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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 37

 二人は校舎へ駆け込んでいき、驚いた生徒達が道を開けた。そこを真っ直ぐに抜けた二人は、中庭目指して駆けていく。私も後を追ったけれど、その時チャイムが鳴ってしまい、怯んで立ち止まってしまう。

 昼休みが終わったのだ。皆はわあわあ騒ぎながら、教室へと帰っていく。迷う時間も惜しい私は、心を決めて駆け出した。後で怒られたって構わなかった。

 中庭へ飛び出すと、灼熱の光が降り注いだ。

 夏の光。やっぱり眩しい。でも別世界のように静かだった。生徒は皆引き揚げた後で、いるのは私だけだった。

 ――――ううん、他にも、あと二人。

 私は、ゆっくりと足を止めた。

 五メートルほど先の地点で、二人も、足を止めたから。

「……紺野さん、話があるの」

 撫子ちゃんの声が、かろうじて聞こえてきた。

 二人は一本のケヤキの下で、向かい合って立っている。私は足音を立てないように、近くのケヤキへ身を隠した。

 邪魔してもよかったけれど、もし撫子ちゃんが罪の自白をする気なら、寛大に聞いてあげなくちゃ。私は耳をそばだてた。

 ぬるい風が吹き抜けて、梢が寂しく揺れていく。まるでこれから聞く告白が辛いもののような気がして、私の心に小さな不安が、小波のように押し寄せた。

 その感じ方は、正しかった。

 撫子ちゃんは、とんでもない事を言ったのだ。

「紺野さん。……私達の、グループに来て」

 心臓が、どくんと嫌な感じに一つ跳ねた。

 じわじわした動揺で、私の笑顔が固まっていった。

 ――――撫子ちゃん、本気なの?

 だって、そんなの無茶苦茶だ。紺野ちゃんは私達の仲間なのだ。私とかミユキちゃんとか夏美ちゃんとか、少し派手な子の一員なのだ。

 一緒に居続けて数か月。その仲間を今更、私達から引き抜くなんて。

 出来るわけない。そんな事。誰にも出来はしないのだ。私はくすりと薄ら笑った。

 でも撫子ちゃんは笑わなかった。真剣な顔を、ぴくりとも崩さない。

 私の顔から、笑みが消えた。ごくんと唾を、呑み込んだ。

 ――――本気なのだ。

 撫子ちゃんは、本気だ。

 本気で、私達のグループから――――紺野ちゃんを、連れ出す気だ。

「紺野さん、こんな連れ出し方して、ごめんなさい。紺野さんが、嫌じゃなかったら……私達の、所に」

「どうして」

 声が、撫子ちゃんを遮った。

 紺野ちゃんの声だった。

 抑揚のない声。表情も前髪の所為でよく見えない。でも遠目に見える唇は、ほんの少し震えていた。あ、と私は呟いた。

 ……泣いているのだ。

 紺野ちゃんが、泣いている。

「どうして、雨宮さんが、私のことなんか」

「だって」

 撫子ちゃんの顔が、歪んだ。

「あなた、本当は『紺野ちゃん』って呼ばれるの、嫌なんでしょ?」

 私はだらしなく口を開けて、その台詞を聞いていた。

 意味が全然呑み込めなかった。ただ撫子ちゃんが寂しそうなのが気になって、馬鹿みたいに呆けていた。

 理解は、遅れて訪れた。

 頬を張られたようなショックで、私は全身を凍らせた。

 ――――嫌だった?

 ――――紺野ちゃんは、『紺野ちゃん』って呼ばれるのが嫌だったの?

 嘘だ。信じない。撫子ちゃんは適当な事を言っただけだ。

 紺野ちゃん、言い返して。違うって言ってよ、早く。

 でも紺野ちゃんは無言のままで、引き結ばれた唇は、何の言葉も紡がない。絶望で私の身体が、ぶるぶると大きく震え出した。

「ごめんなさい。紺野さん。私、あの理科の時間から分かってた。あのあだ名、嫌なんじゃないかって、気付いてた」

「どうして」

「……」

「どうして、その時に、言ってくれなかったの」

 撫子ちゃんは、黙った。

 紺野ちゃんは、「どうして」と言って退かなかった。

 しつこい責め方を見つめるうちに、一度萎んだ私の心が、再びむくむくと膨らみ始めた。

 なあんだ、と笑ってしまう。

 やっぱり撫子ちゃんは嘘つきなのだ。紺野ちゃんはその嘘に耐えられなくなって、不機嫌になっただけなのだ。

 嘘は罪だ。ルール違反だ。撫子ちゃんは罪を重ねた。友達関係を壊すような暴言なんて、いくら妖精でも許されない。『ばい菌』が付いてからでは遅いのだ。私はそれを説明しようと、木陰から進み出た。

 早く、目を覚まさせなくちゃ。それは違うよって早く二人に、言わなくちゃ――――。

 でもそんな私の行動は、撫子ちゃんに遮られた。

「あの時には、言えなかったの」

 私は、足を止めた。

 意外だったからだ。撫子ちゃんが、言い返すとは思わなかった。

 しかもその内容は、とても突飛なものだった。

「あの理科の時間には言えなかったの。廊下で話してる私達を、外から見てる子がいたから。何にもされてないけど、変な感じがして、関わっちゃ駄目な気がして……あの時私は、早くあそこから逃げたかった」

 私は、きょとんとしてしまう。

 ――――誰かが、私達を見ていた?

 誰の事だろう。ぴんと来ない。それに撫子ちゃんの言う『理科の授業での会話』も、何の事だか分からなかった。

 まさか、また度忘れしたの? 私は俄かに焦り出した。

「でも、違うの。そんなのは言い訳で、本当は、そういうのだけが理由じゃないの」

 混乱する私をよそに、撫子ちゃんは続けた。

 そして、その言葉は。

 私を、徹底的に打ちのめした。

「……怖かった、から」

 息が、止まった。

「怖かったの。たくさんの事が。美也子の事も、あなたをあのグループから連れ出す事も。いろんな事が、とても。私があの時、もし美也子の言葉に一緒に遊ぼうって答えてたら。私は自分の友達がひどい目に遭うかもしれないって思ったの。あなたがされたのと同じ意地悪が、私達にもされるかもしれないって思ったの。そう思ったら、怖かった。あなた達のグループと遊ぶのが、私は、すごく怖かった。

 ――――でも、美也子は。美也子にだけは。悪気がない気がしたの。苛めてるとか、ひどい事して楽しんでるとか、そういうのじゃなくて……本当に、それが一番いい事だって信じて、ああやって遊んでる気がしたの。他の子は違う。意地悪してるって事、分かってやってたと思う。でも、美也子は。美也子だけは、正しい事してるって信じてる気がしたの。ああいう遊びを本当に純粋に楽しんでたのは、美也子だけな気がしたの。だから、分かったの。他の子は、誰も怖くない。本当に怖いのは、一人だけだって分かったの。…………分かってるの。悪気は、ないってこと。でも、私は」

 撫子ちゃんは一度だけ、躊躇うように口を噤んだ。

 そして、とどめの一言を言った。


「そういうところが、すごく、怖いの」


 身体から、力が抜けていった。

 どんっ、と軽い音を立てて膝がタイルにぶつかる。普段なら痛さで叫んだかもしれない。代わりに私は、あはは、と小声で笑ってしまった。

 撫子ちゃんの声は、やっぱり感情が読み取りにくい。

 でも十分だった。言葉が不足を補っていた。いくら馬鹿な私でも、さすがに理解できていた。

 撫子ちゃんは、私にすごく怒っているのだ。

 私よりも紺野ちゃんの方がよくて、それに。

 私の事が、嫌いなのだ。

 ……。

 …………涙が、ぽろぽろ零れ出した。

 私は以前にも、誰かにこうやって叱られた事がある気がした。多分男の人だ。暮れなずむ灰色の住宅街で、子供に囲まれながら、優しい顔で笑っていた。私はその人が嫌いなのだ。多分、死ねと呪っていた。

 だってその人は、本当は怖い人だからだ。

 私は見た。あの男の人の鋭さを。優しい振りをしているだけだ。綿菓子のようなふかふかの愛の中に、一かけらの厳しさを、カッター片のように混ぜている。その姿と目の前の撫子ちゃんとが重なって、ああ、同じなのだと私はぼんやり納得した。

 この姿は、まるで――――罪を暴く、人のような。

「紺野さん、ごめんなさい。遅くなって、ごめんなさい。でも、私」

 す、と白い腕が伸びる。

 撫子ちゃんが、手を紺野ちゃんへ差し出した。

「紺野さんと、もっと話したい」

 私はその言葉を、上の空で聞いていた。

 手を伸ばす撫子ちゃんの姿が、みるみる内にぼやけていく。見ていられなくて、俯いた。

 しゃくり上げる私の鼻腔に、土と草の香りが抜ける。

 見下ろした足元には、たくさんの鉢植え達。

 涙で滲んだ視界の中に、様々な色が揺れている。

 鉢植えと茎の緑色に、花弁の赤に、ピンク、白。

 私は、泣き笑いの顔になった。

 ……ナデシコの花だ。

 私はどうしてこんなに、撫子ちゃんが好きなんだろう。涙を膝へ落としながら、私はぽつりと自問した。でも記憶は白い靄の中。私は何でも忘れてしまう。どんどん馬鹿になっていく。

 でもどれほど馬鹿になったとしても、この感情だけは、絶対に忘れない。

 多分、一目惚れだったのだ。

 きっと初めて出逢ったその時から、私は、女の子に恋してきた。

 でもそれは、たった今終わってしまった。

 顔を上げれば、撫子ちゃんはまだ紺野ちゃんへ、手を差し出しているだろう。紺野ちゃんはいずれ必ず、その手の平を掴むだろう。妖精の手の平だ。私だって掴みたい。

 胸に、虚しさが広がった。

 あの紺野ちゃんにさえ、差し出してくれる手の平なのに……その手は、私に遠すぎた。

 もう、何もしたくない。このままここで死にたかった。

 帰りたい。ううん、帰っちゃえ。

 お母さん。お父さん。私、もう学校なんて行きたくない。

 ねえ。

 今から、帰っていい?

「……」

 私は、手の甲で目元を擦った。

 ……帰ろう。

 紺野ちゃんだって、今日は途中からの登校だ。一日学校にいなかったのだ。だったら私も一日学校にいなくたって、別にいいに決まっている。そういう風に考えると、少し心が安らいだ。

 もう撫子ちゃんも紺野ちゃんも知らない。私はこのまま帰るのだ。

 そんな決意を胸に私は、目を覆っていた手を外した。

 涙で曇った視界が晴れて、空色のタイルが鮮明に見える。

 足元の鉢植えの深緑もはっきり見えたし、その淵に書かれたクラスメイトの名前の一つ一つもちゃんと見えた。うちのクラスの鉢植えだ。私の名前がそこにある。隣には夏美ちゃんやミユキちゃんの鉢もあるし、それに、その隣には――――。

 ころん、と。

 花が、タイルに落ちていた。

「え?」

 私の喉から、声が出た。

 どうして。乾いた声で言った。でもばくばくと鳴った心音で、自分の声さえ聞こえなかった。

「あ、あ、あ……」

 私は、後ずさった。恐怖でかちかちと歯の音が合わない。目の前のものを受け入れようとしたけれど、身体が受け入れを拒否していた。

 どうして。

 だって被害は、一輪だけだったはずなのに。

 私はもう一度涙を拭った。視界がさっきよりもクリアになり、鮮やかな色彩が一面、絨毯のように広がった。

 こんなにも、色が眩しい理由は明らかだった。

 空色のタイル一面に、花が落ちているからだ。

 皆で植えて育てた花が、鉢植えの外に落ちている。

 小ぶりで愛らしい花がたくさん、一部分だけ落ちている。


 花の、頭の部分だけが、ころんと、たくさん、落ちている。


 赤、白、ピンク。茎を切られて死んだ花は、風にそよいで、かさりと揺れた。その光景を私もまた、死んだみたいに眺めていた。悪夢みたいな花の末路は、私の脳裏に一つの記憶を呼び起こした。

 動悸が、一気に激しくなった。どうして、どうして。自問が加速する。頭の芯がすごく熱い。眩暈で歪むタイルの上に、花がたくさん転がっている。

 でも、違うのだ。あの時はこんなにたくさんじゃなかった。

 そう、あの時は。一つだけだったはずなのに。

 もう一輪だけじゃない。全滅に近かった。私は荒い息を殺しながら、皆の鉢植えを見下ろした。

 空に向けて茎を伸ばした、その先端には何もなかった。

 無惨な断面を晒しながら、まるで失くした首を探すように、風に茎を揺らせていた。

 五年一組の、花が全部――――切られて、首が落ちていた。

 耐えられなくて、私が叫びかけた時だった。

 どっ、と重い音が聞こえ、続いて、小さな悲鳴が聞こえたのは。


「……じゃあ、代わりに言ってよ」


 ちょきん、と冷たい金属音が、中庭の空気を冷たくした。

 突然の音と言葉に私は顔を上げ、ぎょっとして叫んだ。

「撫子ちゃんっ?」

 驚きの光景があった。

 撫子ちゃんが、タイルに蹲っていたのだ。

 右手を抑えた体勢で、顔は上を向いている。指の隙間からは赤い筋が見えていて、私はさっと蒼ざめた。

 ――――怪我をしたのだ。

「遅いよ……」

 押し殺された低い声が、地鳴りのように聞こえてきた。ケヤキが一斉に梢を鳴らし、黒髪がざわざわ揺れている。俯いている所為で顔が見えない。本当にお化けのようだった。私は、呻くように囁いた。

「紺野ちゃん……?」

 紺野ちゃんは、聞こえないのか返事をしない。

 代わりに、しょきん、と澄んだ音がした。

 それは刃物の音だった。鈍い切れ味の刃が二つ擦り合いながら、間に咥え込んだものを、切り落とす時の音だった。

 紺野ちゃんの手元から、その音は聞こえていた。

 見慣れた一つの文房具を、私は茫然と見つめ返す。

 一体どこから出したのか、紺野ちゃんは、いつの間にか――――青色の鋏を、握っていた。


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