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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 28

 二時間目の休み時間は、日差しがとってもきつかった。

 雲一つない青い空。眩しい陽光が私の首とか太腿とか、肌が剥き出しの部分を焼いていく。グラウンドの砂は陽の照り返しで真っ白だ。

 まだ、五月の頭なのに。早くも夏めいた陽気だった。

 そんな暑い春の中を、私は走って逃げていた。

 別に走る必要はなかったのだ。十を数えて逃げてから、最初の少しを頑張るだけ。たったそれだけの小さな努力で、私の安全は保障される。

 それでも走って逃げたのは、もっと楽をしたかったから。

 私は青々とした木陰の中を、頭を低くして突き進む。グラウンドを囲う金網に沿って駆け続けると、やがて敷地の隅に建つ体育倉庫に辿り着いた。その裏手に滑り込むと、はあっと息を吐いて足を止める。

 ここまで来れば大丈夫かな。

 心配になって振り返ると、聞こえた足音にびくっとした。でも現れたのはミユキちゃんで、怖がる相手ではなかった事に、私はとても安堵した。

「ミユキちゃん、今どうなってるの?」

「まだ始まったばっかじゃん」

 声を潜める私へ、ミユキちゃんもひそひそ声で返してくる。

 私達は、倉庫と金網の間の僅かな隙間に隠れていた。金網の向こうでは灰色の民家がたくさん並んでいて、陽炎でゆらゆら揺れている。

 学校の敷地の内と外。それを区切る緑の金網。

 この境界線の内側でなら、どこにだって逃げてもいい。

 完全な勝利を目指すなら、こんな仕切りなんて無視してしまえばいいのだろう。でもそれはルール違反で、決してやってはいけない事だ。私達は路地裏の猫のように身を寄せ合うと、倉庫の影からグラウンドを覗き見た。

「今、鬼ってだれかなあ」

 私は、呟く。

 でも訊かなくても、答えは薄々分かっていた。

 ミユキちゃんが、くすりと笑った。笑みは言葉より雄弁だった。ミユキちゃんも分かっているのだ。こういう笑い方をする子って、皆同じ顔に見えてしまう。まるで記号みたいだった。夏美ちゃんとの区別もつかない。私も自分では知らないうちに、こうやって笑っているのだろうか。私はぼうっと考えてみて、うん、と一つ頷いた。それは良い事だと思ったからだ。悪い顔だけれど、汚いとは思わなかった。

 だってこれは、『正しい』顔だ。ルールをきちんと守っている。その証明のような顔だからだ。

 遠くの方で、「こっち、こっち」と囃し立てる声がした。

 夏美ちゃんだ。元気に走り回っている。他にも三人ほど私の友人が、身軽な動きで遊んでいた。かっこいいなあと私は見惚れる。私は運動が苦手だから、皆でこの遊びをする時はよく、『鬼』のままで終わってしまう。

 そう考えると、私が『逃げる』側になるのは久々だった。

「……みいちゃんってもしかして、このためにあの子を引き入れたわけ?」

 ミユキちゃんがからかってきたので、私は「違うよお」と頬っぺたを膨らませた。前にもたくさん話したのに、まだ分かってくれないのだ。でもミユキちゃんは友達だから、いつかは分かってくれるだろう。友達の心を信頼して、私は前向きに考えた。

 キィン、と澄んだ音が近くで聞こえた。誰かが野球をしているのだ。緩く空を振り仰ぐと、真っ白な投球が放物線を描いて、青い空を飛んでいく。私は長閑な気分になり、風に髪と服とをそよがせた。

 それくらいに私達は、いつしか退屈していたのだ。

 私とミユキちゃんが見守る中で、夏美ちゃんが立ち止まる。他の子も次々に足を止めて、一人の女の子を見つめていた。

 息を切らせて走り続ける、『鬼』の女の子を見つめていた。

「あー、やってらんなぁい!」

 真っ先に、夏美ちゃんが痺れを切らした。

 示し合わせたかのように、忍び笑いが巻き起こる。私は笑わなかったけれど、隣でミユキちゃんも笑っていた。たくさんの女の子が、『鬼』のあの子を笑っていた。

 笑い声が小波のように寄せる中で、あの子は何にも言わなかった。

 荒い息をぜいぜいと吐き、身体を海老のように折っている。

 皆は徐々に飽き始めて、ひそひそ笑いは小さくなった。

 あの子を見下ろす表情が、少し怖いものに変わっていった。

「……ちっ」

 誰かの舌打ちと、チャイムが鳴るのは同時だった。

 こ――――ん……と。

 震える鐘の音が轟いて、わあっと周囲の子供達が、騒ぎながら校舎へ駆けた。

 賑やかさから置き去りにされながら、私は少し寂しくなった。

 ああ、休み時間が終わってしまった。遊びの終わりは、いつだって物悲しいのだ。

 皆は私とあの子を見比べて、私の方にうんざりしたような目を向ける。

 そして「みいちゃん、先行ってるからね」とだけ言い残して、私を待たずに行ってしまった。ミユキちゃんも夏美ちゃんに続いて行ってしまったので、後には私とあの子だけが、みるみる寂れるグラウンドに、ぽつんと二人で残された。

「……行っちゃったねえ」

 私はにこにこ言ったけれど、あの子は黙ったままだった。

 校舎の方へのろのろと、私を無視して行こうとする。

「ねえ待ってよお。返事して?」

 私は通せんぼをするように、あの子の前に回り込んだ。

 無視なんて悲しい。ちゃんと私を見て欲しかった。

 すると、あの子は――――紺野さんは。

 ばっ、と勢いよく私を見た。

「えっ、と……」

 私は首をこてんと傾げる。反応に困ってしまったのだ。

 不思議な顔を見たからだ。

 鼻の頭がくしゃっとしていて、怒っているように見えるのに、泣いているようにも見える顔。眉間にも皺が寄っていて、目はちょっぴり潤んでいた。


 ……全然、懐いてくれないなあ。


 あれから一週間が過ぎたのに、紺野さんが笑う所を、私は一度も見ていない。


     *


 あの席替えの日から、私の幸せで退屈な毎日は劇的に変わったと思う。

 まず一つ目の変化は、藤見先生の態度だった。

 学級会の時には私を睨んでいた先生は、私が紺野さんを引き受けた途端、態度をころりと豹変させた。とってもご機嫌になったのだ。私は猫なで声で褒められながら、分かりやすいオバサンだなあと、心の中だけで舌を出した。

 そして二つ目の変化は、私の友達の態度だった。

 皆への覚悟は、実はあんまりしてなかった。あの時の私は皆の事なんて、欠片も考えてなかったのだ。

 だから休み時間に皆から引き摺られて廊下に出され、人目につきにくい一階の階段裏側にまで連行されてようやく、私は皆の怒りを知ったのだった。

「みいちゃん。どういうつもり?」

 夏美ちゃんが、尖った声で言った。

 その背後では他の子達も、私をきつく睨んでいる。

 私は「えっと」と呟いて唇に指を当てると、少し焦りながら言い訳した。

「あの、ごめんね? 嫌だった?」

「嫌に決まってんでしょ!?」

 今度はミユキちゃんが激昂した。休み時間の喧騒に混じって、ハスキーな声が反響する。鼓膜が震える程の大声に、私はひゃあと声を上げた。

 ただ、私のこの時の顔は、怯えた顔ではなかったと思う。ちょっぴり笑顔のままだった。でもそれでいいと思っていた。皆の態度が怖いから、空気を軽くしたかったのだ。

 でもそんな私の顔付きは、皆を余計に不愉快にしたみたいだった。

 皆は夏美ちゃんとミユキちゃんに鼓舞されたのか、続々と文句を叫び始めた。

「なんで!? あいつ『ばい菌』じゃん! みいちゃんだって汚がってたじゃん!」

「みいちゃんはそれでいいかもしんないけど、私はやだ! キモいもん!」

 四方八方から罵詈雑言が、弓矢のように降り注いだ。

 その豪雨に降られながら、私はとても不思議な事に、全然傷ついていなかった。

 それは、本当にびっくりだった。夏美ちゃんもミユキちゃんも、皆が私を非難している。なのに全然怖くない。奇妙な浮遊感を感じながら、私は怒る皆の顔を見た。

 さっきまでの私は、この中の一員だったのだ。

『ばい菌』を忌む子達の中間。『汚い』を排斥するルールの一部、一欠けら。そこに私も歯車として、確かに組み込まれて回っていた。

 でも、今は違うのだ。

 私はもうあの子の事を、『ばい菌』扱いなんて二度としない。

 毅然と顔を上げた私は、熱い誓いを声に込めて、堂々と皆に言い放った。

「あの子は『ばい菌』じゃないよ。キモくないよ。友達だよ?」

 皆が、息を呑んだ。後ずさる子も中にはいた。

 私は、気丈に笑って見せた。

「ねえ皆。苛めって良くないよ? そんなのするのヤだって思ってる子も、クラスにはいると思うよ? ね、皆で仲良くしよう? 紺野さんって大人しそうな子でしょ? ちょっと恥ずかしがり屋さんなだけだと思うの。大丈夫、大丈夫! 話してみたら案外面白い子かもしれないよ?」

 私の言葉を、夏美ちゃんとミユキちゃんが恐ろしそうに聞いていた。私にはその気持ちが、痛いほどに分かっていた。まだ紺野さんが嫌なのだ。それは無理もない事だ。皆にとって紺野さんは、まだ『ばい菌』のままなのだ。

 汚いものは、気持ち悪い。気持ちは分かる。よく分かる。

 だからこそ。

 私は、皆に対して思うのだ。

 ……可哀想に、と。

 ミユキちゃんも夏美ちゃんも、皆の目は節穴なのだ。だからいまだに紺野さんが、『人間』の形に見えていない。『ばい菌』の形のままなのだ。

 でもそれなら、私が証明してみせる。

 紺野さんはもう『ばい菌』じゃない。清らかな『人間』に変わったのだ。私がそれを証明するのだ。この学校で、五年一組の教室で。

 妖精のいるあの場所で、私がそれを示すのだ。

「みいちゃん、どういう心境の変化?」

 夏美ちゃんの呆れ声に、「あの子と仲よくなりたかっただけだよー」と私はのんびり笑っておいた。その傍ら別の子の事を考えて、ぽっと頬を朱に染めた。

 ……ちゃんと、見ててくれたよね?

 ……私の声も自己紹介も、全部ちゃんと届いたよね?

 どきどきし過ぎて、マトモに顔を見れなかった。着席した時の横顔を盗み見るので精一杯で、近くの席の子と何か話しているのを見て初めて、表情や感情があんまり見えない子だと知ったくらいだ。

 それ以外は、何にも知らない。私は切なく吐息をついた。

 そして何事もなかったかのように顔を上げると、狐につままれたみたいな顔をする皆に言った。

「皆、教室に帰ろう? 紺野さんのとこに戻らなくちゃ」

 紺野さんは多分今も、一人ぼっちで過ごしている。それはとてもまずい事だ。このままでは私が、口先だけの人だと思われてしまう。

 綺麗なあの子は、きっと苛めを良しとしないから。

 だから早く、教室に戻らないと。

 私は皆の輪を抜け出すと、階段の一段目に足を掛けた。

 その時だった。

 誰かが、言ったのは。


「みいちゃん。みいちゃんがそんなに言うなら、あの子、仲間に入れてやってもいいけど。……どういう遊び方しても、いいんだよね?」


 私は、足を止めて振り返る。

 今の声は、誰の発したものだろう。夏美ちゃんだと私は分かっていたけれど、別に誰であっても同じような気がした。

 何故なら、この時私が見回した皆の顔は、全員、同じ顔に見えたからだ。

 目も唇も三日月型。にんまり意地悪に笑っている。

 私は少し考えて、にっこり笑って返事した。


「いいよ?」


 紺野さんは、『人間』だ。『ばい菌』ではなくなった。

 だから『人間』が皆の仲良しの輪に入って、ルールに則って遊ぶのは、当然の事だと思ったのだ。

 良かったね、紺野さん。

 私が階上を数段上がると、踊り場の姿見に目が向いた。

 大きな鏡に映った顔は、薄っぺらに笑んでいた。

 記号めいたその顔が、自分の顔だと気付いたのは、少し遅れての事だった。

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