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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 34

「美也子。……最近学校で、何かあった?」

 私はトーストを齧りながら、お母さんの顔をぽかんと見上げた。

 朝の日差しで眩しいリビングには、私とお母さんと、お父さんの三人がいる。お母さんはピンクのエプロンを身に付けていて、お父さんは紺色のスーツ姿。朝の支度で忙しそうな二人は、いつも笑顔がとっても素敵だ。

 でも、最近は少し違った。

「お母さん、どうしたの?」

 そう訊ねると、テーブルの向かいに座ったお父さんも心配そうに私を見た。余所見ばかりしているから、目玉焼きにお醤油をかけ過ぎている。私はくすくすと笑ってしまった。

「学校、楽しいよ? 友達も、ほら! ミユキちゃんとか、夏美ちゃんとまた一緒のクラスだもん。他にも、えっと、ええっと」

「なら、いいんだけど……」

 お母さんが、手を頬に当てて溜息をつく。お父さんは今更のように醤油の海になった皿に気づき、無言で目玉焼きをお皿の淵に引き上げていた。そんな二人の反応に、私はこっそり落ち込んだ。

 多分、先月くらいからだと思う。五月のうちはこんな風ではなかったのだ。

 いつの間にか私は、両親から心配されている。でも何を心配されているのか分からないのだ。理由が知りたかったけれど、私は質問するのを控えていた。

 何となく、怖かったからだ。それを、知ってしまうのが。

 結局私達に、それ以上の会話はなかった。

 私はご飯を食べるのに一生懸命だったし、二人からも私への追及はなかった。

ただ、お父さんがお母さんの名前を呼んで、「話があるんだ」と怖い声で囁いた気がしたけれど、それは私の気の所為だろう。

 優しいお父さんが、怖い声なんて出すわけないのだ。

「いってきます。お母さん」

 家を出る前に、私は元気に言った。

 お父さんは先に仕事へ行ったから、お母さんにだけそう言った。

「いってらっしゃい。美也子。……がんばってね」

 私は、首を傾げてしまった。

 何を頑張れって言うのだろう。学校に行って、友達と楽しく遊ぶだけなのに。

 変なの。お母さん。



     *



 昇降口で上履きを履き替えていると、優雅な声が私を呼んだ。

「あら、みいちゃん。おはよう」

 私は振り返り、ぱあっと顔色を明るくした。

 そこにはクラスメイトの美少女が、微笑んで立っていたからだ。

「えっと。……氷花ちゃん、おはよう!」

 呉野氷花ちゃんだった。

 同じクラスの子で、最近友達になったばかり。私は少しどきどきした。綺麗な人とお話するのは、ちょっと緊張してしまう。それに氷花ちゃんの名前を一瞬度忘れしてしまったのは、本人には絶対に秘密だ。

 この子は多分、怒ったら怖い。怒らせた事なんてないはずなのに、私はそんな風に思っていた。氷花ちゃんの切れ長の目がきつく見える所為だろう。私はそう結論付けた。

「みいちゃんったら今日も元気ね? ……ねえ。今、私の名前呼ぶのちょっと遅くなかったかしら?」

「えへへ、そんな事ないよお」

 笑う私の顔を、氷花ちゃんは試すように眺めている。その末に「ま、いいけどね」と顔を他所に向けて言った。

 何となく影のある笑みに私はぞくっとしたけれど、再びこっちを向いた氷花ちゃんは、きらきらの笑顔に戻っていた。

「みいちゃん。じゃあ、またね?」

「うん、またね……」

 氷花ちゃんは、先に廊下を歩いていく。私は氷花ちゃんの長い黒髪と背中が階段を上がって消えていくのを見送りながら、一緒に行けば良かったんじゃないかなあと思ったけれど、とにかく美少女と朝一で会話が出来たのだ。なんて幸先がいいのだろう。浮き立った心で私も廊下を歩き出した。

 そうして氷花ちゃんより遅れて教室に入ると、何人かの友達が私に気づいて、手をぶんぶん振ってくれた。

「みいちゃん、おはよー」

「おはよう、ミユキちゃん、夏美ちゃん」

 私も溌剌と挨拶して、皆のいる机へ駆け寄った。すぐに話題が昨日のテレビ番組の話だった事を察して、記憶にない私は「昨日だったんだ? あー忘れてたぁ」と悔しがって見せる。取り留めのない話できゃあきゃあ騒いで盛り上がりながら、私って幸せだなあと漠然と思った。

 お母さんってば、何を心配していたんだろう?

 今朝の言い方ではまるで、私が学校で寂しい思いをしているみたいだ。

 でも私は、寂しい思いなんてしていない。私の周りはこんなにも賑やかで、毎日は楽しみに満ちている。休み時間になれば眩しいグラウンドへ飛び出して、身体を動かして遊ぶのだ。

 ほら。

 私は幸せだ。

 寂しい『孤独』なんて、どこにもないのだ。

 そこまで考えて、私は思考をストップした。

 …………『孤独』って、何だろう?

「みいちゃん? どしたの」

 ミユキちゃん達が、げらげら笑うのを止めて私を見た。私は「ううん、なんでもないよー」と誤魔化したけれど、頭の中には『孤独』の二文字が残っていて、会話に集中できなかった。

「みいちゃん、ぼーっとしてない?」

「うーん、そうかなあ。ぼーっとしてる?」

「してる、してる」

「じゃあ、してるのかなあ」

「何それ」

 皆が、どっと笑い出す。笑いを取りたいわけではなかった私は、頬をぷくぷくに膨らませた。これは真剣な悩みなのだ。

 すると皆は、ふ、と示し合わせたように黙ってしまう。

 それから、にやりと笑顔になった。

 あ、嫌な顔。

 自然とそう感じてしまい、私は何だかびっくりした。

 友達の顔を『嫌』だなんて。自分が自分じゃないみたいだ。

「あー。分かった。みいちゃん、また『記憶喪失』ごっこでしょ?」

「え?」

「まーた始まったよ、みいちゃんの忘れんぼ」

 皆がくすくすと笑い出す。ぽかんとする私の肩を、夏美ちゃんが小突いてきた。

 そのまま顎で、窓際を示してくる。

「ほら、あっち見て」

 指示に従った私は、そちらを見て――――目を、すうと見開いた。

「……あの子」

「みいちゃんってば、徹底してるぅ! すごいよね、この演技力。見る度に初対面のフリしちゃって。ウケる」

「そんな凝った遊びよく思いつくよね。みいちゃん天才」

 皆が手を叩いて笑っている。でも、私は同じようには笑えなかった。

 だって、私の視線の先には――――女の子が、一人で居たから。

 その子は俯いて座っていた。黒髪は日差しを受けて艶々に光っている。淡い光に包まれた身体は、そのまま光の向こうへ消えてしまいそうだった。

 私は、その姿をじっと見た。

 誰の声も気にならない。あの子の事だけが気になった。

 不思議だった。朝の教室にはたくさんの同級生がいて、皆が思い思いの場所ではしゃいで、走り回って、楽しそうに雑談しているのに。

 でも私は、その子を『一人』だと思ったのだ。

 こんなにも人がいるのに、あの子はたったの『一人』なのだ。

 私は服の胸元をいつしか強く握りながら、泣き出しそうな気持になっていた。でもどうしてそんな気持ちになるのか、私には分からないのだ。

 辛くなんて、なかった。

 だってこの『孤独』は、私のものではないのだから。

 でも、辛い気がした。

 辛いと感じてしまった事を、私は、認めなくてはならない気がした。

 この寂しさは、『痛い』のだ。棘のように身体を刺す。でもその『痛み』のリアリティが、私には実感できないのだ。棘棘のものに確かに触れたはずなのに、そこに柔らかい膜を被せられたみたいだった。痛くて悲しいこと全てを、忘れてしまったみたいだった。

 そんな曖昧な目と心で、私は女の子を見つめる。

 ああ、そっかと納得した。

 これが、『孤独』の正体なのだ。

「……あれ、みいちゃん?」

 後ろから、皆の声が聞こえてくる。戸惑った声。驚いているのだ。でもこうやって皆の輪から抜け出して歩きながら、私自身、自分の行動に驚いていた。

 でも、気になるのだ。どうしても。同じ『孤独』を、私の魂は知っている。心に空いた空洞には、あの子と同じ傷がある。そこに溜まった血液は、あの子と同じ色なのだ。まだ乾かないでそこにある。まだ膿んでいるままなのだ。

 私は、怪我をしている気がした。どこか、見えない、心の部分で。

 その痛みと同じ痛みで、あの子が、泣いていると思ったのだ。

 おかっぱの女の子の肩が、微かに動いた。私の足音に気付いたのだ。でも私を見ようとはしない。頑なに下を向いていた。私は何だか、悲しくなった。

 私の事くらい、見てくれたらいいのに。

 そんな事を、考えながら。

 私はついに、その子の正面に立った。


「ねえ。どうして、そんなに静かなの?」


 そう訊いてみたら、あの子はびくっと震えてから、私の顔をじっと見た。

 黒い前髪。切ればいいのに。目元にかかって瞳が見えない。カーテンのように瞼にかかった前髪は私のものとは違うのに、私は何だか自分の目元が気になってしまって、ぱっと手で払う仕草をした。


「私、あなたの声も知らないんだ。だから、何か喋ってみて。……私」


 私は、その子と見つめ合う。

 前髪の向こう、琥珀の瞳の奥を見て、その目の中に光を見た。

 顔を上げてくれるだけで、瞳は綺麗に光るのだ。

 その美しさに誘われるように、私の喉から声が、言葉が、するりと水のように流れ落ちた。


「紺野さんの声、聞いてみたいの」


 女の子が、目を見開いた。私の言葉に、驚いたのだ。

 その反応に、私もまた驚いてしまった。

 同時に、ああ、そっかと気づいてしまう。

 そうだよね。そうだったよね。

 私はこの子を、知っていたよね。

 この子は私の、友達だったよね。


「……みいちゃんが、分からないよ」


 涙で潰れた、声がした。

 女の子が――――紺野ちゃんが。

 くしゃりと、顔を歪めていた。

 すぐに俯かれてしまい、顔が私から隠される。

「紺野ちゃん……」

 私は息を詰まらせながら、紺野ちゃんを呼んだ。

 背後からは、たくさんの視線。もう私のグループだけじゃない。クラス中の子が話す私達を見ているのだ。でも私達の世界には、私達がいるだけだ。私は涙ぐみながら、紺野ちゃんの手に触れた。

 机の上で握り込まれた紺野ちゃんの手は、ものすごく硬かった。

 いつだったか、この手を脆いと私は思った。でもそれがいつだったかは分からない。考えれば考えるほど、頭がぼんやりしてしまう。

「紺野ちゃん……ごめんね、ごめんね、久しぶり。ねえ、私達、話すの何日ぶりかなあ?」

「……一か月」

「そんなに?」

 私はびっくりした。そんなに経っているなんて信じられない。でも紺野ちゃんと最後に話したのがいつだったかも、私には思い出せないままだった。それは昨日の事だと断言されれば、私は多分信じるだろう。靄がかかったみたいに、記憶は白くぼけていた。

 でも、まあいっかあと私は笑った。

 別に困らないのだ。忘れてしまっても。今だって、こうして紺野ちゃんと一緒にいられる。だから細かい事なんてどうでもよかった。

 けれどそんな幸福な時間は、後ろからの声で途切れてしまった。

「おはよう、紺野さん」

 挨拶の声だった。

 紺野ちゃんが肩を弾ませて、私の後ろの方を見る。

 釣られて私も振り返ると、机二つ分ほどの距離の先に、女の子が一人立っていた。

 ……どきんとした。

 なんて、綺麗な子なんだろう。

 白いブラウスがとっても清楚。髪は二つに括られている。どうしてか名前が思い出せなかったけれど、私はもう一度この子の声を聞きたくて、「おはよう」と挨拶した。

 でも不思議な事に、相手は私の挨拶を聞くと顔色を青くした。

 その変化は本当に僅かなもので、女の子には表情らしい表情もなかったけれど、そういうものは何となく分かる。私は寂しくなってしまった。

「……撫子ちゃん、行こ」

 女の子を、後ろから三人くらいの友達が呼び立てた。そのまま腕を取られて歩く女の子は「でも」と小さな抵抗の声を上げたけれど、三人という数には抗えなかったみたいで、どんどん私達から遠ざかっていく。

「……」

 私は、その姿をじいっと見つめていた。

 目を奪われていたからだ。今の二つ括りの女の子に。栗色の髪が綺麗。それに身体付きも華奢だった。肌は透けそうなほど青白く、私は何だか、どきどきした。

 ……触りたい。あの子に。

 そう思った、瞬間だった。

 ちょきん、と。金属音が、近くで鳴ったのは。

「……紺野ちゃん?」

 私は振り返った。

 今の音源は、紺野ちゃんの机の上だったからだ。

 見れば紺野ちゃんの手には、何故か青い鋏。

 机の上には布製の筆箱が出しっぱなしで、チャックは全開になっている。その近くには鉛筆や消しゴムも落ちていて、そこから鋏を出す為に一緒に零れてきたのだと一目で分かった。

 紺野ちゃんはぼうっとした目つきで、しょき、しょき、と鋏をゆっくり噛み合わせている。

 私は狐につままれた気分で、その様子を見下ろした。

 図画工作の授業ではないのに、どうして鋏なんか持ち出したのだろう。何を切っているわけでもない。空気を切っているだけだった。

「紺野ちゃん、何やってるの?」

 私が訊くと、紺野ちゃんははっとした顔になって「なんでもない」と言った。何を考えているのか分からない声だったけれど、そんな声に私が傷つく事はもうなかった。むしろ相変わらずの無愛想さに、嬉しくなったくらいだった。

 久しぶりに話した紺野ちゃんは、ちょっと変な子になっていた。

 でも私はそれを気にしない。だって私も、多分ちょっと変になっているのだ。前よりも少しだけ、馬鹿になっているだろう。今だってそうだ。私は紺野ちゃんと以前どんな風に仲よくしていたか、度忘れしているようなのだ。

 私と紺野ちゃんは『友達』だった。はっきりと私に分かるのはそれだけだ。

 だからこれは、おあいこなのだ。それに紺野ちゃんは捻くれ者だった気がするから、私が変な質問をしたら嫌がるかもしれない。藪蛇になるくらいなら、追及なんてやめてしまおう。

 とにかく。

 紺野ちゃんと、また一緒にいられるのだ。

 私はそれで、幸せだった。

「紺野ちゃん……。もう、ずっと一緒だよ?」

 私の声に、紺野ちゃんの表情が固まる。唇が、何かを訴えるように動きかけた。でも私がにっこりと笑い続けていると、紺野ちゃんは目尻に再び涙を溜めて、唇を噛んで俯いた。

 そして、顔を上げた時……心が震えるような微笑を、私に向けてくれたのだった。

 私だけが知っている、皆には内緒の微笑みだ。不器用な引き攣り笑いの嬉しさで、心がぞくっと揺れていった。

 その生ぬるい感触に、私は少し怖くなる。

 でも怖さを覚えた事さえ忘れてしまい、私は紺野ちゃんに笑みを返した。


 そして、私達は。

 また皆で一緒に、仲よく〝遊ぶ〟ようになったのだ。



     *



 鬼ごっこ。

 かくれんぼ。

 かごめかごめ。

 いろんな遊びをたくさんした。皆を誘ってたくさんした。

 主な時間は放課後で、休み時間にも時々した。皆で遊ぶのは楽しかったし、紺野ちゃんがその輪の中にいてくれるのが、私にとっての幸福だった。

 ほら、もう一人じゃない。

 もう一人じゃないよ、紺野ちゃん。

「次、紺野さんが鬼!」

 ミユキちゃんか、夏美ちゃんか、誰かがハスキーな声で叫んで走った。

 七月のグラウンドの砂は蓄えた熱気を吐いていて、何だか私はくらくらした。

 遊ぶのは好き。でも体力はあんまりないのだ。

「皆、ごめーん。私、喉乾いちゃった。水飲んできていーい?」

 私が限界を訴えると、皆は仕方ないなあという風に肩を竦めて、「いいよー、いってらっしゃーい」と手を振ってくれた。遊ぶを中断する気はないみたいだ。

 皆が鬼ごっこで逃げ回っている間、公然と私は水飲み場にいける。学校をサボる人の感じる高揚って、こんな感じかなあ。想像に胸を躍らせながら、私はグラウンドから中庭へ向かって歩き始めた。

 水飲み場はグラウンドの隅にもある。でもそちらはクラスの男子達でいっぱいで、待つ気になれなかった。それに、よく日焼けした体格のいい男子もいたから、気が引けてしまったのだ。

 あの子には、近寄りたくない。どうしてかそう思うのだ。中庭にも同じ水飲み場があるから、私がそっちに行けばいいだけだ。そう割り切ってはみたもののすっきりしない気持ちを抱えながら、私は中庭を一人で歩いた。

 グループの友達も、紺野ちゃんもいない。久しぶりの一人だった。

 でも、『久しぶり』って、何だろう?

 私の周りは、いつだって賑やかなのに。

 一人で過ごした時間なんて、私にはないはずなのに。

 放課後の中庭は、うっすらと赤味がかって見えた。タイルは空色で見上げた空もまだ青い。三方向を校舎に囲まれているからグラウンドより薄暗いけれど、それでも茜色の薄い光が帯状になって射している。ケヤキの梢が、さわさわと鳴った。日差しに炙られ続けた剥き身の腕に、風がとっても気持ち良い。私は、深く息を吸った。

 ここは、すごく綺麗だった。天国みたいに綺麗だった。

 だから。

 今というこの瞬間に、ここで出会ったのは運命だった。

「……」

 私は、一度足を止めた。魂が抜けたようにしばらく佇んでから、それへとゆっくり近づいていく。

 林立するケヤキの木。そのうちの一本の前。

 低い石垣を囲うように並べられた、五年一組の鉢植え達。

 その鉢植えの手前で、私は足を止めて、見下ろした。

 多分、すごく久しぶりだ。こうして、鉢を見下ろすのは。

 小さな鉢から伸びる細い茎に、繊細な葉が茂っている。成長途中で眺めたなら、雑草と間違えて抜いてしまったかもしれない。でも茎の先には楕円に似た形の蕾があって、私は、息を吸い込んだ。

 一つ。

 蕾が、開いていたから。

「赤い……」

 震える声で、囁いた。

 赤い。燃えるように赤い花。花弁の先は糸状に細い。多分まだ開花したばかりだ。見ればクラスの他の子も、ちらほらと花が咲き始めている。白に、ピンク。赤も少し。色は鉢によって様々だ。

 ……植えたのって、いつだっけ。

 私は茫然と回想する。多分四月の終わりか、五月の頭だったはず。よく思い出せなかった。

 でも、植えた。確かに植えた。だから花がここにある。種子は芽吹き、花は開く。私がぼんやりしている間に、それだけの時間が流れたのだ。

 私には、この花の世話をした覚えがなかった。でも確か友達の誰かから、『みいちゃんが水やりサボってるから、一緒にあげといたよ。ちゃんと世話しなよ』と呆れられたばかりだった。

 ……これの事だったんだ。

 私は花弁に手を伸ばした。薄い襞を、手でなぞる。花弁はしっとりと冷たくて、すべすべの手触りが気持ちいい。私は何だかうっとりした。

 このお花は、何て名前だったっけ。私は撫でながら考えた。

 息を深く吸い込むと、身体の奥が熱くなった。花の赤が、鮮やかに光る。心の奥がぞくぞくと、鳥肌が立つように泡立ち始めた。

 知っている。覚えている。そこまで忘れてはいない。花を弄る私の手に、知らず力がこもっていく。指の間で擦り潰れて、湿った音が大きく響いた。

「ナデシコ」

 ぶつっ、という音と共に、花弁が切れる音がした。

 茎が弛み、中空で仰け反った葉が揺れる。私は潰れた花弁を摘まみ上げると、衝動のままに、唇へと押し当てた。

 柔らかくて、とても冷たい。

 その温度はまるで、私がいつの日か空想した、あの子の肌のようだった。

 瞬間。

 私は唇から花弁を離し、がば、と顔を跳ね上げた。


「撫子ちゃん」


 ――――やっぱりこれは、運命だった。

 この出会いが偶然なら、それは運命と呼ぶべきだ。

 顔を上げた私の前方、プールに面した渡り廊下に――――栗色の髪の妖精が、青い顔で立っている。私の口の端が、ひくっと震えた。引き攣れたような痛みとともに、えへへ、と口から、声が漏れた。

 ……撫子ちゃん。


 何度だって、思い出してみせるから。


 私は忘れっぽい馬鹿だから、紺野ちゃんの事も撫子ちゃんの事も、これからもたくさん忘れてしまうかもしれない。

 でも、何度だって思い出してみせるから。

 だって、好きだから。

 この気持ちさえ忘れらなければ、私の記憶は永遠なのだ。

「撫子ちゃん……撫子ちゃん……撫子ちゃん……」

 満面の笑みで手を振ると、窓の向こうの撫子ちゃんは、口元を両手で覆った。そのまま後ずさって、ランドセルを廊下の壁にぶつけている。

 どうしたんだろう、体調でも悪いのかな。心配になった私は、そちらへ向かおうと腰を浮かした。

 でも、それを途中でやめた。

「あれ?」

 違和感のあるものが、視界の隅を過ったのだ。

 間違い探しをするように、私はゆっくり目を凝らす。多分、足元。そこに何か、おかしなものが見えた。

 やがて私は、それを見つけて驚いた。

 白いナデシコの花が、一つだけ。ぽつんと鉢植えの土に落ちていたのだ。

 花の、頭の部分だけ。

 まるで首を落とすように、ころんと一つ落ちている。

「……」

 私は緊張してしまい、上手く呼吸が出来なかった。

 その鉢植えの淵には、私がたった今思い出したばかりの女の子の名前が、マジックで綺麗に書かれていたのだ。


――――『雨宮撫子』


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