、ばっと校舎を振り仰いでいる。私達三人の時間が、この瞬間、平等に静止した。

 真っ先に動いたのは撫子ちゃんだった。

 籠から鳥が飛び立つように、するりと身軽に走っていく。

 驚いたのは紺野ちゃんだ。自分のすぐ傍を白い妖精に横切られて、焦ったような顔になる。暗い瞳に光が戻り、いつもの紺野ちゃんに戻った気がした。

 その顔のまま紺野ちゃんは、撫子ちゃんを追おうとして――――そこでゲームセットだった。

 紺野ちゃんは足をもつれさせて、身体をロッカーにぶつけてしまった。

 横からの衝撃にロッカーが傾いで、揺れる。今まで見た事がないくらいに、不安定な揺れ方だった。私は、今更のように気付いた。

「あ……!」

 血の気が、引いた。

 この、掃除用具入れは。

 歪な形。直立していたのが不思議なほどだ。それに年季を感じる赤い錆。学校に蔓延る『ばい菌』の具現のような汚さが、振り子のように揺れている。

 やがてロッカーは、最初傾いた向きとは真逆の方へ――――紺野ちゃんの方へ、倒れてきた。

 紺野ちゃんが、息を吸い込む。

 動けないで固まる姿に、私は悲鳴を上げた。

 ――――倒れる!

「紺野さん!」

 金色の輝きが、閃光のように走った。

 髪だ。栗色の。解けた髪が陽光を弾いている。駆け戻ってきた妖精が紺野ちゃんに体当たりする姿を、私は他人事のように眺め、蒼ざめた。

「撫子ちゃん……!」

 耳がおかしくなるような音が、中庭いっぱいに響き渡った。

 砂埃が舞い、粉塵が薄くけぶる。

 横向きになったロッカーの下に、私は、栗色の髪と、白くて細い腕を見た。

「――――嫌あああぁぁ!」

 金切り声が、迸った。

 立ち上がり、自分の髪を無茶苦茶に掴みながら、私は壊れたみたいに叫び続けた。

 どうしようどうしよう、大変な事になってしまった。

 どうなっているのだろう? 顔が見えない。無事かどうか分からない。でも下敷きになったのだ。無事なわけがなかった。

 早く助けなくちゃ。撫子ちゃんが死んじゃう。あのロッカーを退かして。ううん、それより先に、先生を呼ばなくちゃ。私は激しく動揺した。

 でも、動けなかった。

 大好きな撫子ちゃんの危機なのに、私は一歩も動けなかった。

 …………怖かったからだ。

 だって私は、見てしまった。

 ロッカーの下から覗く、撫子ちゃんの白い腕は――――赤茶の錆で、汚れていた。


 ――――『汚い』。


 じゃり、と靴が砂を踏む音がして、私はぎくりと口を押さえる。

 おそるおそる振り返ると、ぎょろりと淀んだ黒い目が、私の姿を捉えていた。

 本物の恐怖が、私の全身を貫いた。

「紺野ちゃん……」

 紺野ちゃんは返事をせずに、鋏を一度しゃきんと慣らした。

 その刃先には、緑の汁と白い花弁。

 まるで人の血肉のように、べたりとこびり付いている。

 私はついに、理解した。

 花を切った、犯人を。

「紺野ちゃん……お花、切ったの、紺野ちゃんなの……?」

「……」

「撫子ちゃんの、花も……?」

 言いながら私は鉢植えを見下ろし、ふと気が付いて「あれ?」と言った。

 さっきは全滅だと思ったけれど、よく見たら違ったのだ。

 生き残った、花もあった。

「氷花ちゃん、の……?」

 足元の鉢植えには『呉野氷花』と、綺麗な字で書かれてある。その鉢の中でナデシコの花は、ふわふわ愛らしく揺れていた。

 ……無事だったのだ。氷花ちゃんの、ナデシコだけは。

 放心して呟くと、紺野ちゃんは後ろめたそうに目を逸らした。

 私は戸惑ったけれど、ああ、やっぱりと悲しくなった。

「紺野ちゃん、どうして……?」

「……」

「どうして、お花切ったの……? 紺野ちゃん、いけない事だよ? 皆のお花、切るなんて……皆、悲しむよ? ねえっ、皆が悲しんじゃうよっ?」

 私はゆっくりと諭すように、でも段々と熱っぽい早口で訴えた。

 だってこれはルール違反だ。皆を悲しませてしまう。嫌われてしまう。身体が『汚れる』、居場所がなくなる。学校から排除される。疎外される。苛められる。私の視界の隅っこには、倒れたままの撫子ちゃん。まだ腕が見えている。汚れきった白い腕が。その汚さがちかちかして、悪寒が背筋を駆け抜けた。

 あれは、まさに見本だった。

 撫子ちゃんは、罪を犯した。

 楽しい〝はないちもんめ〟を台無しにして、紺野ちゃんを攫いかけた。

 その結果が、これなのだ。

 罪には罰が返ってくる。ルールを違反したのなら、相応の罰が下るのだ。

 私達も、こうなる。一歩道を踏み外せば、同じ末路を辿ってしまう。身体中に『ばい菌』が湧いて、皆には指をさされて笑われて、耐えられない地獄の日々に、魂が叩き落とされる。私は激しく息を吸って、怪しい呂律で捲し立てた。

「紺野ちゃん、駄目。駄目なんだよっ? こんな事したらっ! 皆に怒られちゃう、汚れちゃう、『ばい菌』がついちゃう、それってすっごく怖い事なんだよ……っ? 紺野ちゃんは、それでいいのっ!?」

「……どうでもいい」

「え?」

「……誰が悲しむとか、そんなの、知らない。だって」

 紺野ちゃんは言って、私の目をひたと見た。

 暗くて、悲しい顔だった。

「誰も、私のことなんて。好きじゃないから」

「……答えに、なってないよ……紺野ちゃん……」

 私は、泣き笑いの顔になった。

 分かっている。笑っている場合じゃない。でもあんまり寂し過ぎるから、そんな顔になってしまう。

 それに、私が笑顔を見せたなら。紺野ちゃんも笑ってくれる気がしたのだ。

 変だと思う。この紺野ちゃんはもう私の知ってる紺野ちゃんじゃないのに。『ばい菌』に戻った子なのに。私の頭は漠然とだけど、その事実を悟っていた。

 それでも私は、奇跡を願った。

 私が笑って、もし紺野ちゃんも笑ってくれたなら。紺野ちゃんは『人間』だった頃の事を、きっと思い出してくれるはず。そんな希望を携えて、私は歪に笑い続けた。

 でも、神様は非情だ。ルール違反をした子には、欠片の慈悲もかけてくれない。

 奇跡は、起こらなかった。

 笑わない紺野ちゃんは、私にこんな事を言ったのだ。

「みいちゃんは、嘘つき」

「え?」

「みいちゃんだって、私のこと。ぜんぜん、好きじゃ、ないくせに」

「そんな……っ」

 私は、否定しようとした。

 でも、出なかった。否定の言葉は、何も。それが自分でもすごくショックで、気付けば私の口は、全然違う事を訊いていた。

「……だから、お花切ったの? 寂しいから? 悲しいから? それだけで?」

「……」

「……まさか、えっと。私の所為、とか?」

 冗談めかして、私は無理やり笑った。

 どうか、否定してほしい。最後の願いを込めて、言った。

 でも、やっぱり返事はもらえなかった。

 せめて、何か言ってくれたらいいのに。さっきみたいな突き放した声でもいい。何でもいいと、思ったのに。そこまで私は願ったのに。

 紺野ちゃんは、最後まで無言だった。

 表情のない頬を、涙が一筋だけ滑っていった。

「紺野ちゃん……」

 打ちひしがれた私は、縋るように紺野ちゃんを呼んだ。

 紺野ちゃんは、鋏をすうと持ち上げた。

 地に水平に持たれた鋏。その刃先はぴたりと私を指している。

 この瞬間の紺野ちゃんの顔は、長めの前髪が邪魔な所為で、やっぱり表情が分からなかった。

 でも、何かを言いかけた口元が、何だか笑っているように見えてしまい――――私はくるんと後ろを向いて、一目散に逃げ出した。

 怖い。恐ろしい。心がもう限界だった。

 でも、どうして?

 どうして、こんな事になっちゃったの?

 どうして私は、友達から必死に逃げているの?

 どうして紺野ちゃんは、私に鋏を向けているの?

 私達は、どこで、何を、間違えてしまったの?

「違うもん」

 走りながら、私は涙声で絶叫した。

「違うもん、私の所為じゃないもん……紺野ちゃんが、悪いんだもん……私の所為じゃ、ないんだもん……!」

 私の所為じゃない。私の所為じゃない。呪文のように繰り返した。

 だって私は、紺野ちゃんを救ったはずだ。私は紺野ちゃんを『人間』にしてあげた。汚い『ばい菌』を清めてあげた。恨まれる理由なんて一つもない。そんなもの、あるわけがないのだ。

 でも、私は気付いていた。

 私は紺野ちゃんに、恨まれても仕方がない。それが何故なのか思い出せないのに、私の心の部分は先に、自分の罪を認めていた。

 ケヤキの間を縫って走ると、すぐに疲れて手近な木陰へ屈み込んだ。傍には校舎の壁があって、一際影の暗い一角。私は必死になって息を殺した。でも呼吸は乱れ切っていて、抑え込むのは無理だった。

 それに、絶対逃げられない。

 逃げては、いけない気がするのだ。

 紺野ちゃんは、私を鋏で刺すだろう。撫子ちゃんにそうしたように。

 私はその痛みを、逃げずに引き受けなくてはならないのだ。そんな義務感が私の身体を、ここに縛って繋ぐのだ。

 最初から、無謀なかくれんぼだと分かっていた。

 悪足掻きのように逃げた私は、すぐに紺野ちゃんに見つかった。

「……みいちゃん」

 少し離れた所で、足音が止まる。

 ぽつんと名前を寂しく呼ばれて、私は顔を、そっと上げた。

 陽光が眩しい。紺野ちゃんの黒髪が白く光って見える。風が、前髪を吹き飛ばした。露わになった表情は、何だか虚ろなものだった。

 誰もいない中庭で、私達は見つめ合った。

 紺野ちゃんに裁かれるのを待つ私と、私を裁きに来た紺野ちゃん。

 友達だったはずなのに、いつの間にかおかしな関係になってしまった私達。

 でも、どうしてだろう。

 今ほどに互いの事を、見つめ合った事はない気がした。

 私達はこんな関係になって初めて、本当に心の底から、互いを想い合えた気がしたのだ。

 でもそれは、この時が最後だった。

 紺野ちゃんは暗い眼球をぎょろりと向けて、タイルを蹴って駆け出した。

 ああ、刺されたら痛いかな。熱い痛みを想像して、私はぎゅっと目を閉じた。

 でもいくら待っても、覚悟した痛みが来ない。

 不審に感じて目を開くと、意外な光景が、そこにあった。

「あれ……?」

 紺野ちゃんは、私に背を向けて走っていたのだ。

 校舎の壁伝いに角を曲がり、姿が見えなくなっていく。

 ――――逃げた?

 茫然としたけれど、すぐに私はその理由を察した。

 ――――背後から、足音が聞こえてきたのだ。

 足音は複数だった。見れば遠くの方で、中庭と校舎を繋ぐ扉の辺を数人の男子がうろうろしている。一人一人の顔を見て、私は声を上げかけた。

 ……クラスメイトの、男子達だ。

 皆は何かを言い合っていて、うち一人は肌が浅黒い。よく日に焼けた肌だった。少し焦ったみたいな怒り顔で、辺りをぐるりと見回している。何かを探しているようだった。

 やがてクラスメイト達は、廊下を散り散りに走っていった。

 日焼けの男の子だけが、その場に残った。

 そして何を思ったのか、中庭へ繋がる扉を押し開けて、こっちへ来たので目を剥いた。

 なんで? どうして? まごつきながら、私は木陰で縮こまる。この男子には見つかりたくなかったのだ。嫌いだと、何故だか思う自分がいた。

 男の子は私に気付かないまま木陰を通過した。肩の力が抜けた私は、中庭の果てへ目を凝らす。そこにはもう誰もいない。紺野ちゃんは逃げ切ったのだ。さっきまでここで鋏を振るっていた存在に気付く事なく、男の子は走っていく。

 でも、横倒しのロッカーには気付いた。

 はっと息を吸い込む声が、私の方まで聞こえて来た。

「雨宮!」

 男の子はロッカーの前へ滑り込むと、錆びだらけのロッカーに手をかけた。それを俵でも投げるように前方へ押し退けると、がしゃん、と思ったよりずっと軽い音が、私の耳朶を打った。

「雨宮! おい! 雨宮!」

 乱暴に呼び掛けながら、武骨な手が撫子ちゃんの白いブラウスを掴む。

 ううん、違う。白いブラウスじゃない。一度は引いた鳥肌が、ぞわっと私の肌を覆っていった。

 ……白かった、ブラウスだ。

 今や撫子ちゃんの全身は、血と錆でドロドロだった。

 青白い、けれど汚れきった腕がぴくんと動く。

 閉じられていた瞼がゆっくり開き、倒れたままの撫子ちゃんが、男の子に気付いた。

「……みう、ら、く、ん」

「大丈夫か! おい、何でこんな事になってんだっ?」

 三浦君と呼ばれた男の子は、慌てた様子で撫子ちゃんを見下ろす。

 顔色が、さっと変わっていった。

「保健室行くぞ。立てるか?」

 撫子ちゃんが、口をはくはくと動かした。声がほとんど出せていない。三浦君の顔に焦りが浮かび、大きな手の平がもう一度、撫子ちゃんの身体に伸びた。

 けれど三浦君はその手を、躊躇うようにぎゅっと丸めた。

「先生、呼んでくる」

 そう言い残して腰を上げ、走り出そうとする。

「……倒れて、きたの」

 三浦君が、足を止めた。

「歩いてたら、ロッカー、倒れて、きて……それだけ、なの」

「……」

 三浦君が、戻ってきた。

 撫子ちゃんの上体を抱え起こし、膝の下に手を入れる。

 身じろぎした撫子ちゃんが、「やめて」と言って、抵抗した。

「重いよ」

「雨宮くらい、重くない」

「汚れ、ちゃ」

 三浦君は、もう返事をしなかった。

 撫子ちゃんを抱えて立ち上がると、タイルに散らばる花には目もくれずに、校舎へ繋がる扉の向こうへ、二人揃って消えていった。

 私は一人、ゆらりと立ち上がった。

「あはは」

 もう、笑うしかなかった。

 紺野ちゃんは『ばい菌』に戻って、その紺野ちゃんに撫子ちゃんが汚された。

 その身体の汚さに、怖気づいてしまったから……攫われてしまったのだ。

 私が恐れた汚さなんて、ものともしない男の子に。

 私には、何にも残らなかった。本当に、何にも、残らなかった。

 紺野ちゃんの事を、私は思った。

 これから紺野ちゃんはどうやって、ここで生きていくのだろう?

 でも私は分かっている。人の心配をしている場合じゃない。

 これから私はどうやって、ここで生きればいいのだろう?

 分かったのだ。こうなってしまって初めて。私が撫子ちゃんを想うあまりに、犠牲にしたかもしれないものが。

 急に、それらが怖くなった。さっき〝はないちもんめ〟で遊んだ時の、皆の眼差しが蘇る。投げやりな態度。硬く強張った顔。倦厭。ミユキちゃんは、夏美ちゃんは、撫子ちゃんの友達は、皆は、私の事を、一体どう思っているのだろう?

 一人ぼっちの私の背に、ぬるい風が吹き付ける。

 夏の風だ。まだ夏なのだ。

 これから訪れる秋と冬と、そして巡る次の春を、私はどうやって生きればいい?

誰にともなく、私は訊いた。

 そして、そんな問いかけに応えるように――――その人物は、現れた。

 最初に聞こえたのは、またしても足音だった。今度は一人分。こつこつこつ、と単調に、無人の中庭へ音が響く。

 さっき三浦君が現れたのと、全く同じ方角だ。

 クラスの男子だと思った私は、怠惰に後ろを振り向いた。

 そして、とても驚いた。

 そこにいたのは、確かにクラスメイトだった。

 でも、男の子ではなかった。

 ゆっくりとした足取り。清楚なブラウスに藤色のスカートを合わせている。雰囲気が大人っぽいのは、長い黒髪が綺麗だから? 私は目を奪われながら、最近友達になったばかりの、その女の子の名を呼んだ。

「氷花、ちゃん……?」

 呉野氷花ちゃんだった。

 驚く私をじろじろと眺め回して、何故か楽しげに笑っている。私は何だかぞっとした。

 ――――とても、悪い顔に見えたのだ。

「ふぅん。やらかしてくれたってわけね。でもねえ、あんた達って最悪だわ。どうして授業中なわけ? 私、学校の授業はとっても真面目に受けてるの。貴女だって知ってるでしょ? だからこういう事されたら困るのよね、お馬鹿なみいちゃん。狂うなら、私の目が届く時にしてくれなくちゃ」

「え……?」

「ま、最近の紺野さんの様子見てたら、何したかは想像付くからいいけどね。でもまさか、こんなに派手にやるなんてね。根暗な子を壊すのって面白いわ。溜め込んでる分、やる事がえげつないもの」

 何? 何の話をしてるの?

 私は混乱したけれど、その単語だけは、執念で聞き取った。

「……ばか? 氷花ちゃん、今、馬鹿って言った?」

 氷花ちゃんは、にやりと笑うだけだった。

 私の心から、急速に余裕がなくなっていく。心を見られた気がしたのだ。

 すると徐に氷花ちゃんが、私の後ろをひょいと覗き込んだ。

 私はたちまち、蒼白になった。

「ち、違うの。氷花ちゃん、違うの、私の所為じゃないの、紺野ちゃんが全部やったの」

 どうしよう、見られた。背後に散らばった花達を。誤解されちゃう。氷花ちゃんに。紺野ちゃんの暗い顔が、まだ網膜に焼き付いていた。私の所為かと訊ねた時に、一筋だけ流れた涙。

 違う。違う。私じゃない。でも氷花ちゃんに見られてしまった。

 誤解されちゃう、誤解されちゃう、誤解されちゃう――――。

「だって、だって、おかしいでしょ? 紺野ちゃんってひどいんだよ? 私達と一緒にいるの嫌みたいな事言うんだよ? それでね、それでね、撫子ちゃんに意地悪したり、酷い事言ったりしてて、でもそれって紺野ちゃんが悪いんだよ? だってあの子はルール違反をしたんだもん、友達にひどい事したんだもん、私、ひどいこと言われたもん、撫子ちゃんだって、今、ひどい事されてるもん……!」

 私は無実を訴えた。そうだ、全部紺野ちゃんの所為なのだ。花が切られたのも撫子ちゃんが辛い目に遭ったのも私が今こんなに悲しくて焦っているのも、全部紺野ちゃんの所為なのだ。

「私、紺野ちゃんが仲間外れになんないように、すっごく頑張ったんだよ? なのに紺野ちゃんってばひどい、花を切ったんだよ? 私達の! あんなに大事に育ててたのに! ねえっだから氷花ちゃん、私じゃないよ? お花切ったのは私じゃないよ? 紺野ちゃんが学校のルールを守らないのが悪いんだもん! ルールはっ、守らないと駄目なんだよっ? だから、だから、だからっ!」

「だから、紺野さんが全部悪い。……貴女は、そう主張するのね?」

 氷花ちゃんは静かな口調で、私の言葉を引き取った。

 私は、顔を綻ばせた。

 そう、それが言いたかった。氷花ちゃんって頭いい。私の心が分かるのだ。

 でもそんな嬉しさは、次の言葉で絶望に変わった。

「貴女、人の所為にしてばかりね」

「え?」

「みいちゃん。私、あんたの突き抜けた所、嫌いじゃないのよ? あんた程自分に正直な人ってなかなかいないもの。あんたとの友達付き合い、まあまあ楽しかったわ。……でもね。やっぱり私、貴女の事が嫌いだわ」

「ど、どうし、て」

「だって貴女、肝心なところで半端だもの」

 氷花ちゃんは退屈そうに鼻を鳴らし、気付いた私は動揺した。

 もう氷花ちゃんは笑ってなくて、不機嫌な顔になっていた。

「貴女の悪意は半端なのよ。全部人の所為にしてばっかり。いいこと? みいちゃん。悪者はね、悪い事をなーんでもやっていいのよ? それが当然の権利なの。だから自分のやった事に言い訳なんてしないのよ。大体、醜いでしょう? そんな不細工な事、ゴミのやる事だわ。……だから、ね? みいちゃん。私は貴女が嫌いなの。だって美しくないんだもの。どこまでも汚い女、風見美也子。言い訳する貴女って本当に気持ち悪いわね。最初は面白いと思ったけれど、もう目障りよ。邪魔だから、さっさと消えてちょうだいな」

 氷花ちゃんは長い台詞を吐き切ると、蔑みの目で私を見た。

 そして言うだけ言うと、背中を向けて去ろうとする。

 まるで飽きた玩具を捨てるように、私を顧みようとしない。

「ま、待って、氷花ちゃん」

 私は、必死に追い縋った。

 氷花ちゃんの言葉は大人びていて、それに難しい言葉でいっぱいだった。

 でも、分かる言葉もたくさんあった。

 ――――気持ち悪いって、言った。

 氷花ちゃんが、私を、気持ち悪いって言った。醜いって言った。汚いって言った――――。

 かっ、と頭が熱を持って、私は顔を跳ね上げると、猛然と氷花ちゃんを追い始めた。

 氷花ちゃん、待って、待って。今の台詞はすごく酷い。どんどん腹が立ってきて、私は涙を溢れさせた。

 私は気持ち悪くない、醜くない、汚くない。この身体のどこを見ても、『ばい菌』なんてもうないのだ。おかしいのは氷花ちゃんだ。友達にそんな酷い事を言うなんてルール違反だ。もうルール違反だらけだった。

 私の喉の奥の方から、獣のような声が出た。さっきの紺野ちゃんみたいだった。

 唾を飛ばし、滂沱の涙を流しながら、私は氷花ちゃんの背に迫った。

 氷花ちゃんは、涼しい顔で振り向いた。

 切れ長の目を、冷淡に細める。

 そしてたった一言、吐き捨てた。

 この時言われた、台詞こそが――――私の十一歳の夏の記憶の、ラストを飾った言葉だった。




「――――『見苦しいキチガイね』」




 ぷつん、と糸が切れたように、私の意識が緩んでいった。

 身体が、ゆらりと倒れていく。タイルの上には死んだナデシコの花の群れ。その只中へと落ちながら、私の顔には場違いにも、ふんわりとした笑みが乗った。


 ああ、やっと死ねるのかな。


 さっきまであんなに辛くて悲しくて、怒っていたはずなのに。

 不思議と、穏やかな気分だった。



     *



「……それでね、それでね、えっと、休み時間が来る度にね、私はあの子とはいっぱいお話したんだよ? 内容はね、えっと、忘れちゃったけど。でもでも、友達だもん。いっぱいお話したんだよ? ほんとだよ? 私、嘘なんて吐かないよ? 恥ずかしがり屋さんだから、あんまり笑ってくれない子だったけど。私はその子の事が、だーい好きなの!」

 私は、上機嫌で話をした。

 友達の話を聞かせて欲しいと、頼まれたから話したのだ。

 最近はお父さんもお母さんも、私の話を聞いてくれない。だからすごく寂しかった。話を聞いてくれるのなら、相手は誰でも構わなかった。

「その子は、恥ずかしがり屋さんなんだ?」

「そうなの、私がいないと駄目なの」

 私の目の前には、大人が一人座っている。白いお洋服を着た男の人だ。白衣って言うんだと思う。きっと中学校に入ったら、理科の先生が着る服だ。

 白くて狭いお部屋には、私と男の人しかいない。日当たりのいい屋は何だかとっても気持ち良い。清々しいって、こんな気持ちを言うのかな。重い荷物を降ろしたみたいに、身体もすごく軽やかだ。

「……美也子ちゃんは、そのお友達と、どんな遊びをしたのかな?」

 白い男の人が、私に訊ねた。

 私はぱあっと明るくなって、「鬼ごっこ!」と答えた。

「他にもあるよ? 鬼ごっこっていっぱい種類あるでしょ? 色鬼とか、えーと、氷鬼とか!」

 そこで私は、首を傾げた。

 氷鬼。

 ……氷?

 その単語が、妙に引っかかった。

 ふっ、と脳裏を、長い黒髪が靡いた気がする。

 その漢字を名前に持った、女の子が一人いた気がした。

 黙る私を、白い男の人は急かさなかった。柔和な笑顔を浮かべたまま、じっと待ってくれている。何て優しい人だろう。私はじいんとしてしまった。

「えーっと、忘れちゃった。でもね、友達いっぱいいたよ? 皆でね、仲良く遊んでね……それでね、それでね、えっと、休み時間が来る度にね、私はあの子とはいっぱいお話したんだよ? 内容はね、えっと、忘れちゃったけど。でもでも、友達だもん。いっぱいお話したんだよ? ほんとだよ? 私、嘘なんて吐かないよ? 嘘なんて、吐かないよ……?」

 白い男の人は優しい顔で、うん、うん、と相槌を打つ。時々机の上の白い紙に、何かメモを取っている。内容が気になったけれど、それよりもっと話していたい。私は楽しく喋り続けた。

 やがてそのお喋りが終わって部屋を出ると、くすんだ色味の待合室には、私のお父さんとお母さんが、ソファに並んで座っていた。

 二人は何かを喋っている。

 お父さんの乾いた声が、私の耳に聞こえてきた。

「……別れてくれ」

 私は、きょとんとした。

 お母さんの肩が、震えた。

 かと思ったら、きっと顔を上げてお父さんを睨み付けた。

 私は、ひゃっと悲鳴を上げた。

 鬼のような顔だった。

「あなたはまた、そうやって逃げるのね」

 お母さんは、潜めた声で言った。

 お父さんは、俯いた。

「美也子がああなったのは、君が甘やかしたからじゃないか」

「じゃあ言うけど、あなたは何もしてくれなかったわよね。私が相談しても」

 お母さんの声が、大きくなる。

 待合席に座る他の人達が、ちらちらと私の家族を見始めた。

「あなたは仕事ばっかりで、美也子の事なんて全然構わなかったじゃない!」

「そんな事はないだろう。言いわけしないで聞いてくれ。なんで君は、美也子を叱ろうとしないんだ。目を覚ましてくれ。うちの美也子は普通じゃないんだ。そうなったのは僕も含めて、君の教育が悪いからだ」

「そればっかり! 何もしなかった人に言われたくないわ!」

 お母さんが、怒鳴った。

「美也子が友達を苛めてるなんて嘘よ! 一緒に過ごしていたら分かるわ、あんなに無垢なのよ! それに苛めの辛さは、あの子自身が誰より分かってるはずよ! 先生の仰ってた事は出鱈目だわ。転校した子には悪いけれど、別の子に苛められたに決まってる。それをうちの美也子の所為だって言いがかりを付けて、迷惑よ。美也子だって先生に疑われて、毎日辛かったに決まってるわ。……ねえ、あなたにこの苦労分かる? 同年代の子のママからも白い目で見られて! 陰口叩かれて! そういう気苦労、あなたは何にも知らないのよ!」

「……君は本当に、自分の事ばかりだな」

 お父さんは溜息をついて、言った。

「頼む。別れてくれ」

 お母さんが、固まった。

「子が子なら、親も親なんだ。君も、僕も。……養育費は、出す。頼む。僕の前から消えてくれ。もう、耐えられないんだ」

 私は、とことこと近寄った。

 難しいお話は、あんまりよく分からなかった。

「お父さん、お母さん? 先生とのお喋り、終わったよ?」

 お父さんとお母さんは、ぴたっと口を閉じた。

 硬い動きで私を見て、「おかえり、美也子」と口々に言う。私は唇を尖らせた。

 私がせっかく帰ってきたのに、全然、喜んでくれてない。

「もう、帰ろうよお。ねえねえ、お昼ご飯、オムライス食べたぁい」

「ああ、うん……外食にしようか。寄って帰ろう」

「ええ、そうね……」

 ぎこちなく笑う二人と手を繋いで、私は白いお部屋をあとにした。



     *



 その一か月後の事だったと思う。

 もうすぐ夏休みが終わり、九月に差し掛かろうとしたある日の事だった。

 私はお父さんとお母さんの二人に車に乗せられた。

 白い男の人に会いに行くのだと思っていたら、行先だと告げられた地名は、袴塚市の外だった。

「お引越し?」

 私はきょとんと訊いたけれど、二人は曖昧に笑っていた。答えてくれた気がしたけれど、何だかあんまり思い出せない。私はとっても馬鹿だから、何でもすぐに忘れるのだ。

 でも、お出かけって素敵だ。運動が苦手な私だけれど、外で遊ぶのは好きな方だ。友達と外を駆け回った時間を思い、その懐かしさにぼうっとなった。

 ……最後に友達に会ったの、いつだっけ。

「出発、しようか」

 お父さんがしんみりと言って、車のエンジンをかけた。灰色の住宅街が、窓の外を流れていく。私達の家の前を、野良猫が一匹横切った。

「ばいばーい」

 私が手をぶんぶん振ると、助手席でお母さんが泣き出した。猫ちゃんとのお別れがそんなに寂しいのかな。お母さんは、ちょっとだけ泣き虫だ。

「……大丈夫だ。空気のいい所に行けば、きっと良くなる」

「どれだけ、休めばいいのかしら。学校も……進級、出来なくなったら」

「そんな事を、気にしてる場合じゃないだろう」

「戻って来れる?」

「その為に家を残すんだ。君が、しっかりしてくれないと」

 お父さんとお母さんは、ひそひそ喋り合っている。

 私は仲間外れにされた気がして、ミラーに映る二人を睨んだ。

「お父さん、お母さん。……ルール違反、してる」

 二人は、揃って黙った。

 そして小さな声でお父さんが、「美也子はまだ、家の事なんて考えなくていいんだよ」と言ってくれた。ちゃんとしたお返事じゃなかったけれど、愛してるって言われた気がして、私は機嫌を直して微笑んだ。

 そのタイミングだった。

 キイッと音を立てて車が止まった。

 驚く私を、お母さんが振り返った。

「美也子。……小学校よ」

「え?」

 私は言われて、窓の外を見た。

 路肩に止められた車の窓から、学校の敷地を覆う金網が見える。

 その向こう、明るい日差しの彼方には、三棟の校舎が建っていた。

「美也子。小学校に、ばいばいして」

「どうして?」

「学校の皆に、さよならできなかったでしょう?」

「……」

 私は黙ったまま、車窓の景色に目を向けた。

 そっか、と他人事のように思った。

 ……私、転校しちゃうんだ。

 ここにはもう通えない。皆に会えなくなってしまう。

 不思議と、乾いた気分だった。寂しい事実を知らされたのに、パステルカラーの遊具を見ても、窓の列を眺めても、そのさらに向こうに並ぶ机と椅子を思っても。ちっとも心が動かない。

 でも、ちょっと切なくなった。

 ……私、楽しかったんだよね。

 ここにいて、楽しかったんだよね。

 うん、楽しかったに決まってる。えへへ、と私は笑った。

 あんまり思い出せないけれど、私は今、幸せだ。

「じゃあ、ええっと、うん」

 私は窓を開けて、軽く身を乗り出した。

 風が、大きく吹き抜けていく。日差しが頬を照らしたけれど、風も光も柔らかい。夏が終わろうとしているのだ。そして秋が、これから始まる。

 新しく始まる季節を、私は皆と一緒に過ごせない。

 その『皆』の顔が全く思い出せないまま、私はぼんやり校舎を見ながら、ぽつんと別れを口にした。


「……撫子ちゃん、紺野ちゃん。また今度、遊ぼうね」


 言ってから、口を押さえた。

 私は今、何を言ったのだろう。変な事を口走った気がする。

 お母さんは咽び泣き、お父さんは窓を閉めるスイッチを押した。あ、と私は呟いた。風が、遮られる。光が、薄く翳っていく。頭の奥にもゆっくりと、何かが覆い被された。

 ぱしんと窓が閉まった時、お父さんが、アクセルを踏んだ。


 秋の気配が、香る朝。

 私は袴塚市と、さよならをしたのだった。

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