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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 30

「雨宮。ちょっといいか?」

 昼休みの教室で、私はその声を聞いた。

 私は給食当番に当たっていたから、牛乳瓶の入ったケースを一階の給食室前へ下ろしに行っていた。そのついでに中庭のナデシコを観察し、成長を一しきり眺めてにやけた後に、皆と雑談する為に教室へ戻ってきた。

 男の子のぶっきらぼうな声を聞いたのは、その矢先の事だった。

「三浦くん、どうしたの?」

 綺麗な声が、教室の隅から聞こえてくる。

 私がさっと目を向けると、窓際近くにちょこんと愛らしく掛けた撫子ちゃんの姿があった。机は四つ並べてあって、他にも女の子が三人座っている。

 その脇に一人、日焼けした男の子が立っていた。

「……あ」

 私は、呆けた声を上げた。

 三浦柊吾君だ。

 私はもう、彼の名前を覚えていた。以前に理科の授業で、撫子ちゃんを庇った子。近くには陽一郎も立っていて、着席する撫子ちゃんを見下ろしながら、そわそわとズボンのポケットの裏地を出したり引っ込めたりしている。分かりやすいくらいに恋していた。

 でも私は陽一郎が撫子ちゃんの名前を呼び捨てにしても、あんまり悪い気はしなかった。それは陽一郎が女の子っぽいからかもしれないし、誰に対しても人懐っこい子だからかもしれない。私が不愉快に思うような事を、陽一郎はしない気がする。無害だと思うのだ。そんな安心感のある男の子って貴重だなあと、私は顔を耳まで赤く染めた陽一郎を見ながら思った。

 でもだからと言って、男の子が二人撫子ちゃんに話しかけて、何も思わないわけじゃない。私は身体だけミユキちゃんや夏美ちゃん達の集まる方向に向けながら、視覚と聴覚を始めとする全神経を、窓際の会話へ集中させた。

 首を傾げる撫子ちゃんを、三浦君はむすりとした仏頂面で見下ろしていた。

 窓からの日差しは今日も明るく、三浦君の身体を白い光で縁取っている。逆光で少し目に眩しい。爽やかな風がクリーム色のカーテンを揺らして、日向の緑の匂いを運んできた。

 私が目を眇めていると、三浦君が、ぼそりと言った。

「鶴、折れるか?」

「鶴? 折り紙の?」

「ん」

 三浦君が頷いたのを見て初めて、私は三浦君の浅黒くて大きな手が、色とりどりの折り紙を持っているのに気付いた。

「何回か折った事あるけど、忘れた。折り方、教えて欲しいんだ」

「私が折ったらいいの?」

「ああ。いいか?」

「一枚、ちょうだい」

 撫子ちゃんの白い手が、三浦君の手に伸びた。三浦君は折り紙を扇状に広げて見せる。トランプのババ抜きみたいに並んだ紙の中から、撫子ちゃんは少し迷う素振りを見せて、何の色もついていない、真っ白な紙を選んだ。

「撫子、白でいいの?」

 不思議そうな陽一郎に、撫子ちゃんがこくんと頷いた。

「いいの。きれいかな、って」

 撫子ちゃんが、折り紙を手に立ち上がった。

 同じグループの子達へ「ちょっと行ってくる」と声を掛けて、三浦君と陽一郎の二人と連れ立って歩いていく。

 どこに行くのかと目を剥いて見つめていると、「みいちゃん」と背中から声がかかった。私は、「うん」と頷いて後ろを向く。そして、我に返ってぽかんとした。

「紺野ちゃん」

 紺野ちゃんだった。手には、リコーダーと教科書、黄色のファイル。ファイルの端からはよれた譜面が覗いている。

 あっと声を上げて、私は時計を振り返った。

 一時十分。休み時間は、あと五分で終わりだった。

「音楽室、行かないと」

 紺野ちゃんが、小さな声で言った。その紺野ちゃんのずっと後ろの方では、ミユキちゃんとか夏美ちゃんとか、私の友達も次の授業の支度をしている。音楽室は少し遠い校舎にあるので、今から出発しなければ、駆け足で向かわないといけなくなる。

 ミユキちゃん達は何の用意もしていない私を見ると、「みいちゃん、早くー」と紺野ちゃんみたいに言ったけれど、それから出し抜けにこう付け足した。

「みいちゃん、放課後ひま? 夏美んちで遊ぼうって皆で話してたんだけど」

「え? あ、うん。行く行くー」

 私はこくんと頷いた。特に予定もなかったはずだ。でも突然の誘いを喜ぶ余裕は今の私にはなく、むしろ声を掛けられた事で気が散ると思ってしまった。

 紺野ちゃんが、「みいちゃん」とまた私を呼んだ。また音楽の準備で急かされたのかもしれない。私はそっちを振り向きもせずに、「うん、準備する……」と気もそぞろに返事をした。

 でも答えながら、私の手は動かなかった。ただ撫子ちゃんの姿を探して、視線は室内を彷徨った。

 そして、すぐに発見した。教室の真ん中辺りにいたのだ。

 その姿を見て、私の全身が固まる。

 撫子ちゃんと三浦君は――並んで、座っていたからだ。

「最初はどう折るんだ? 三角? 四角?」

「三角。でも、四角からでもできるよ。どっちでもいいの。三角に折るのは、折り目を付けたいだけだから」

「折り目?」

「付いてた方が、分かりやすいと思う。見てて」

 撫子ちゃんの白い指が、白い紙を折り畳んだ。撫でるように紙に触れて、折り目を丁寧に付けていく。そんな撫子ちゃんの指の動きを、三浦君はじっと見ていた。真剣そのものの表情で、でも時々目を上げて、撫子ちゃんの顔を見つめている。

 撫子ちゃんが、ふっと顔を上げた。

 目が合った三浦君は動揺したみたいだけど、「私、早くなかった?」と撫子ちゃんが訊くと、何でもなさそうな声で「ああ」と答えていた。

「あとは、ここを広げて、嘴の部分と、尻尾の部分を折ってあげて、完成」

 撫子ちゃんの指南を受けて、三浦君も鶴を折り始めた。武骨な手が不器用に赤い折り紙を畳んでいき、時折首を傾げて唸っている。

「次、どうするんだ?」

「そこは、こう。……うん、そう。合ってる。三浦君、上手」

「なんか俺の、折り目ぐちゃぐちゃで汚くねえか?」

「そんな事ないよ」

 背後から、「みいちゃん」とまた声が掛かった。でも私は、「うん」としか答えなかった。目が、離せなかったから。

 それに、暗い気持ちになったから。

 ……仲、いいんだなあ。

 羨ましかった。三浦君が。先日陽一郎が紺野ちゃんと仲良さそうに話していたのを見た時も同じように思ったけれど、その時よりもずっと強い切なさで、私の胸がきゅうっとなった。

 撫子ちゃんと三浦君。この二人は多分、五年に上がる前にクラスが同じだった事がある。その所為で気安いのか、女の子にはあんまり話しかけている所を見ない三浦君は、撫子ちゃんにだけは時々声をかけてるみたいだった。

 私は、ますます羨ましくなった。

 いいなあ。三浦君。

 撫子ちゃんに、手ずから折鶴を教えてもらえて。

 三浦君の折った鶴は、確かに本人の言うように折り目がぐちゃぐちゃで汚かった。羽を広げて机の上に乗る姿は、墜落してそのまま死んじゃったんじゃないかと思うくらいにぼろぼろの姿。でもそれを指して撫子ちゃんは、「そんな事ない」と言ったのだ。私は、唇を噛んだ。

 どうして、そんなお世辞を言うのだろう。

 納得のいかない私の耳に、丁度、撫子ちゃんの答えが聞こえてきた。

「見た目とかじゃなくて、気持ちだと思う。三浦君が一生懸命折ったものだったら、お母さん、すごく喜んでくれるよ」

 三浦君が、驚いた顔になる。

 撫子ちゃんが、すっと両手を差し出した。

 私も、目を見開いて驚いた。

 撫子ちゃんの真っ白な手の上には――同じくらいに真っ白な、一羽の折鶴が乗っていた。

「それ、くれるのか?」

「うん。三浦君のお母さんに」

「……聞こえてたのか」

「ごめんなさい」

 撫子ちゃんが、すとんと俯いて謝る。でも横から聞いていただけの私は混乱した。

 ……三浦君の、お母さん?

 意味はちんぷんかんぷんだ。でも問題はそこじゃない。ぽっと出の人間なんてどうでもよかった。それよりもずっと重大で見過ごせない問題が、今目の前で起こったのだ。

 私は、ショックを受けていた。

 ……プレゼントを、したのだ。

 撫子ちゃんが、三浦君に。

「さっき男の子達で話してたでしょ? 鶴、皆で折るって。迷ったんだけど……嫌じゃなかったら、私のも。お願い」

「謝る事じゃねえし。っていうか……これ、いいのか。もらって」

「……やっぱり、白じゃない方が良かったかな。折り直す」

「いや」

 三浦君が、鶴に手を伸ばした。

「これ、もらう。……さんきゅ」

 あっと私は叫んでしまった。でも鶴はもう三浦君の手の中で、白く清廉に光っていた。

 撫子ちゃんが、三浦君の顔を見る。お人形さんみたいな白い顔に、薄っすらと、本当に薄らと、清らかな微笑みが乗った。

「お母さん、お大事に」

「元気になったら、うち来るか? 母さん、喜ぶと思う」

「うん。私の時も三浦くんのお母さん、いっぱい心配してくれてありがとうって、先に伝えてくれる?」

「おう」

 三浦君が、席を立った。

 そして鶴の折り方を凝視して頭をパンクさせていた陽一郎を連れて教室の一角へ行くと、「折り方、習った」と数人の男子達へ喋りながら、五時間目の授業の用意を手に、ぞろぞろ教室を出て行った。

 私は、その後ろ姿を見つめていた。

 鶴を持つ三浦君の手から、一秒も目を離さず見つめていた。

 三浦君が鶴の羽を一度畳んで、音楽ファイルにそっと挟んだ瞬間を――私は、この目に焼き付けた。

「みいちゃん……みいちゃん……」

 私の背中にかかる声は、耳には入っていたけれど、ちゃんと返事が出来なかった。



     *



 授業の間、ずっとあの折鶴の事で頭が一杯だった。

「みいちゃん、なんかぼーっとしてない?」

 ミユキちゃんが不思議そうに訊いて来たけれど、私は「そんな事ないよお」と微笑むのが精いっぱいで、口数少なに教室へ戻った。

 でも、そんな事ないなんて嘘だった。私の心の内では曇り空色の感情がぐるぐると渦を作っていて、今まで誰と何を話したのかもよく覚えていない有様だった。六時間目が終わった今、終わりのHRを取り仕切る日直の子の声を聞き流しながら、私の意識は相も変わらず、ある特定の人物を追っていた。

 その人物は、撫子ちゃんではない。

 三浦君だ。

 今の私の席は、教室の真ん中にいる三浦君の右斜め後ろくらい。観察しやすい場所だった。

 私は、三浦君の姿を目で追いかけ続けていた。こんなに男の子の姿を凝視するなんて今までにないってくらいに、私は三浦君の一挙手一投足を注視していた。

 そして、待っていた。

 ずっと機会を伺っていたのだ。


 三浦君の注意が、あのランドセルから逸れるのを。私はずっと待っていた。


 あの音楽のファイルは、今はランドセルの中のはずだ。それか机の中だろうか。私は三浦君の机の中へ目を凝らしたけれど、座る三浦君が邪魔で見えにくい。顔を横に付き出して覗き込む私の挙動が不審だったのか、「みいちゃん」と声が後ろから聞こえたので、私はぎくりと身体を弾ませた。

「え? ……あ、紺野ちゃん?」

 声の主は、またしても紺野ちゃんだった。

 机に置いた赤いランドセル越しに、私をじいっと見つめている。

 私はたじろいだけれど、「なあに」と笑ってみせた。もし紺野ちゃんが私の行動を不審に思ったのだとしても、この子相手なら言い逃れできると思ったからだ。

 でも、そんな心配は杞憂だった。紺野ちゃんの表情は無表情に近くて思考が読みにくいものだったけれど、少なくとも私の行動を怪しんでいるものではなさそうだった。

 ただ、この時紺野ちゃんの台詞は、新たな心配事の種として、私の心に根を張った。

「みいちゃん。今日、何時に行ったらいい?」

「え? 何時、って?」

 私の返事に、紺野ちゃんの表情が硬くなる。

 その顔を見て、あっ、まさかと私は気付いた。思い出していたからだ。

 そういえばさっき、ミユキちゃん達と放課後遊ぶ約束をしていたっけ。

「あ、えっと……」

 私は、内心で焦った。嫌な予感がしたからだ。

 こっそりと夏美ちゃん達の座る方へ目を向けると、すぐに皆と目が合った。明らかに辟易している様子の顔に、私は事の真相を理解した。ああ、と声には出さずに天井を仰ぐ。予想は当たりみたいだった。

 紺野ちゃんには可哀想だけれど、多分これは、紺野ちゃんの早合点だ。

 確かにミユキちゃん達は、家で遊ぶ約束をした。けれど皆はそこに、紺野ちゃんを呼ぶ気はないのだろう。でもどういうわけだか紺野ちゃんは、自分もそこに行っても良いと誤解してしまったようだった。

 ……どうしよう?

 私は、戸惑った。ストレートには言いにくい。いくらなんでも『人間』相手に、そんな仲間外れは可哀想。私は紺野ちゃんも連れていけばいいんじゃないかなあと思うけれど、皆の目はそれを許さない厳しさがあった。『人間』初心者には、私の友達は厳しすぎるのかもしれない。私は皆の事を少し冷たいなと思ったけれど、でも皆はいまだに『人間』と『ばい菌』との区別もつかないくらいに目がおかしいままなのだ。だから、仕方がないって許してあげなくちゃと思う。

 だから。

 当たり障りのない嘘で、私は誤魔化す事にした。

「紺野ちゃん、それ、なしになっちゃったみたい」

 そう告げても、紺野ちゃんの顔色はあんまり変わらなかった。私の名前を呼んだ時には少し明るかった顔が、今やすっかり無表情。自然とこういう風に戻ったのだ。紺野ちゃんの機嫌ってすぐに悪くなっちゃうなあと、こんな変化に慣れ始めていた私はころころと笑った。

「ね、ね、その代わりだけど、また今度遊ぼうよ。放課後に。えっと、今日は……私が忙しいから駄目だけど、ねえ、明日! どう?」

「……」

 紺野ちゃんは、すぐには頷かなかった。どこかから、笑い声がした。先生が、静かにしなさいと不機嫌そうに声を張った。私はひゅっと首を竦めて前を向いた。

 返事はちゃんと訊けなかったけれど、今これ以上話すのは危険だ。

 私は「ごめんね」と囁くと、もう振り返らなかった。

「……約束、してくれる?」

 後ろから小さな声が聞こえたけれど、日直の子の「起立!」の号令で掻き消えて、私の言った「もちろん」の言葉は潰れてしまった。

 そして私は、さようならの挨拶が終わるのと同時に、ランドセルをひらりと背負い、教室から駆け出した。



     *



 目的地は決まっていた。

 三浦君は運動が大好きな男の子。放課後はよくグラウンドでクラスの男の子達と野球を始めとする色んなスポーツに励んでいる。私は三浦君の事をそれとなく調べ始めていたので、彼がどの時間にどういう行動を取っているか、ぼんやりとだけど把握しつつあった。

 だから、三浦君達男の子が、グラウンドで遊んでいる間。ランドセルをどこに置いているのかは、すぐに見当がついていた。

 私は上履きのゴムをぺたぺた鳴らしながら、息を切らせて一階渡り廊下の隅へ到着した。上履きを脱いで靴箱に放り込み、簀子板を踏み超えて引き戸をがらりと引き開ける。

 オレンジ味を帯びた光が、ふわっと私の身体を包んだ。

 放課後ともなると、日差しの色も飴色だ。本の匂いのする空気に春のふんわりした甘さを感じながら、私は室内に踏み込んで、誰もいないのを確かめると嬉しさから笑った。

 一番乗りだ。これで待ち伏せできる。私は貸出返却カウンターの内側に潜り込んで、薄暗がりの中で身体をきゅっと丸くした。

 これは、賭けだった。図書委員の子達が来るかもしれない場所に潜伏したのだ。見つかった時の言い訳なんて、一つも考えていなかった。

 でも、運命は私に味方した。

 がらりと、私の締めた引き戸が開いて、がやがやと聞こえてきた声は――五年一組のクラスメイト。三浦君達の声だった。

「シュウゴ、早く行こうぜ」

「ああ」

 そんなやり取りが聞こえ、がたがたと騒がしい足音が通り過ぎると、ぱしんと扉の閉まる音がして、室内は再び静かになった。

「……」

 私はカウンターから立ち上がり、にんまりと笑みを零した。

 やっぱり。

 思った通りだった。

 私の見つめる先、図書室の隅っこ。

 本棚の置いていない壁際に――男の子達のランドセルが、おしくらまんじゅうみたいに纏めて置いてあった。

 最近は各教室の施錠時間が早いみたいで、居残る教室にランドセルは置けない。だから放課後に長く居座る生徒達は、こういった特別教室の邪魔にならない場所へ荷物を置いているのだ。図書室に置く事には賛否両論あるみたいだけれど、外に置きっぱなしにした所為で盗難騒ぎになった事もあるので、ここに置くのは先生にも黙認されている行為だ。

 時間はなかった。

 一度きりのチャンスだった。

 私は、飛びつくようにランドセル群へ駆け出した。

 室内の隅へしゃがみ込み、目の前のランドセルに手を掛ける。留め金を外し、べろんと長い革を捲り上げ、中に詰められた教科書類を弄った。

 急がなくちゃ。急がなくちゃ。ここにはいつ誰がくるか分からないのだ。私は五つあるランドセルを一個一個開けて、ノートに書かれた名前を舐めるように確認した。雑に押し込まれた教科書を戻しては入れ直し、触った痕跡を残さないように元通り閉める。そうやって次のランドセルを検める作業の効率の悪さに、私の心がささくれ立った。違う。これじゃない。あれも違う。遅い。早く。どくどくと心臓が脈を打つ。その音がうるさくて、呼吸も微かに荒くなる。体温が上がり、首の辺りに嫌な熱が込み上げた。そんなに焦るならやめればいいのに。私の中で私が言った。

 でも、私は欲しかったのだ。

 あの白い鶴が。撫子ちゃんの折鶴が。

 白い妖精が手に乗せた、白い鶴は眩かった。行燈のような光を灯していると思うほど、あの白鶴は光って見えた。

 羨ましかった。三浦君が。

 そして妬ましかった。三浦君が。

 あんなにも綺麗な折鶴、ただのクラスメイトの男の子が持ってなくたっていい。

 私なら、もっと大事にして見せる。だから、私にくれたらいい。

 でも話を聞く限りあの鶴は、三浦君の家族を見舞う為のものだ。私が三浦君にちょうだいと頼んでも、絶対に三浦君はくれないだろう。

 だったら。

 最初から、ちょうだいなんて頼まない。

「あ……、あった……!」

 私は、歓声を上げて笑ってしまった。

 ついに見つけたのだ。

 私が引っ張り出した自由帳の表紙に、『三浦柊吾』と汚い字で書いてある。すぐに音楽のファイルを見つけ、私は有頂天になって手を伸ばした。

 でも、私の運はそこで尽きた。

 神様は何も、こんな所で私を見放さなくてもいいのに。私は折鶴を手にするどころか、もう一度あの姿を見る事さえ叶わなかったのだ。

 がらりと大きな音を立てて、引き戸が開いた。

「!」

 びくりと仰け反る私の耳に、「あーっ、みいちゃん、こんな所にいたあ」と賑やかな声が聞こえてきた。

 さっと、身体に緊張が走った。

 おそるおそる、振り返る。

「ミユキちゃん、夏美ちゃん……なんで……」

 最悪の事態だった。

 クラスの友達が、五人ほど。図書室前の簀子をがたがた音を立てて踏みながらやって来たのだ。暢気な笑い声が、静かさを蹂躙するように弾けた。

「なんでって。みいちゃんすごい勢いで走ってったじゃん。こっちの校舎の階段下りてくの見えたから、皆で来てみたんだけど?」

「そ、そっかあ」

「っていうかさあ、夏美んとこで遊ぶって約束だったじゃん。もう、勝手に飛び出さないで」

 そこで、ミユキちゃんの言葉が途切れる。

 表情が真顔に変わり、視線が、すとんと下へ落ちた。

「あっ」

 私は、蒼白になった。

 足元には、三浦君のランドセルが開け放されて転がっている。半端に取り出しかけた音楽のファイルが、他のノート類の中から少しはみ出していた。

「……」

 どっ、どっ、どっ、と心音が、さっきと比較にならないほどの大きさで打つ。私は「えへへ」と硬く笑いながら、すすすとランドセル群から距離を取った。

 大丈夫だ。まだ大丈夫。ここは図書室なのだから本を読んでいるフリをすれば、何とか誤魔化せるに決まっている。本を、とにかく本を読んでいるフリをすれば――。

 でも、そんな私の足掻きを見逃してくれるほど、私の友達は優しくなかった。

「みいちゃん……何してんの?」

「えっと、本を、読んでただけだよ?」

「本って……どれの事よ?」

 白けた目で、皆が私を眺め始めた。ここに来た時の楽しげな顔が嘘のように、私を見る目が冷めていく。私への信頼や評価が確実に擦り減っていくのを感じながら、私はこの時になってようやく自分の行為の罪深さに気づき、愕然とした。

「あ……」

 見つかってしまった恐怖が、後悔に変わる。

 やっと気付けた。自覚した。

 私の行為は、ルール違反すれすれのものだったのだ。

 何故なら、私は――――人の物を、盗ろうとした。

 あの鶴は、撫子ちゃんが三浦君にあげた。

 だからもう、三浦君のものなのに。それを私は盗ろうとした。

 あの鶴が私に攫われたと三浦君が知れば、きっと嫌な気持ちになるだろう。それをクラスの誰かに言いふらすかもしれない。『人間』が嫌な気持ちになって、クラスの楽しい時間が濁るのはいけない事だ。それは普段から私が絶対にいけないと、強く思っている事なのだ。

 そんな大それた事を、私は、自分でしようとしていたのだ。

 贖罪の念が、突き上げるように湧いてきた。一緒に風邪薬みたいに苦い悲しみで鼻の奥がつんとして、私は目尻に涙を溜めた。

 もう、諦めるしかないのだ。

 あの白く清らかな折鶴は、永遠に私の手には入らない。胸が潰れそうなほど、その事実が切なかった。

 でも私がそうやって悲しみでいっぱいになっていた時、皆は、予想もしない解釈を育てていた。それを私は、次に言われた言葉で知った。

「……分かった。みいちゃん、三浦君のこと好きなんでしょ?」

「え?」

 時間が、びしりと凍てついて止まった。

 私が、三浦君を、好き?

 数秒、呆けた。何にも考えつかなかった。私は馬鹿だから言われた事を呑み込むのに、とても時間がかかるのだ。

 そうやって、一秒、二秒、三秒が過ぎ、五秒以上が経過して――私は頬がかっと火照るのを感じながら、声の限りに叫んでいた。

「そっ、そんなわけっ、ないもんっ……!」

 馬鹿、馬鹿、皆の馬鹿。どういう勘違いをしたらそんな結論に至るのだ。私はぶんぶんと首を振り、「違うもん違うもん」と地団太を踏んで抗議した。

 でも皆の中では結論が固まってしまったみたいで、「えー、そんなに否定するってことは、やっぱ好きなんでしょー」ととんでもない事を言い出した。私は「違うもん!」と馬鹿の一つ覚えみたいに必死の否定をし続けた。

 あり得なかった。激しい眩暈で倒れそうだった。

 私は三浦君なんて、何とも思っていないのに。

 スポーツ少年。いつもグラウンドの砂に薄く塗れていそうな身体。顔は普通かもしれないけれど、ぶっきらぼうでちょっと怖い。あんな汗の匂いのしそうな男の子に、私が、恋しているなんて。

 冗談ではなかった。そんな誤解、迷惑だ。経験上分かっているのだ。この手の誤解やからかいは、解けるまでがとても長い。そんな面倒なものが、私に降りかかってくるなんて。

「違うもん違うもん! 三浦君の事なんて好きじゃないもん!」

「あーはいはい。じゃあ足元のそれは何かなあ? みいちゃん、三浦君の物が何か欲しかったんじゃないの?」

 うっと私は言葉に詰まる。違わない。欲しかった。でも違うのだ。そうじゃない。そんな理由で三浦君の物を欲しがったわけではない。私は悔しさと不甲斐なさと怒りでぐちゃぐちゃになりながら、言い訳さえできない生き地獄にもがき、半泣きの声で唸るしかなかった。

「三浦君かあ、みいちゃんはもっと顔で選ぶかと思ってた。へー意外」

「スポーツできるからじゃないの?」

「そういえば、体育してる時かっこいいって言ってる子いたや」

「えっ誰、誰?」

 途端に話に花が咲き、三浦君の話題一色になる。私は慌て、まごついた。そんな反応を皆が意地悪く笑い、声高に叫んだ。

「みいちゃんは、三浦君の事が好きー!」

「わあっ、わあわあっ、やめてよう!」

 何度目かも分からない否定を、私がめいっぱい叫び返した時だった。

 がしゃん、と。

 図書室の入り口の方で、何かを落とすような物音がしたのは。

 私達は、動きを止めた。

 入り口の方を、全員で振り向く。

「…………」

 開けっ放しになった扉の向こうに、数人――女の子が立っていた。

 今から帰るところなのだろう。背には赤いランドセル。でも何人かの女の子は、荷物がランドセルに入りきらなかったからか、布製の手提げ鞄も持っていた。

 そんな手提げ鞄が、一つ。廊下に落ちて転がっていた。

 私は、それを落とした子と目が合った。

 相手は琥珀の瞳を瞬いて、私の顔をじっと見た。そして、ぱっと目を逸らす。栗色の髪の毛が、さらりとオレンジの光を受けて光った。

 あ、と私は、呟いた。

 でも、その子は私に、何も言ってくれなかった。

 一緒にいた女の子が「撫子ちゃん、大丈夫?」と訊くと――撫子ちゃんは、こくんと頷いて鞄を拾った。

 そのまま鞄についた泥さえ叩かずに、周りの女の子を振り返って「ごめんなさい。帰ろう」とだけ言って、歩いた。

 ぱた、ぱた、ぱた。

 足音が遠ざかり、私達の止まった時間が、動き出す。

「……雨宮さんって、色白いよね。っていうか、青い? なんか、ふっと倒れそう。でも、すっごく細いのは羨ましいよね」

「そうそう、私も思ってた。雰囲気あるよね。うちらには絶対ない感じの」

「あはは、夏美ってああいう清楚系なりたいわけ?」

「べっつにぃ。なれっこないの分かってるし、私は私でいいのー」

 皆がきゃあきゃあと騒ぎ合うのを聞きながら、私はひたすら無言だった。

 頭の中身が、からっぽになった。空虚な心に、冷たくて黒い何かが、ひたひた静かに注がれていく。その海に呑まれながら、私はさっきの撫子ちゃんを思った。

 撫子ちゃん。

 偶然ここを通りかかって、私達の話を多分聞いてしまった撫子ちゃん。

 瞬間は、焦った。私は撫子ちゃんに誤解されてしまった、と。

 でも。

 この現実は。

「……嘘、だよね、違うよね……ねえ、撫子ちゃん……」

 こっちを向いた、撫子ちゃんの顔。

 その顔は、いつもの無表情ではなかった。

「…………」

 撫子ちゃん。



 まさか。

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