花一匁 27
「美也子は、友達と遊ぶ時間をすごく楽しんでる子だったの。人と話すのが大好きな明るい子で、友達も多かった。誰とでも仲良くしようとする子だったけど、考え方がちょっと極端なとこはあったと思う。小五の四月にクラスで流行ってた苛めには、美也子も参加してたって、他の友達から聞いたから」
撫子の訥々とした語りを聞きながら、七瀬は怒りを静かに殺していた。
えげつない。それが七瀬の感想だった。
ありふれた苛めだ。似たようなものは幾らでも見てきた。頭では分かっていても、激しい不快さでむかむかした。
七瀬が〝彼女〟と出会ったのは、校舎とグラウンドを繋ぐ階段だ。
あの邂逅の瞬間から、腐った性根は見えていた。だがそれは氷花の〝言霊〟が関係しているのかもしれず、彼女について何も知らない七瀬が非難できるものではない。そう思おうとしていたし、そうやって自分を律していた。
だが、そんな必要は皆無だった。
あの時感じた悪印象は、あながち外れではなかったのだ。
美也子の残忍さは、〝言霊〟で狂おうが狂うまいが同じだった。その非道さは幼さ故と見逃せばいいのかもしれないが、まだ事件の全貌を知らない七瀬には、そんな許しは厳しかった。
ただ、今の話の受け止め方は十人十色で、怒りを見せたのは七瀬だけのようだった。
長机の向かいに座った和音と毬は級友の知られざる過去に放心していて、毬の隣では陽一郎が当時を懐かしんでいるようだが、撫子の語り口が決して明るいものではなかったからか、言葉を掛けあぐねている風だった。
「なあ、極端って?」
気遣わしげにそう訊いたのは、七瀬の右隣の拓海だ。
手元には読みかけの文庫本があり、頁に指を挟んで栞にしている。
本のタイトルは、『山椒大夫・高瀬舟』。
先刻、呉野和泉から指定された文学だ。
拓海は先程から撫子の告白を聞きながら読書に勤しむという、さながら聖徳太子のような行為を続けていた。時間を惜しんでいるのは分かるが、七瀬はその様子を頼もしく思う一方で、張り切る拓海が心配だった。何せ受験が終わってからずっと頭を使いっ放しだ。矢面に立って戦い続ける拓海が七瀬には気がかりで、それとはまた別に、いくつか心配事も抱えていた。
だがそれは、個人的な悩み事だ。拓海との間の事も、七瀬の問題も関係ない。
七瀬は気持ちを切り替えて、左隣へ視線を転じた。
この場で最も心配なのは、七瀬の隣にいる二人の男女だ。
「……雨宮。待てよ。今の話、おかしいぞ」
柊吾が、茫然といった様子で言う。
七瀬の左隣には撫子がいて、柊吾はその撫子の隣に座っている。
拓海の問いかけにさえ、撫子はまだ答えていない。会話に割り込むような言葉は一応だが落ち着きのある柊吾らしくなく、柊吾の余裕のなさが窺えた。
声を受けて、撫子が柊吾を見上げる。
その顔に主だった表情はなかったが、内心では葛藤があるのだろう。他校の子とはいえ付き合いは一年になる。言葉がなくても、伝わってくるものがあった。
七瀬は漠然と、柊吾の四年前の立ち位置を思った。
柊吾は小五の記憶が薄いらしいが、まだ覚えている事も多いはずだ。そう考えると視界の端に映る陽一郎の挙動も気になり、七瀬は複雑な思いを抱いた。
二人は、覚えているだろうか。撫子の語る苛めを。それを男子生徒である柊吾と陽一郎は、きちんと覚えているだろうか。
七瀬は逡巡し、落胆とも諦めともつかない気持ちで目を細める。
多分だが、あまり覚えていないのだろう。少なくとも撫子よりは、二人の記憶は薄いはずだ。女子の間の事なのだ。余程派手な苛め方をしていない限り、男子の目には触れにくい。
そしてその憶測はあっさりと、柊吾に肯定されてしまった。
「雨宮。皆も。俺、クラスで苛めがあった事、悪りぃけど全然覚えてない。四月の席替えで担任から注意されたのは何となく覚えてるけど、苛めの事はそれで初めて知ったし、あの時の注意で終わったって思ってた。それに紺野って確かあれ以降は、風見達とつるんでただろ? ……雨宮。あの苛め、まさか終わってなかったのか? ……続いてたのか? 四月以降も?」
柊吾の言葉に、撫子は返事を躊躇うように口を噤む。膝に乗せられた小さな手が、きゅっと強く結ばれた。
柊吾の目が、苦しげに細められる。
そして、「分かんねえ。おかしいぞ」と吐き捨てた。
「っていうか。風見は四月に紺野を苛めてたんだろ? その風見がなんで、急に紺野と友達になろうとしたんだ? 分かんねえ。変だ」
「雨宮さん。俺もそれが気になってるんだ」
柊吾の言葉に、拓海も七瀬の隣から顔を出して同調した。
「さっき俺が極端ってどういう意味って訊いたのは、三浦と同じとこが気になったから。雨宮さんが風見さんの事を極端って思うのは、苛め加害者の風見さんが、いきなり苛め被害者の紺野さんと友達になったから?」
「……。うん」
撫子が少し黙り、緩慢に頷く。
七瀬はそのやり取りを聞いて、もどかしさからつい口を挟みたくなった。
撫子の今の頷き方では、肯定の意味合いは精々六割くらいのものだろう。拓海の言葉は正解には違いないが、微妙に的を外している。傍で聞いている七瀬には、そんな違いがよく分かる。
何故なら、これは七瀬達の、女子の領分になるからだ。
「雨宮さん。雨宮さんは最初の方学校を休んでたから、その話は全部伝聞って事になるけど、それって本当に正しい? 風見さんは本当に紺野さんを苛めてた?」
「うん」
撫子が頷く。今度は、迷いのない首肯だった。
「学校に通ううちに、見てたら分かったの。美也子は最初、あの子を好きじゃなかった。すごく友達思いの子だけど、あの子の事は『ばい菌』扱いしてた。それは本当の事だと思う」
「じゃあ、なんでだ?」
柊吾が再び割り込んで、眉根を寄せた。
「おかしいだろ。風見って奴がどれだけ友達思いの奴か知らねえけど、そいつは紺野の事が嫌いで、『ばい菌』扱いして苛めてたんだろ? そんな奴、友達思いでも何でもねえ。ただの馬鹿だ」
柊吾の言い方は乱暴だったが、拓海も表情を陰らせながら「俺もそう思う」と賛同の言葉を口にした。
「だよな、坂上。お前も思うだろ?」
「ああ。おかしい。矛盾してる」
男子二人は間に七瀬と撫子を挟んで、変だ変だと頷き合っている。
その様子に、七瀬は何だか唖然とした。
……この二人は、分かっていないのだろうか。
「ちょっと坂上くん、三浦くんも。こんなの別に、矛盾でも何でもないんだけど」
「はあ?」
柊吾が不思議そうな顔になる。拓海も呆けている。気が咎めたが、七瀬は言った。
「友達思いの風見さんが、紺野さんって子の事だけは苛めてたって話でしょ? それのどこが矛盾なの? やってる事はサイテーだけど、別に矛盾なんて一個もないよ。認めたくないけど、そういう感情自体は自然なんじゃない?」
「分かんねえな。なんでだ? 誰とでも仲良くしようとしてる奴なんだろ? そいつが紺野を苛めてるってだけで矛盾してんじゃん」
「俺もそう思う。なんで紺野さんだけ? 風見さんの主義に反するっていうか、変だと思う」
「主義って、坂上くん……」
七瀬は、軽い眩暈を覚えた。
こう言った感情論なら、本来柊吾や拓海だって分かりそうなものなのに。さっき氷花の兄に意地悪な屁理屈を吹っ掛けられた所為だろう。すっかり思考が硬化している。七瀬は和泉への怒りを募らせながら、二人への呆れ半分、心配半分で嘆息した。
「矛盾とか、そんなに難しく考えることないでしょ。さっき撫子ちゃんが言ってたみたいに、風見さんが極端なだけだってば」
「へ?」
「もう」
七瀬は、とどめの一言を言った。
「風見さんは友達思いで誰とでも仲良くできるけど、要するに紺野さんの事は、人間だとも思ってなかったって事でしょ? 言ってたんでしょ? 『ばい菌』って。人間じゃなくて『ばい菌』だって思ってるから、友達扱いなんて当然しないし仲良くなろうとも思わない。そんな女の子が相手なら、どんな事したって構わないって思ってるんでしょ?」
「……!」
柊吾と拓海が絶句した。
顔色を凍り付かせて、ぎこちなく七瀬達女子勢を振り返ってくる。
だが残念ながら、そんな初歩の初歩で躓いているのは柊吾と拓海に陽一郎を加えた男子三名だけだ。女子は全員承服済みだ。そういう社会を生きている。現に和音と毬も七瀬の物言いには引いていたが、特に驚きは見せなかった。撫子も同様だ。その事実は大前提として、この昔語りに根付いている。
それでも、拓海達の純心な反応を見ていると……何だか泥に塗れた気分になり、七瀬は自己嫌悪から目を逸らした。自分がすれてしまった気がしたのだ。
男子達が、羨ましかった。今の七瀬の考え方は、拓海達にはないものだ。そこには演技や嘘の汚泥がなく、爽やかな風が吹いている。泥を投げ合って互いを汚し合う七瀬達女子生徒と、柊吾達とは違うのだ。
だが、女子に生まれた以上。そんな悩みは持つだけ無駄だ。振り回されるほど疲れてしまう。だから皆が戦い方を学んでいき、守りを築いて武装する。団結を覚えて徒党を組んで、一人を恐れて身を寄せ合う。
学校は、戦場だ。七瀬はそれを分かっている。
七瀬だけではない。ここにいる女子生徒全員が分かっている。
――だからこそ。
そこで戦いに敗れた者が、どういう末路を辿るのかも、この場の全員が分かっている。
「撫子ちゃん。その話、まだ続きあるよね」
七瀬は訊いた。
撫子が、「うん」と頷く。七瀬は頷き返し、「ゆっくりでいいよ」と微笑んだ。
……本心を言うなら、七瀬はもう、撫子には何も喋らせたくなかった。
この記憶を紐解く事は、撫子の心に負荷を掛けると気付いたからだ。
だがそれでも七瀬はこの話を、撫子から聞かなくてはと感じていた。
撫子しかいないからだ。この話をできるのが。小五の記憶を正しく語れる人物がいるとすれば、それは撫子をおいて他にいない。柊吾と陽一郎があの有様なのだ。小五の美也子の腹黒さに、まるで気づいていなかった。二人は語り部として不適格だ。
女子同士の苛めは、女子の目線と感性で、語ってもらう方がいい。
七瀬は申し訳なさを押し込んで、撫子と真っ直ぐ向き合った。
「撫子ちゃん。三浦くん達が気にしてた事なんて、他の皆は分かってる事だから気にしないで。それよりも不思議なのは……風見さんがどうして、紺野さんと突然友達になろうとしたかって事だよね。心当たり、ある?」
さっき柊吾も指摘していたが、この点ならば確かに七瀬も疑問だった。
撫子の話を聞く限り、美也子の紺野沙菜への態度は急激に変わっている。不自然なほど急にだ。
『ばい菌』とまでこき下ろした少女を、何故突然『友達』に格上げしたのだろう。
――何だか、嫌な感じがした。
「……。あるよ。心当たり」
撫子が、七瀬の手に触れた。
七瀬は、びっくりする。
こんな頼られ方は、初めてだったからだ。
七瀬はスキンシップ過多な方だと自覚があるが、七瀬の方から撫子に触れる事はあっても、撫子の方からは滅多になかった。
どきりとして撫子を見たが、撫子はもう俯いていて、七瀬を見上げてくれなかった。
「……」
それでも、今は十分だった。
七瀬は撫子の手をぎゅっと握ると、撫子が再び喋るのを静かに待った。
すると、皆が緊張の面持ちで待つ中で――――一人だけ。
視線の熱が、明らかに他者と異なる者がいた。
七瀬は、そちらを振り返る。
そして、軽く睨んでおいた。
まだそちらには、怒れない。本当はずっと怒りたかった。だがまだ怒っては駄目なのだ。七瀬は彼女の変貌の理由を知らない。そこを知らないままに感情的な怒りを見せれば、きっと態度が硬化する。心がますます閉ざされる。そうなってしまえばもう二度と、七瀬の言葉は届かない。何にも届かなくなってしまう。
だから、これだけを言っておいた。
「和音ちゃん」
視界の端で、ポニーテールの少女が反応する。
表情は変わらない。唇が強く、まるで噛みしめるように結ばれていた。
「この〝アソビ〟終わったらさ、二人でいっぱい話そうよ。……約束、してくれる?」
「……」
返事はなかったが、決意は七瀬の中で固まった。
――必ず、原因を突き止めて見せる。
何が、和音を変えたのか。それを必ず、突き止めて見せる。
それが、自分の使命だと思った。
いい加減にしてきた和音との付き合いの、これが清算だと思うのだ。
狼狽える男子達と泣きそうな毬が見守る中で、やがて撫子が和音を見たが、撫子は結局和音には何も言わず、ただ七瀬の手だけを握り続けて、呪われた語りを再開させた。




