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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 36

「ねえ、本当に誘うの?」

 皆は乗り気ではなさそうだけれど、私は今更揺るがなかった。

「皆、行こう? 遊びは人数が多い方が楽しいよ?」

 グラウンドへ出た途端、夏の熱気が肌を包む。今日も天気は快晴だ。私は弾むように歩きながら、遊具の集まる区画を見た。

 ブランコ、雲梯、ジャングルジム。

 滑り台まで見た所で、私はぴたっと動きを止める。

 そのまま、薄ら笑ってしまった。

 ……みぃつけた。

「撫子ちゃーん」

 私が大声で呼ぶと、滑り台の上にいた子達はびくっと大げさに震えた。

 その数は四人だ。十人くらいが横並びで滑れる大きな滑り台の頂上に、仲よく並んで座っている。

 そのうちの一人だけが、髪の色が栗色だ。

「……美也子」

「降りてきてよお、撫子ちゃん!」

 硬い声の撫子ちゃんへ、私はひらひらと手を振った。

 手招きして、催促する。

「一緒に、遊ぼ?」

「……」

 撫子ちゃんは返事をくれない。多分私の後ろにミユキちゃんとか夏美ちゃんとか、普段話さない子達がいるから畏まっているのだろう。私はその初心さを楽しみながら、撫子ちゃんの返事を待った。

 強い確信があったのだ。撫子ちゃんは、必ず私の誘いを受けるだろう。撫子ちゃん達のグループは皆、大人しそうな少女ばかり。誘いを断りはしないはずだ。それにさっきミユキちゃん達に話したように、遊びの人数は多い方が楽しいのだ。私達を足した方がずっと楽しく遊べるだろう。

 そうすれば私は必ず、撫子ちゃんを慰められる。

 嫌な意地悪で『汚れた』心を、優しく癒してあげられる。

 そうすれば汚い『ばい菌』なんて、私の前から消えるのだ。

 そして私は、今よりも。撫子ちゃんと、仲良くなれる。

「……」

 私の後ろからミユキちゃん達の「やっぱりやめない?」という囁きが聞こえてくる。私が笑顔で振り返ると、皆はぴたりと黙ってくれた。代わりに「みいちゃん、なんか怖くない……?」と言われたけれど、多分私の空耳だ。綺麗に笑ったはずの私が、怖がられるなんておかしいのだ。

 結局、待ち望んだ返事をくれたのは撫子ちゃんじゃなくて、その隣にいた子だった。

「……分かった」と緊張気味の声で答えて、滑り台を下りてくれる。他の子も覚悟を決めたみたいな顔で頷き合って、順々に滑り台を滑ってきた。

 撫子ちゃんだけが、最後まで動かなかった。でも友達全員が地上へ下りてしまうと、天上に残された妖精は白い頬を俯けてから、スカートの裾を抑えて滑り台を滑ってくれた。

 私は待ちきれなくて、撫子ちゃんへ駆け寄った。

「撫子ちゃん、遊ぼう!」

 まだ屈んだままの撫子ちゃんの腕を取ると、撫子ちゃんは小さな悲鳴を上げた。私は、甘い眩暈にくらっとする。まるで飼育小屋にいる小鳥とか兎みたいな、愛くるしい生き物に鳴かれたみたいだった。

 やだ、可愛い。どうしよう。でもどうして怯えているのかなあ?

 不思議に思った私はすぐに、その理由に気がついた。

「ああ……そっかあ。撫子ちゃん、大丈夫だよ? 撫子ちゃんは身体弱いもんね。でも大丈夫。ね、皆。あんまり身体動かさない遊びにしようよ。鬼ごっことかはなしにして、皆で出来る遊びって、何があるかなあ……?」

 私はうきうきと振り返ったけれど、不思議な事に、笑っているのは私だけのようだった。撫子ちゃんの友達も私の友達も、皆カチカチのお餅みたいな顔をしている。あのミユキちゃんや夏美ちゃんまで引き攣り顔なのが変てこで、私はくすっと笑ってしまった。

 でも私に笑われた二人は、何の反応も示さなかった。

 それどころかおずおずといった様子で、「雨宮さん、大丈夫?」「日陰行く? 休もっか……おいでよ」と撫子ちゃんへ言い始めたから、私は急激にむっとなった。

「撫子ちゃん、大丈夫だよねっ」

 ずいと前へ進み出て、二人の目から撫子ちゃんを隠す。どうして二人が撫子ちゃんを気遣うのだ。要らない。要らない。私だけが想えばいい。熱い渦がどろどろと身体の奥で粘ついて、二度目の眩暈に私はよろめく。今度は激しい眩暈だった。その熱っぽさがとても不思議で、私は首を傾げてしまった。

 どうして、こんなに許せないの?

 ここが暑い所為だろうか。きっと、そうに違いない。

 そうやって私が自分を納得させていると、横合いから視線が刺さった。撫子ちゃんの友達だ。ひそひそ何かを喋っている。大人しい少女達は、友達同士なら無敵なのだ。私が笑顔でそちらを向くと、皆はぴたりと黙ってくれた。私はとても満足した。

 これで完璧だ。私の友達も撫子ちゃんの友達も、全員綺麗に黙ってくれた。遊びを邪魔する悪い子は、これで一掃出来たのだ。

 あとは楽しく遊ぶだけ。私は微笑んで皆を見た。

「じゃあ、始めよっか。えーっと、大人数で出来て、あんまり動かないでいい遊びって、何があるかなあ?」

 私が意見を求めると、皆は最初しんと黙った。でも徐々にミユキちゃんと夏美ちゃんを中心にして「鬼ごっこは?」「氷鬼とか」「この人数だったらドッジボールもありじゃない?」と、案がぽつぽつ挙がってくる。

 でもせっかくだけれど、私はそれらを却下した。

「駄目ー、もっと楽なやつじゃなくちゃ!」

 皆が挙げた遊びはどれも、とても疲れるものばかり。撫子ちゃんに負担がかかる。身体が弱い女の子でも、楽しく遊べなくては駄目なのだ。

 そんな考え方をした瞬間、私は、一人の友達を思い出した。

「あれ?」

 運動が苦手な子。私と一緒だ。

 だからあの子が来たことで、私はとても楽ができた。

 だって、どん臭いあの子のおかげで、私は鬼にならずに済んだから。

「あれ……? あれ……?」

 私はもう一度首を傾げた。

 今、何かが変だった。私の思う学校のルールに、変な食い違いが見つかった。でもその正体までは掴めない。私は馬鹿だから考え事が苦手なのだ。

 でも、やっぱり何かが変だった。変な事は分かるのだ。私は何かを見落としている。それも、とても大事な事を。忘れてはいけない何かを蔑ろにして履き違えて、誰かの心を引き裂いている。急にそれに気が付いて、私は愕然としてしまう。

 私は、友達を傷つけたのだ。

 ……どういう風に、傷つけた?

 分からない。でも絶対に、誰かの心を傷つけた。

 ……誰の、心を?

 分からない。でも私は今、皆の言う『鬼ごっこ』を却下した。その『遊び』では、撫子ちゃんが辛いから。運動は苦手だろう撫子ちゃんに配慮して、その遊びを却下した。

 でも私は、もう一人。運動の苦手な子を知っている。

 ……私はその子と、どういう風に遊んだ?

 分からない。分からない。分からない。でも分からないのは変だった。たった今考えたばかりのはずだった。私は答えを知っている。私は犯人の一人なのだ。私がやった。傷つけたのは私だった。皆に合わせて遊びながら、けれど間違いなく自分の意思で、何度も何度も体現した。このグラウンドで、学校で。何度も一緒に遊びながら。いつしか激しい焦りに呑まれながら、私は冷や汗を流し出した。

 ――――思い出しちゃ、駄目だ。

 もし思い出してしまったら。私はいつか死ぬ気がした。蓋で閉ざした記憶の沼には、私の罪が埋まっている。記憶の蓋が開く時、そこからは私の犯した罪がたくさん、ドラマで見た血の痕みたいに幾つも幾つも浮かぶだろう。漠然とした恐怖がひたりと、私の背筋を冷たくした。

 私は今、この時、初めて――――自分の事が怖くなった。

 細い呼吸を繰り返しながら、私は、もう一度自問する。


 ……その女の子は、だあれ?


 激しい自問自答の黒海に、私が呑み込まれかけた時だった。

 誰かの声が、空へと響いた。


「ねえ、〝はないちもんめ〟ならいいんじゃない?」


 私は不意を打たれて、はっと顔を跳ね上げた。

 皆は名案が挙がったとでも思ったのか、「いいじゃん」と心持ち晴れやかになった顔で笑い合い、撫子ちゃんの友達へ「はないちもんめでいい?」と確認を取っている。訊かれた子達もミユキちゃん達派手な子の優しさが意外だったのか、ほっと緊張の抜けた顔で頷いていた。

「はないちもんめ……」

 私は、その遊びへ思いを馳せた。

 今の提案を、誰がしたかは分からない。だってここにはたくさんの女の子がいて、しかも皆無個性なのだ。

 でもその言葉だけは、不思議と印象的だった。

 私は最初茫然として、次にきゅっと唇を噛んで……次第に高鳴った心のままに、忍び笑いを漏らしてしまった。

 ――――すごく、楽しそうな遊びだった。

 私達が七人ほどで、撫子ちゃん達は四人いる。遊び参加者がこれだけいれば、〝はないちもんめ〟が終わるまでに何ターンも要るだろう。

 簡単に終わる遊びなんて、見え透いていてつまらない。確かにこれは名案で、今私達ができる中で、最高の遊びに違いなかった。

「いいね! じゃあ、グループ分けどうする?」

「グーとパーで別れましょ、でいいんじゃない?」

「うん! じゃあ、せーの!」

 私の音頭で、皆が手を出した。

 でもその中で一人だけ、手を出さない少女がいた。

「撫子ちゃん? 大丈夫だよ、一緒に遊ぼう? 楽しいよ……?」

「……」

 撫子ちゃんが、緩やかに手を差し出す。それを合図に私達は、「グー、パーで、別れま、しょ!」と叫び、手をそれぞれ突き出した。

「あ」

 私は声を上げて、むすりと頬を膨らませた。

 私は手を丸めたけれど、撫子ちゃんは広げていた。

 ……違うグループになってしまった。

 私と撫子ちゃんは〝はないちもんめ〟で争うのだ。

 見れば手を丸めた子も広げた子も、大体同じ数だった。数が偏っていれば、仕切り直しも有り得たのに。私は悔しくて堪らなかった。

「雨宮さん、おいでよ。こっちこっち」

 私の友達が撫子ちゃんの手を見て呼んだ。撫子ちゃんは頷くと、私を残して歩こうとする。

 掴みっぱなしだったその腕を、私は、ぐっと掴み直した。

 あっ、と撫子ちゃんが声をあげる。やっぱり可愛い声だった。私は、にたぁと笑ってしまった。

 さっきは一瞬ショックだったけれど、落ち込む事はないのだ。〝はないちもんめ〟のルールを思い起こしながら、私は撫子ちゃんの耳へ、顔を寄せて囁いた。

「撫子ちゃん。待っててね? すぐに、こっちのグループに呼んであげる……」

 撫子ちゃんの綺麗な顔が、紙のように白くなる。私はその腕を離しながら「ばいばい」と笑った。切ないけれど、少しの間お別れだ。

「みいちゃん、早くぅ」

「はぁい」

 私はグーを出した子の輪に混じりながら、皆で横並びになって手を繋いだ。

 真向いには、同じように手を繋ぎ合った少女達。私から見て右側の一番端には撫子ちゃんがいた。私はこくんと、唾を呑んだ。

 ――――ついに、遊びが始まるのだ。

 これで私達のグループも、撫子ちゃんのグループも、区別は関係なくなった。私達は皆で仲良く過ごしている。私の胸に、熱い感動が押し寄せた。

 なんて、美しい眺めだろう。私はついに為したのだ。もう誰の顔色も窺わなくていい。グループが違うなんて理由で好きな子と話すのを諦めなくていい。私はどこにだっていけるのだ。そんな力を得られたのだ。ついにそこまでこぎ着けたのだ。やっと『人間』になれたのだ。

 ……やっと、『人間』?

 何だかおかしな考え方をした気がする。でも馬鹿な私の馬鹿な考え。気にするのも馬鹿馬鹿しい。私はにこっと笑った。

 そしてこの瞬間の嬉しさを、言葉の形で表すように――――私は〝遊び〟の歌の始まりを、皆と一緒に唱和した。


「勝ーって、嬉しい、はないちもんめ!」


 叫ぶと同時に前へ進み、揃って足を蹴り上げる。相手の子達も声を受けて、顔に楽しげな笑みが浮かぶ。声に声で応じるように、横一列の身体が動いた。

「負けーて、悔しい、はないちもんめ!」

「あの子が、欲しい!」

「あの子じゃ、分からん!」

「相談、しましょ!」

「そう、しましょ!」

 歌が、終わる。私達は相手チームから距離を取り、皆でぐるりと輪になった。

 これから誰をもらうか相談だ。でも相談なんて必要ない。他の提案をされる前にと、私は矢継早に言った。

「ねえ、撫子ちゃんにしようよ!」

「いいけど……」

 皆は驚き顔で、あるいは呆れ顔で私を見た。白い目で私を見てくる子もいたけれど、やっぱり私の気の所為だろう。あとは私達のチームの代表の子が、じゃんけんで勝てばいいだけだ。

 ……あ。

「じゃんけん、誰がしに行く?」

「みいちゃんでいいんじゃないの」

 皆は投げやりに言った。リーダーになりたくないのだろうか。私は皆の態度が不服だけれど、気持ちは分かるので言葉を呑んだ。リーダーのじゃんけん一つで勝ち負けが左右されるのだから、確かに責任重大だ。

 でも私は、「うん」と強気に笑った。撫子ちゃんが欲しいのは私なのだから、重い責任ごと全部、私の物にしようと思う。私が皆と繋ぎ合う手をぎゅっと握ると、皆も仕方なさそうに笑ってくれた。

 これで、〝遊び〟再開だ。

「決ーまった!」

 すると相手も、「決ーまった!」と叫んで、私達を挑戦的な笑みで見た。

 いよいよ、勝負が始まるのだ。私は緊張と高揚で、きゅっと身を引き締めた。


 ……けれど私は、その時急に気付いてしまった。


 グラウンドの隅を、誰かが歩くのが見えたのだ。

 最初は、ただの通行人だと思った。でも見覚えがあるような気がして振り返ると、私はとても驚いて、思わず息を止めてしまった。

 その通行人は、見知らぬ生徒ではなかったのだ。

 私の知り合いで、クラスメイトで、友達の女の子だったのだ。


「紺野ちゃん……」


 紺野ちゃんだった。

 今日は病欠で、もしかしたら遅刻してくるかもしれないと言われていた紺野ちゃん。血色の悪い顔はまさに病人そのもので、陽光のぎらぎらとした熱に炙られる様は、まるでお化けのようだった。黒い髪を風に揺らせて、ふらり、ふらりと歩いている。手ぶらで、ランドセルは背負っていない。もう教室へ荷物を置いているのだ。水中でも歩いているかのようにのろのろ動く紺野ちゃんの首が、だらりと散漫に、こちらを向いた。

 そして、多分、私に気付いた。

 紺野ちゃんの足が止まった。

 瞼がぴくりと動き、瞳孔が私を捉える。

 暗い顔。感情が読めない。目が沼底みたいに淀んで見える。

 私も、動きを止めてしまった。挨拶の言葉さえ、自分の喉から出て来ない。身体が何故か、かたかたと震え出した。

 ――――紺野ちゃんが、私を見ている。

 ――――私達の遊びを、紺野ちゃんが見ている。

「みいちゃん?」

 皆が呼ぶので、私は「うん」と言って顔を上げた。

 早く言わなくちゃ。今決めたばかりの女の子の名前を、ここで明かして戦うのだ。

 でも私はたじろぎ、躊躇ってしまった。

 言うだけだ。撫子ちゃんが欲しいと言うだけ。ずっと言いたい言葉だった。この遊びが始まる前から、ずっと言いたい言葉だった。でも紺野ちゃんが見ている。私が撫子ちゃんを欲しがる所を、〝遊び〟の輪の外から紺野ちゃんが見ている。喉に血でも絡んだみたいに、私は何にも言えなかった。目が、ぐるぐると回りかけた。

 ――――言えない。

 この言葉は、罪だ。紺野ちゃんの目が訴えている。〝遊び〟不参加の紺野ちゃんの目の前で、私が撫子ちゃんを求めるのは、誰かを傷つける行為なのだ。

 でも誰かって誰? 誰が傷つくの? 私が撫子ちゃんを欲しがったら、誰か傷つく子がいるの? 私は混乱した。もう何が分からないのかも分からない。それは私が馬鹿だから? それともここが暑いから? 頭の中がぐちゃぐちゃで、どうにかなってしまいそうだ。

 その瞬間に私は突然、いきなり全てが嫌になった。

 もう、何にも言いたくない。誰も私を見ないで欲しい。私はただ皆で遊びたいだけなのだ。学校にいる友達と、仲間外れなく、楽しく。それがどうして、こんな板挟みに陥ったのだ。どこかで何かを間違えたなら、それがどこかを教しい。私は馬鹿だから自分では分からないのだ。何を後悔すればいいのかさえも、何にも分からないままなのだ。

「みいちゃん? どしたの」

 沈黙する私に、周りの子が不審そうに言った。

 二度目の問いかけだ。私はとりあえず、何か返事をしようとした。

 その時だった。

 綺麗な、けれど、か細い声が聞こえたのは。

「……が、欲しい」

「え?」

 私は、顔を上げて訊き返してしまう。

 そしてすっかり驚いてしまった。

「撫子ちゃん……?」

 撫子ちゃんの様子が、さっきと少し違っていた。

 蒼白な顔で、一歩前へ進み出ている。他の子はまだ誰も歩いていないのに、撫子ちゃんだけ歩いたのだ。私はその様子から、さっきの声が撫子ちゃんのものだったと気付いた。

 撫子ちゃんは、さらにもう一歩前へ進んだ。手を繋いだ隣の子が、引き摺られるようについて来る。撫子ちゃんはその手を、「ごめんなさい」と言って、外した。皆が驚き顔で見守る中で、撫子ちゃんが、顔を上げた。

 目線が、真正面からぶつかる。私は何だかびくっとした。

 撫子ちゃんは、私の目を見ているのだ。

 さらにもう一歩前へ進んだ撫子ちゃんは、表情の薄い顔に、決然とした何かの意思を、不意打ちのようにさっと灯して――――、

 もう一度、言った。

 今度は弱々しい声じゃない。

 凛と、張りのある声だった。


「紺野さんが、欲しい」


 ――――その瞬間の撫子ちゃんの顔を、私は、一生忘れないと思った。

 見た事のない顔だった。撫子ちゃんはあまり表情を見せないから、この時私の見た顔はともすれば見間違いだったのかもしれない。それくらいに私は、信じらないものを見た。

 だって、あの撫子ちゃんが。

 泣きそうなほどに目を潤ませて、頬を赤くして叫んだのだ。

 真剣な目つきで、毅然とした眉で、決意を述べた唇で。まるで怒っているようだった。でも涙の薄く張った瞳には、空の青色が映っている。それは悲しみの色だった。凄絶なくらいに熱くて深い、澄んだ悲しみの色だった。

 私は、ショックで絶句した。

 ――――妖精の、顔じゃない。

 これは、『人間』の顔だった。

 時に人へ酷い事を言ったり『ばい菌』を押し付けたりする、そういう生々しい感情を内に包んだ、汚い『人間』の顔だった。

 撫子ちゃんは、ばっと校舎を振り返った。

 その目の先には、内気で根暗な少女が一人。驚愕に目を見開いて撫子ちゃんを見つめている。円い瞳に、陽光の輝きがさっと映った。

「……ごめんなさい」

 撫子ちゃんは、その場で深く頭を下げた。

 そして顔を上げて、私同様に絶句する皆を悲しそうに見回してから――――くるっと踵を返して駆け出した。

 私は、あっと叫んだ。

 手を伸ばそうとしたけれど、両手は女の子と繋いでいたから、引き留める事もできなかった。

 撫子ちゃんは駆け足でグラウンドの隅まで行ってしまい、そこで棒立ちになっていた女の子の、真正面で立ち止まった。

「……」

 この瞬間のグラウンドは、まるで二人の世界だった。

 今の言葉を境にして、私達は透明にされた。そう錯覚するくらいに撫子ちゃんは他の誰も見なかった。ただ一人だけを見つめていた。紺野ちゃんだけを見つめていた。

 紺野ちゃんは、よっぽど驚いたのか何も言えないでいる。

 そんな紺野ちゃんに、息を弾ませた撫子ちゃんが言った。

「行こう」

 撫子ちゃんの手が、紺野ちゃんの腕を掴んだ。

「……っ、待って!」

 私は叫んだけれど、二人は待ってくれなかった。

 撫子ちゃんは紺野ちゃんの腕を引き、二人で、走り始めたのだ。


 ――――場は、騒然となった。


 皆は「えっ」とか「どういう事?」と騒いで戸惑っている。

 私は混乱しながら絶叫した。

「待って、撫子ちゃん、紺野ちゃん……!」

 もう遊んでいる場合じゃなかった。

 私は友達と繋いだ手を振り解くと、逃げた二人を追い始めた。後ろから私を呼ぶ声を聞いたけれど、頭の中は逃げた二人でいっぱいだった。気を緩めたら泣いてしまいそうだった。

 撫子ちゃん、紺野ちゃん。どうして二人で行ってしまうの? どうして。どうして。私達は皆で遊べるはずだった。あとちょっとだったのだ。本当にあとちょっとだったのだ。それなのに酷い。こんなのって酷過ぎる。

 私を置いていくなんて。二人で一緒に行くなんて。私を、仲間外れにするなんて。

 ――――許せない。

 紺野ちゃん、許せない。

 撫子ちゃん、許せない。

 仲間外れはいけない事だ。皆で仲良くしようとしない。学校のルールに違反している。私達は『人間』としてこの学校にいる以上、ルールを守らないと駄目なのだ。そうしないと『汚れる』のだ。私達はそういう世界を生きていて、それはこれからも永遠に変わらないのだ。

 それがどんなに辛い事かを、あの二人は分かっていない。

 だからこんな真似が出来るのだ。〝遊び〟を壊してしまえるのだ。

 だったら。


 私が、分からせてあげる。


 学校のルールを守らなかったらどうなるか、私が思い知らせてあげる。

 そしてあの二人が自分の過ちに気づいたら、私は笑って許すのだ。そうしたらきっと私はこう言うだろう。いいよ、と天使のように微笑んで二人の罪を許すのだ。その終わりまで想像して、私は唇を吊り上げた。

 紺野ちゃん、撫子ちゃん、待ってて。

 私が、教えてあげるから。


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