花一匁 33
袴塚市の住宅街を、私達は歩いていた。
街並みは灰色だ。街路樹や家々の庭に植えられた花が緑を添えているのを除けば、私達が眠る場所は、つまらないほど色がない。まだ空は青かったけれど、夕暮れ時が近いからか、薄らオレンジがかっている。
アスファルトの熱い匂いに、魚の焼ける匂いが混じる。
晩御飯の香りは自然と、私に理科の授業を思い出させた。
あの日もお昼が近かったから、中庭からは給食の匂いが流れていた。
そんな中で、私は先生からナデシコの種をもらった。次に紺野ちゃんがいないのに気付いて、そうして私は、孤独のあの子を追い駆けて――――。
今、一緒に歩いている。
「……みいちゃん」
紺野ちゃんが、私を呼んだ。
さっきからこういう風に、何度か名前を呼ばれていた。運動音痴の紺野ちゃんには早足の歩行が辛いのだ。でも私だって運動は不得手。それでも頑張っているのだから、紺野ちゃんにも頑張って欲しい。私は笑顔で「大丈夫、多分、もうちょっとだから」とエールを送っておいた。
それに、紺野ちゃんばかりに構っている余裕はなかった。私達が今いる場所は、初めて通る道なのだ。道順を覚えておかないと、後で迷ってしまうだろう。私はふとクラスの友達から聞いた怖い話を思い出して、ぶるっと一つ身震いした。
曰く、子供の帰りがあんまり遅いと、天狗とか、異人さんとか、そんなわけの分からないお化けが来て私達を攫っていくのだという。通っている少林寺拳法の道場で、そんな脅かしを受けたらしい。
私には『異人さん』の意味が分からなかったから、軽く流してしまったけれど……もしかしたらこの怪談、他人事ではないかもしれない。
私達二人の遊びは、終わりがいつか分からないから。
それでも、晩御飯までには帰るつもりだった。
紺野ちゃんのおうちでは、ご飯は一体何時だろう?
確認しなくちゃと思ったけれど、後で訊けばいいだろう。
「みいちゃん」
紺野ちゃんが、後ろからまた私を呼んだ。
私は電柱に齧りつき、振り返らずに「なあに?」と答えた。目を離したくなかったからだ。
でもあんまりしつこく呼ばれるから、私は紺野ちゃんがきちんと隠れているか心配になり、この時ようやく、振り返った。
そしてまさに、この時だった。
「やめようよ」
絞り出すように、言われたのは。
「……どうして?」
私は紺野ちゃんに全身を向けた。
背後はまだ気になるけれど、ここで紺野ちゃんが騒いだら、遊びはこのままお終いだ。そうなれば最後、私の信頼は地の底まで落ちるだろう。あの三人に、見つかって。だからもどかしさを堪えて、私は笑顔で訊いた。
紺野ちゃんの唇が、むずがるように小さく動く。長い前髪の向こう側の、黒い眼が私を射た。
深い闇がそこにあった。珈琲みたいに黒かった。私は何だか、ひやりとした。
紺野ちゃんは、もしかして。
私に、怒っているのだろうか?
禍々しさを嗅ぎ取って、竦んだ私が、聞いた言葉は。
「……こういうの、良くないと、思う」
蚊の鳴くような、声だった。
「……えへへ」
私は、つい笑ってしまった。
なあんだと、思ったのだ。心配して損してしまった。
紺野ちゃんの声は弱々しかった。きっと声を出すのを恥ずかしがっただけなのだ。そんなものまで怖がる私は、この状況に緊張し過ぎただけなのだ。
「紺野ちゃん、別に私達は悪い事してるわけじゃないよ? ううん、それどころか、いい事しようとしてるんだよ?」
「……いい事?」
「そう、いい事!」
紺野ちゃんの声は重たかったけれど、私は胸を張って見せた。
そう。私は悪い事なんてしていない。これはとても『いい事』なのだ。
「撫子ちゃんは三浦君に騙されてるか、脅されてるだけだもん。ねえ、そうじゃないとおかしいって思わない? 撫子ちゃんが三浦君と一緒にいるなんて変だよ」
紺野ちゃんが、何かを言いかけた。でも結局何も言わないまま、私を見るに止めている。
そんな様子を、見るにつけ――――私の胸の奥底が、ぞわり、ぞわりと脈打った。
「……えへへ、えへへへ、えへへへへ…………」
声を殺して笑う私を、紺野ちゃんが見つめていた。細い瞳。潤んでいた。その目が何故だか愛しかった。汚いとは思わないし、怯む事さえもうなかった。
これはあの時と同じなのだ。あの理科の授業の最中に、私の中で生まれたもの。あの時感じた生温かさが、同じぬるさで泡立っている。沼にずぶずぶ浸かるように、私の心が、どこかに落ちた。
ああ、可哀想に! 内気で『大人しい』紺野ちゃん!
紺野ちゃんは今までもこれからも一人では生きていけないのだ。私がいないと駄目なのだ。
ぞくぞくした。どきどきした。胸の奥がふわふわした。これほどの熱狂、私の人生にあっただろうか。こんな激情を与えてくれる紺野ちゃんは、実はとっても凄い子なんじゃないだろうか。
紺野ちゃんの両手は、スカートをぎゅっと握っていた。寂しい手。孤独の手。誰かが支えないとくしゃくしゃになってしまうだろう。『人間』初心者の手はきっと、脆い紙細工で出来ている。
あの日私が盗り損ねた、撫子ちゃんの鶴のような。
そして鶴を思い出すと、私の心に、別の感情も湧き上がった。
……三浦君。
死ねばいいのに。
「紺野ちゃん、一緒に行こう? 三浦君って悪い奴だよ? 撫子ちゃんだけじゃなくって、多分陽一郎も脅されてるんじゃないかなあ。だって前の理科の時間の時、三浦君ってば陽一郎の頭にチョップしてたんだよ? ねえ痛いよね、そんな事されたら嫌だよね? ねえ、紺野ちゃんもそう思わない……?」
「それは……」
紺野ちゃんが、口を利いた。陽一郎の名前に反応したのかもしれない。もしかして、好きなのかな。私は目を輝かせた。
でも、お喋りはここまでだ。
私は前方の十字路へ視線を戻し、にたぁ、と笑みを吊り上げた。
……三浦君の家、みぃつけた。
整然と碁盤の目のように並ぶ、灰色の一軒家の一つ。
質素な鉄の門扉の前には、ランドセルを背負った三人の後姿があった。
家の中を覗ける所があればいいけれど、とにかくもう少し寄らないと。
「紺野ちゃん、行こう? 早く撫子ちゃん達追い駆けよう? それで、三浦君がひどい奴だって証拠、掴もうよ?」
「……や、だ」
「え」
「やだ。私、帰る」
「紺野ちゃんっ?」
私は驚いて振り向くと、いきなり背中を向けて歩き出した紺野ちゃんを引っ張った。
「なんでっ? もうここまで来たんだよ?」
「やだ、やだっ、帰る、帰る、帰る……!」
「! だめっ、大声、出さないで!」
紺野ちゃんの声が大きくなっていったので、私は慌てて紺野ちゃんの口を塞いだ。その手を紺野ちゃんが無理矢理に剥がした。紺野ちゃんの爪が私の手を引っ掻いて、痛みがびりっと、甲に走った。
「! いたぁい!」
静か過ぎる住宅街に、私の悲鳴が木霊した。
紺野ちゃんがはっとして、私もぎくっと動きを止めた。
背中に、視線を感じたのだ。
私は、そうっと振り返って――――絶望の淵に立たされた。
震える声で、名を呼んだ。
「撫子、ちゃん……」
距離にしておよそ五メートル程先。灰色の十字路で、三人の男女が私を見ていた。男の子二人は驚き顔で、女の子一人は無表情。
顔色は、青かった。
「……美也子、どうして」
撫子ちゃんの声は小さかった。さっきの紺野ちゃんよりも小さかった。私の身体が、がたがたと震え出した。
終わった。
そう思った。
だから、この時の私には――――言い訳するしか、道がなかった。
「あの、通りかかっただけだから……、それだけだからっ、じゃあねっ」
言い終えた瞬間、私は脱兎の如く逃げ出した。
紺野ちゃんの手を引っ張ったけれど、紺野ちゃんは動かなかった。蛇に睨まれた蛙みたいに、その場に竦んでしまっている。腕を取られる抵抗と共に、私はつんのめって足を止める。「行こう」と涙ぐみながら言うと、やっと紺野ちゃんは動いてくれた。私達はもたもたと、みすぼらしく逃げ出した。
一歩、二歩、三歩と逃げて――――数歩も行かずに足が縺れ、私はそのままへたり込んだ。
もっと遠くへ逃げたかった。でも、逃げる力が尽きてしまった。
それに撫子ちゃんも三浦君も、陽一郎さえも。誰も追っては来なかった。
それが余計に、悲しかった。
「う……ああ、う……ううう……」
私は、ひくひくと肩を震わせて泣いた。
撫子ちゃん。撫子ちゃん。なんて冷たい目で、私の事を見るんだろう。
やっぱり理不尽だった。裏切られた気分だった。でも何より悲しかった。胸が張り裂けそうだった。
私は三浦君に勝てなかった。撫子ちゃんは私よりも、三浦君を選んだのだ。
涙で滲んだ私の視界は、モザイクみたいにぐちゃぐちゃだ。アスファルトの灰の中に、夕日色の涙が落ちる。
その景色の中に私は、白いシューズの輪郭を見た。
全然可愛くない運動靴。それを履いた足、スカート、女の子。
紺野ちゃん。
――――憎しみが、発作のように湧き上がった。
私は沸騰した感情に任せて、ぐん、と顔を跳ねあげた。
「騒いじゃ駄目って、言ったのに」
紺野ちゃんはだんまりだった。私の顔も見てくれない。目も前髪で隠れていて、結ばれた唇だけが見えている。全てが一気に嫌になり、私は号泣したくなった。
もっと文句を言いかけた時、声が、後方から聞こえてきた。
……三浦君達の声だった。
私を追わなかった三人が、角の向こうで話していた。
「……さっきのって風見と紺野か? あいつら、家がこっちの方なのか?」
「僕も知らなかったけど、でも柊吾、みいちゃんは確か三丁目だからこっちじゃないと思うよ? 紺野さんがこの辺りなのかなあ」
私は、耳を塞いだ。嫌。消えたい。居た堪れなくて辛いのに、足に力が入らない。それにこうなったら逃げるのも嫌だった。
このままここで、消えたかった。
「……雨宮。どうした?」
「……ううん」
「撫子、どうかしたの? もしかしてまだ、体調悪かったとか」
「それは大丈夫。ごめんなさい、なんでも、ないの……」
「雨宮。……顔色、悪いぞ」
控えめな三浦君の声に、撫子ちゃんは答えない。それか、声が小さすぎて私に届かなかっただけなのか。どっちか分からないけれど、どっちでも同じだった。
私は撫子ちゃんに、嫌われてしまったのだ。
俯く私を、紺野ちゃんが見下ろしている。それが気配で分かった。でもやっぱりだんまりだった。沈黙だけが、夕空の下で流れていた。
私は、虚ろな気分になる。
――――何の為に、私はこの子を『友達』にしたんだろう?
さっきの感情の昂りさえも、今となっては夢幻。もう同じ気持ちにはなれなかった。撫子ちゃんがいなければ、何の意味も持たないのだ。
私の手は、撫子ちゃんには届かなかった。
私の手には、紺野ちゃんしか残らなかった。
『ばい菌』と紙一重の、この友達しか。
私は、顔を上げた。
……やっぱり、許せない。
紺野ちゃんの所為で、大好きな人に嫌われた。今日という日が人生最悪の日になってしまった。
私はたくさんの悪口を考え、涙を湛えたままの目で、顔を上げた。
今度こそ、文句を言ってやる。
そのつもりで、顔を上げた。
でも、言えなかった。
何も、言えなくなってしまった。
予想外の優しさが、私の目の前にあったから。
「……え?」
白いタオル地のハンカチが、私の鼻先にあった。
「みいちゃん。帰ろう」
紺野ちゃんが、ぽつりと言った。
無表情に近い顔の、眉が気難しげに寄っている。やっぱり何を考えているか分からない。私は呆けてしまったけれど、すぐにますます嫌になった。
嫌だ。帰りたくない。もう疲れてしまった。一歩だって歩けない。
「やだよう、もう、やだ。やだ」
「みいちゃん。帰ろう」
「紺野ちゃん、一人で帰ればいいじゃん」
放っておいてほしい。こうなったのは紺野ちゃんの所為なのだ。こんな『友達』なんて知らない。もう『友達』でいる意味もないのだ。
だから、消えてくれたらいい。一人で泣かせて欲しかった。
「……」
でも紺野ちゃんは、その場から消えなかった。
ハンカチを突き出す手は、私に向けられたままだった。
あんまり長くそうしているから、私は、不思議になってしまった。
「……紺野ちゃん、なんで?」
「種の、おかえし」
紺野ちゃんは、短く言った。
ハンカチを、軽く揺すってくる。早く受け取れと、控えめに急かすように。
「みいちゃんが、種、私にくれたから。だから」
紺野ちゃんが、言葉を一度切る。
腰を少し屈めて、私の顔に、ハンカチを近づけた。
「私も、みいちゃんにあげる」
私はその言葉を、とてもぼんやりと聞いてしまった。
私は馬鹿だから、良い事も悪い事も呑み込むのに時間がかかる。だからきつめの冗談を言われた時であっても、ついつい笑顔で応えてしまう。
だから、私がきちんと紺野ちゃんの言葉を理解して、その意味が分かった時。
驚き過ぎて、私は絶句してしまった。
「……」
涙が、溢れ出した。
どうして。このタイミングで。自分でも分からないのに、熱い液体は私の頬を静かに濡らした。
紺野ちゃんは……馬鹿なんじゃ、ないだろうか。
だって、あの種は。ナデシコの種は。本当はクラスの誰かが、意地悪で殺したのだ。私もそれを知っていた。知っていて、知らないフリをして、紺野ちゃんに種を渡した。
それなのに。
「……」
私は、ハンカチを受け取った。
その白さを無言で見下ろし、しばらくの間そうしてから、私は元『ばい菌』の子のハンカチで、ごしごしと頬と目元を拭った。
顔を、上げた。
「……紺野ちゃん」
小声で、呼んでみた。でもそうやって呼んでみても、私は自分が何を言いたいのかまるで分かっていなかった。
でも、何か言わなくちゃと感じたのだ。今、紺野ちゃんに、言う言葉がある気がした。喉元までそれが出かかっているのに、あと一歩のところで出て来ない。苦しい。言いたい。吐き出したい。気持ちばかりが急いていた。ぽかぽかとした焦燥で、私は少し混乱した。それが一番不思議だった。この焦りは温かいのだ。何故か日向のようなのだ。
どうしてそう思うのだろう。私には分からなかった。
それくらいに馬鹿なのだ。そう思ったら可笑しくなって、私は少し、笑ってしまった。
自然と笑みが零れた事に、私は、すごく驚いた。
「みいちゃん」
「うん」
「帰ろう」
「……うん」
私は、立ち上がった。
目線が、紺野ちゃんと同じになる。
不思議、だった。紺野ちゃんの所為で、私は撫子ちゃんに嫌われたかもしれないのに。それなのに私はこうして見つめ合った紺野ちゃんの目を、もう黒いとは思わないのだ。
琥珀に澄んだ目の中に、空の青と橙が光る。あ、綺麗。自然に私はそう思って、すっと、手を、差し伸べた。
「……帰ろっか、紺野ちゃん」
紺野ちゃんが、息を吸い込んだ。私は涙目のまま笑ってみせた。
私達の間に、もう壁なんてないのだ。『人間』も『ばい菌』も、学校のルールも関係ない。私達がどういう生き物なのか、それらを決める言葉さえ、涙と一緒に流れたのだ。
「……みいちゃん」
紺野ちゃんが涙声で私を呼んだ。手が、持ち上げられていく。橙の日差しが、雲の切れ間から帯状に射した。私も手を、近づけた。
茜色の空の彼方へ、黒い鳥が羽ばたいていく。遠くの方からは、こ――――ん、と。チャイムの音が鳴り響いた。
私達の学校の、下校を促すチャイムだろう。
門出を祝われた気分になり、私はとっても嬉しくなった。
今のはきっと、私達の〝遊び〟が終わった合図。
だからもう、これでおしまい。
これから私達は白い気持ちで、二人で一緒にいればいい。
光の中で、〝遊び〟の終わりに、私達の手がまさに、触れ合おうとした時だった。
誰かの声が、聞こえたのは。
「柊吾、どうした? 撫子ちゃんと、陽一郎君も」
私達は驚いて、中空で手を止めてしまった。
――――誰?
分からない。
でも、男の人の声だった。
「撫子ちゃん、陽一郎君。いらっしゃい。大きくなったなあ」
「三浦君の、お父さん」
撫子ちゃんの声が聞こえ、一拍遅れて「こんにちは」と礼儀正しい挨拶が続く。直後に陽一郎の慌てふためいた挨拶も聞こえてきて、私は一層ぽかんとした。
――――三浦君の、お父さん?
「柊吾。窓から様子が見えて気になったんだ。さっき走っていった子は追わなくていいのか?」
「いい。っていうか、別に俺らと遊んでたわけじゃねえし」
三浦君が歯切れ悪く言う。私の身体が、かあっと熱くなった。現状を思い出したからだ。
見られていたのだ。三浦君のお父さんに。
もう一刻の猶予もなかった。こんな所、いたくない。撫子ちゃんの事は気になるけれど、こんな状況では弁解なんて何もできない。仕方ないけれど、明日学校で更なる言い訳を試みるしかなかった。
今度こそ逃げよう。
私が半べそで紺野ちゃんに目配せすると、気付いた紺野ちゃんも頷いてくれた。私達は足を忍ばせ、この場から去ろうとした。
でも、そこまでだった。
私は――――逃げられなく、なったのだ。
「……柊吾、さっきの子。風見さんの所の、『みいちゃん』じゃないか?」
え?
身体が、金縛りみたいに固まった。
「父さん、知ってんのか? 風見の事を? なんで?」
「知ってるも何も、柊吾が低学年の時にも、うちで話題にした事があったじゃないか。父さんは覚えてるのに、同じ学校の柊吾は忘れてるのか」
「忘れた」
「弱ったな」
どくん、どくんと、血管に血が通う音が自分の耳に聞こえてくる。私はがちがちになった身体を機械的に動かして、民家の壁に、べたりと張り付いた。
「みいちゃん……?」
紺野ちゃんが戸惑った様子で私を呼んだけれど、返事はしなかった。する余裕が、なかった。
電柱の影から私が十字路を覗き込むと、三浦家の玄関先には、撫子ちゃん達三人の他に、一人、男の人が混じっていた。
ゆったりとした白いTシャツに、カーキ色のズボン。全体的に雰囲気がラフで、おうちでだらだらしていたのだと分かる。涼しげな雰囲気に似合わず身体つきはがっしりしていて、そういう所が三浦君にとても似ていた。
私の身体に、じっとりと汗が浮いた。
その理由は、気温の所為だけじゃなかった。
……三浦君の、お父さん。
死んで。
何も喋らないで、今すぐ死んで。
私は、全力で呪った。この人は口が利けなくなるか、即刻、ここで死ぬべきだ。死んで。死んで。死んで。死んで。死人に口なしという言葉があるはず。だから今すぐ死んで。何も喋れないように、早く、早く。
でもその望みが届かないまま、三浦君のお父さんは――――べらべら、無責任に喋り出した。
「柊吾が二年か、三年の時だったか。父さんがPTAの役員してたの覚えてるだろう?」
「そうだっけ?」
「そうだって。それで、遥奈……母さんの代わりによく学校行事に関わったりしてたから、他の親御さんたちからよく話を聞いていたんだ。あの子は保護者の間では有名なはずだよ」
三浦君のお父さんが、少し真面目な顔になった。
「……柊吾。あの頃、柊吾とは違うクラスの事だけれど、学校でちょっとした苛めがあったそうだ。何人かの女の子達で寄って集って、一人の女の子に意地悪していたらしい」
「意地悪? 苛め?」
「そうだよ。かなり話題になっただろうに、高学年ともなると皆忘れてるのか」
「クラス違ってた奴なら分かんねえって。うちの学校、クラス数多いから」
「そうか。それも理由の一つになるのか。……まあ、早い段階に何とか打ち解けられたみたいだし、そこから皆と仲良くなれたって聞いていたから、安心はしていたけれど。いや、よかった。柊吾は女の子の事は全然喋ってくれないし、でもあの子の事は、ちょっと気がかりだったから」
「父さん、余計なこと言わなくていいから。で、その話が風見と何の関係があるんだ?」
顔を赤らめる三浦君へ、三浦君のお父さんは困ったような顔をする。私は、汗ばんだ手をきつく握った。息遣いが荒くなった。
やめて、言わないで、お願い、駄目。それは違うの、知らないの。だってそんなの変だもん。違う。私の事じゃない。私の事じゃ、ないんだもん。
だって。
私は、綺麗だからだ。
汚れなんて付いていない。一つも付いていないのだ。
ほら、ここにはきちんと笑える美也子がいる。元気で明るい美也子がいる。私は綺麗。私は綺麗。『汚い』なんてあるはずない。
だから、違う。私は違う。『ばい菌』の子とは違うのだ。
だから、言わないで。そんな終わった事を、今更蒸し返して晒さないで。
やめて、やめて、やめて、やめて――――。
…………。
やめろ。
「……柊吾が、覚えてないなら。この話はやめにしよう」
三浦君のお父さんは、優しい口調で言った。
私の肩から、一気に力が抜けていった。かくんと膝から崩れ落ちる。その痛みが熱かった。
「柊吾、今も学校で苛めはあるかい?」
「さあ。あるんだろうけど、分かんねえな」
「そうか。……もしお前とか、お前の身近でそういう事が起こったら。ちゃんと言うんだぞ。父さんも母さんも聞くから。恥ずかしいなら、どっちかでもいいから言ってくれよな」
「父さん、何言ってんだ?」
三浦君は面倒臭そうに目を細めたけれど、三浦君のお父さんは、ふと、撫子ちゃんに目を向けた。
慈しむように目が優しい。そしてごく自然な手つきで、撫子ちゃんの髪に触れた。
撫子ちゃんの身体がぴくんと弾む。私も息を呑んでいた。
三浦君のお父さんは、ただ朗らかに笑っていた。
ほんの少しだけ寂しそうに、優しい顔で笑っていた。
「僕も、経験あるよ。された事もあるし、した事もある。でも今にして思えば、当時『された』事は鮮明でも、『した』事の方はぼやけてるんだ。どうして酷い事を『された』記憶の方が、鮮やかに残ってしまうんだろうな。僕は誓って言えるけれど、ここまで生きてくる間に、たくさんの人を傷つけてきた。中には僕の所為で人生が狂ってしまった人だっているかもしれない。僕が苛めを『した』事だって、今だから『した』って分かるだけで……当時は悪ふざけの延長くらいの意識しかなくて、自分が人を苛めてる自覚だって、無かったんだ」
撫子ちゃんの目が見開かれていく。
茜の光を浴びた長い睫毛が、黄金に輝いた。
「撫子ちゃん。学校の事は多分僕よりも、君の方が色んなものを見てきてるんだと思う。僕は男で、君は女の子だから。君に見えていて僕に見えていない事が、僕が大人になった今でも、たくさん、たくさん、あるんだろうけど……でも、男女なんて関係なしに。――――苛めは、辛いな。いつの時代も」
三浦君のお父さんが、撫子ちゃんに笑いかけた。
「当事者もだけど、周りも。見てる側だって辛いんだ。人が人を傷つけてるんだから、それは当たり前の痛みだ。……だからこそ、僕は思うんだ。そんな辛さと真剣に向き合って、当事者の子と同じくらいに、傷ついてしまう人は……なんて、美しいんだろう、って」
三浦君のお父さんの微笑の、悲しみの色が深くなる。
それを冗談のようにふわっと笑い飛ばして、言った。
「撫子ちゃん。柊吾だけじゃなくて撫子ちゃんも、学校で何かあったら遠慮なくおじさんに言ってくれていいんだぞ?」
「三浦君の、お父さん」
撫子ちゃんが、顔を上げた。
「どうしたら、いいですか」
三浦君のお父さんが、手を止めた。
「助けたい子が、います」
「……」
「苛めじゃないかもしれないの。でも、苛めに見えるの。自信が、ないの。叩かれたり、仲間外れにされたりしてるわけじゃないから。でも、苛めに見るの。もしかしたら、そのグループでこれから仲良くなっていくのかもしれない。だから、私があの子達の関係を苛めかもしれないって思ったのは、勘違いかもしれないの。だって誰も、そういう風に言わないから。だから私があの子達の関係を、友達じゃないって思うのは、口に出しちゃいけない事かもしれないの。だってそんな事を言っちゃったら、私は、あの子に出来た友達とか、グループとか、そういう関係を、壊しちゃうかもしれないから。……でも、気になるの。助けないと、いけない気がする」
長い台詞を喋る撫子ちゃんの隣で、三浦君と陽一郎が口をあんぐり開けている。
三浦君のお父さんは、すとんとしゃがみ込んだ。
目線を撫子ちゃんに合わせ、「撫子ちゃん」と、優しく呼ぶ。
「撫子ちゃん。その子は、撫子ちゃんの友達?」
「……。違います」
撫子ちゃんは、否定した。
その否定に、背後で息遣いが聞こえた気がした。
私の心臓が、どくんと打った。背を伝った汗が、服の中で蒸した。
「喋った事が全然ないの。だから、友達って言っちゃ、いけないと思う」
「……。撫子ちゃん。今から僕が言う事は、実際に君がやらなくてもいい事だ。それでも僕の経験談として、君がいつか、学校の苛めを消せるかもしれない言葉をあげよう。聞くかい?」
「言葉?」
「そう。言葉だよ」
「聞きたいです」
三浦君のお父さんが、撫子ちゃんに顔を近づけた。内緒話をするような雰囲気に、私の心が、緊張で締め上げられる。
心だけじゃない。
首も、一緒に締められた気がした。
「その言葉は。……実は。撫子ちゃん。何でもいいんだよ」
「……え?」
「どんな言葉でもいいんだ。君の声なら、何でも。挨拶でも名前を呼ぶ事でも、本当に何だっていい。大事なのは、その子と会話をする事だ。その子を想う言葉なら、心を込めた言葉なら、声に出した言葉なら。どんなものでも構わないんだ」
「会話……?」
「撫子ちゃん。言葉は強いぞ? 僕は苛められている事もあったって言ったけれど、その時誰も、僕と喋りたがらなかったよ。寂しかったけれど、皆がそうしてしまう気持ちは分かるんだ。苛められっ子と話すのは、すごく勇気のいる事だ。自分も苛められるかもしれないもんな。……でも、だからこそ。そんな危険を冒してまで、僕に話しかけてくれた子の事が。僕には光に見えたんだ」
「光……」
「ああ。女の子だったよ。すごく綺麗に見えた。こんなに綺麗な子は、世界中のどこを探したって見つからないって思った。僕はあの時、救われたんだ。一人だった僕に、僕の為だけの言葉を使ってくれた。そんな人が世界にいる。それが、ちゃんと分かるだけで……僕は。あの場所で、戦う力をもらえたんだ」
撫子ちゃんは、その話を真剣に訊いていた。そして何かを得心したように頷くと、「言葉は、強い」と繰り返している。その様子を三浦君のお父さんが、優しい目で見守っていた。
でも私は、その目を優しいとは思ったけれど、朗らかだとは思わなかった。
何故か、鋭く感じたのだ。
まるで、警察とか、そう。
罪を暴く、人のような。
「撫子ちゃん。……おじさんにもっと、その話を聞かせてくれる?」
三浦君のお父さんの言葉に、撫子ちゃんがこくんと頷く。
今度は、はっきりとした首肯だった。隣では三浦君と陽一郎が、目を白黒させている。
「雨宮と父さん、何話してんだ?」
「大事な話。撫子ちゃん、柊吾と仲良くしてやってくれてありがとな? こいつは人の事を見てるようで取りこぼしも多いから。撫子ちゃんみたいなしっかりした子が付いててくれて、おじさん嬉しいよ」
「あー、父さん、もう部屋に引っ込んでろって」
三浦君が、足蹴りを繰り出して暴れ出す。
子供っぽいその姿を、視界の端に捉えながら――――私は、ぐるりと振り返った。
撫子ちゃん達は何か話していたけれど、私には意味が分からなかった。頭にも入らない。唯一記憶に焼き付いたのは最初の方、三浦君のお父さんの呪われた語りが全てだった。心の中で何か、棘棘としたものが生え揃った。
振り返れば、必ずそこにあるだろう。
予感と共に振り返ると、想像通りの顔があった。
紺野ちゃんは驚きの顔で、私の顔を凝視している。
「みいちゃん」
「言わないで」
遮った。
「違うよ? 紺野ちゃん違うよ? 三浦君のお父さんが言ってたのなんて嘘だよ? ね、私、今日紺野ちゃんと一緒に遊んでるよね? 約束守ってるでしょ? 私は友達との約束を守れる子だよ? ね、ね、嘘なんて私、ついた事ないでしょ……?」
壊れたテープレコーダーみたいに、私はがむしゃらに喋り続けた。
「私、学校のルール守ってるよ? 我儘なんて言ってないよ? 皆に合わせて笑ったよ? 皆と違う事なんてもうしてないよ? 守ってるよ? 守ってるよ? 守ってるよっ? ねえっ元気に笑って話してるよっ? だから大丈夫、私は『ばい菌』じゃない。違うもん、違うもん、違うもん、違うもん……」
私の権幕に、紺野ちゃんが後ずさる。
ぷつん、と。
私の中で銀色に光る糸が、何の前触れもなく切れた。
「違うもん!」
絶叫した。
「違うもん! 私はっ、紺野ちゃんとは違うんだからぁ!」
紺野ちゃんが、顔色を変えた。
構わなかった。
私は絶句する友達の脇をすり抜けて、走ってその場から逃げ出した。
風を切って駆けた途端、頬に髪の束が貼り付く。風はひやりと冷たくて、甘い匂いが微かにした。夜に少し近づいたのだ。今は一体何時だろう。まだ五時くらいのはずなのに、永遠の夜闇に紛れてしまったようだった。私は涙を散らしながら、一人でただ走り続けた。空気は薄紅色に染まっていた。街は灰色のままだった。空が赤い。いつの間にか。もう青色ではなくなっている。この道路の果てが地獄ならいいのに。死にたいと、随分久しぶりに私は思った。
私は走って、走って、走って――――やがて疲れて、足を止めた。
黄昏の風が、私の髪を嬲っていく。見知らぬ住宅の群れの中で、庭木の枝葉がそよいでいく。寂しい葉音を聞きながら、私は一人で泣き続けた。
……分かっていた。
私は馬鹿だけれど、それでも、これは分かっていた。
「……」
手をゆっくりと掲げると、そこには皺くちゃになった白いハンカチ。
「紺野ちゃん……」
私は、顔を歪めた。
いつ見ても不機嫌そうで、全然笑ってくれない子。
私はいつもそれが不服で、つまらないと感じていた。
だから。
嬉しかった。
あの理科の授業の廊下で、紺野ちゃんが私に涙を見せてくれたのが。
あだ名で呼んでもいいのかと訊いて、心細そうに縋ってくれたのが。
今受け取った、ハンカチだって。
私は、嬉しかったのだ。
……紺野ちゃん。
さっきは恨んだ。紺野ちゃんの所為で、撫子ちゃんと上手くいかなくなった。そんな風に、恨んでいた。今だって聞かれたくない事を聞かれてしまった。恥ずかしかった。死にたかった。それだけじゃない。死んで欲しかった。私の秘密を知った人、全員に。
――――でも。
「紺野ちゃん……」
唇を、きゅっと引き結ぶ。
私はくるんと後ろを向いて、元来た道を走り出した。
――――戻ろう。紺野ちゃんの所へ。
そして謝るのだ。出来るだけ早く謝らなければならないのだ。
私はまだ紺野ちゃんを恨んでいる。でも紺野ちゃんと話さない事には、責める事もできないのだ。それに私だって紺野ちゃんを傷つけた。取り返しのつかない事を言ってしまった。『友達』に酷い事をしたのは私だって同じなのだ。それに『友達』に悪い事をした時は、どっちも謝らないと駄目なのだ。それが仲直りの早道なのだ。
紺野ちゃん、紺野ちゃん。ごめんね、ごめんね。私はびっくりしてしまっただけなのだ。私を知る人がいて、その人の事が嫌で、嫌で、嫌で、嫌で、だから錯乱してしまっただけなのだ。
紺野ちゃんは悪くない。全然、何も、悪くないのに。
なのに私は、紺野ちゃんを一人ぼっちにしてしまった。
孤独を脱したはずの紺野ちゃんを、また孤独にしてしまったのだ。
そんな、酷い事。『友達』のする事ではないのだ。
「紺野ちゃん、紺野ちゃん……!」
私の頬を、涙が零れていく。今度は恨みの涙じゃない。悔しさの涙でもなかった。ただ、紺野ちゃんの事だけを想って流れた涙だった。
紺野ちゃんは捻くれ者だから、謝っても許してもらえないかもしれない。でも、帰るなら二人がいい。この道路の先が地獄なら、紺野ちゃんと一緒がいい。
そこまで考えた私は、これは名案かもしれないと泣きながら笑った。
私達は、互いに酷い事をし合ったのだ。
そんな二人が共に地獄に落ちるのは、何だか美しい気がした。
私は、笑みを深める。良い。素敵。綺麗。私達は地獄の果てまで一緒なのだ。
紺野ちゃん。
ごめんね。
会いたい。
だから。
さっき繫げなかった手を、今度こそ繋いで『ごめんね』が言えたら。
紺野ちゃんは、私を許してくれるかなあ?
それを想像したら、私は何だか、悲しいのに嬉しいような気分になり、紺野ちゃんを見つけるのが、すごく楽しみになってしまった。
私は角を幾つも曲がり、そしてさっきまでいた十字路近くに辿り着く。
最後の角を曲がった瞬間、私はほっと息をついた。
紺野ちゃんのおかっぱ頭が、遠くの方に見えたからだ。
脱走した子猫が見つかった気分ってこんな感じかなあ。ほっこりと感動的な気持ちが、一瞬だけ私の心を温かにした。
でもそれは、本当に一瞬だけの事だった。
「え?」
私は、驚いて立ち止まる。
確かに紺野ちゃんは、さっきと同じ場所に立っていた。
でも、一人では、なかったからだ。
「紺野さん、こんな所で会うなんて嬉しいわ」
私はどきりとして、息を詰まらせてしまった。
「ねえ、何見てたの? あら、答えなくてもいいのよ? ねえ、見てたんでしょう? やっぱり貴女も羨ましいのね。そうよね、羨ましいわよね、綺麗だものね、雨宮さんって。独特の雰囲気あるもの、羨ましいわよね、羨ましいわよね……雨宮さんって、綺麗よね……『雨宮さんって、綺麗よね』……『雨宮さんって、綺麗よね』……」
綺麗な声。エコーが掛かったみたいな声だった。しかもすごく大人びている。小学生の女の子の話し方じゃない。もっと年上の、女の人みたいな話し方だった。
この子は、私達とは何かが違う。
でもその語りは紛れもなく、私達と同学年の女の子によるものだ。
私の前方、紺野ちゃんの真向いに――――赤いランドセルを背負った、長い黒髪の少女が一人。背筋を伸ばして立っていた。
「あ……」
私は目を瞬いた。
私はこの子を知っている。話した事は無かったけれど、同じクラスの女の子だ。
確か、名前は。
……。
えっと。
誰だっけ。
私は自分でもびっくりした。もう五月なのに、私はクラスメイトの名前を全員覚えていないのだ。
考えてみれば撫子ちゃんばかり見ていた私は、他の子なんて眼中になかった。いつもの私だったらありえない事だ。クラスの皆を覚えるという基本中の基本さえ疎かにしていたなんて。私はひっそり反省する。この怠けは、これから五年一組で過ごす上で致命的だった。
だから、私は困ってしまった。
すぐにでも紺野ちゃんに近寄りたい。でも私にはこの子が誰か分からないのだ。クラスメイトなのが確実な分、知ったかぶりも通用しない。近寄り難さで足が止まった。
邪魔だなあ、どこかに行ってくれないかな。
じれったく思いながら私はその子の顔を見た。
そして、あ、と間抜けな声を上げてから――――びっくりして、私は大声を張り上げた。
「……あぁぁっ!」
前方の二人が、ぎょっとした様子でこちらを振り向く。
でも私はもう怯まなかった。堂々とアスファルトに立ち、にこっと余裕の笑みで二人に応える。
思い出していたからだ。この子が誰で、どういう子だったか。
すっかり忘れていた。本当に私は馬鹿だと思う。私は五年生になった時から、この子と話してみたいと浮かれていたのに。あの席替えのあった日以降、私の中でこの子の存在感は、虹から灰に変わったのだ。あの麗しの妖精の前には、どんな美少女も塵芥。私の中でこの女の子は灰だった。綺麗さっぱり忘れていたし、興味を持っていた事さえも、私は覚えていなかった。
だって。私は頬を赤く染めた。
撫子ちゃんが、可愛かったから。
だから今この女の子を見ても、やっぱり思ってしまうのだ。
明らかに撫子ちゃんより格下のこの子なんて、やっぱり塵芥同然だった。
でもこうして向かい合ってみて、失った興味が再び頭をもたげてきたのも事実だった。時間が経って色の抜けた写真に魔法がかかって、色彩を取り戻していくようだった。
この美少女と話してみたい。私はにっこり微笑んだ。
女の子は驚愕の顔で私を見ていて、紺野ちゃんは何故かまた俯いてしまっている。
何を話していたんだろう。私も今すぐ混ぜてもらおう。
「ええと、こんにちは。話すの初めてだよね、えっと」
私の台詞は、そこで叩き潰された。
「見たわねっ!」
ぎらり、と。
尖った声と共に、切れ長の目が私を見たから。
「え?」
「見たわね? 聞いたわね? ……ねえ、あんたって風見美也子よね? 成績あんまり良くないお馬鹿な『みいちゃん』よねっ?」
私は笑顔のまま、ぴたっと呆けた。
今、何て。
……馬鹿?
目の前の女の子が、にいっと笑った。
「――――風見美也子! 『あんたは何も見なかった!』」
「あの、今、私のこと……」
「『何も見なかった!』」
「待っ……」
「『何も聞かなかった!』」
「私の、話を」
「『忘れちゃえ!』」
女の子が、私に詰め寄り、笑い、叫んだ。
「『あんたは馬鹿な女だもの! ぜーんぶ忘れちゃえばいいのよ!』」
その言葉を、聞いた、瞬間。
私の視界が、いきなり真っ白に染まった。
「あ……れ……?」
桜吹雪のようだった。遅咲きの桜が一斉に散っていったような。花弁の乱舞の只中に放り込まれたようだった。灰色の景色が、赤い空が、民家の塀が、植物の緑が、全てが分解されて白い光に変わっていく。火の粉が空へ上るように、私の世界の全てが壊れ、天へと焚き上げられていく。
視界いっぱいに白が迫り、身体がみるみる重くなった。瞼も何だか重くなって、急激な眠気が私を襲った。
私は、我に返って焦り出した。
待って。待って。駄目、やめて。何が駄目なのか分からないけれど、とにかくこれは駄目なのだ。
手を、闇雲に前へ伸ばした。
今、伸ばさなくちゃ。もう届かなくなる気がした。
だって私はその為に、ここに戻ってきたはずなのに。
「紺野ちゃん、紺野ちゃん、紺野ちゃん……!」
重い身体を引き摺り、白い火の粉の舞い飛ぶ中を、私は無理やり歩いた。
でも、何も見えなかった。『友達』の姿はどこにも。
私は、その瞬間に理解した。
一つの怪談の記憶が、私の脳裏を掠めていく。
紺野ちゃんは……攫われてしまったのだ。
この美しい『天狗』、もしくは『異人さん』に。
「呉野、さん……」
私は呻き、膝から崩れ落ちた。
朦朧とする意識を繋ぎ、何とか呼んだ名前さえも、白い光に還ってしまい、何も残りはしなかった。
こうして。
私の日常は、変貌した。




