花一匁 26
この学年にも苛めがある。
その事実を私は去年から知っていたけれど、興味はあんまり持てなかった。
苛めと言っても程度は軽いらしくて、クラスメイトからちょっと無視されるくらいのもの。暴力を振るわれたり、物を盗られたわけじゃない。
それに、私には縁のない話だから。だからどうでもよかったのだ。
私にはたくさんの友達がいて、皆が私を好いてくれる。私も皆が大好きだ。一緒にいると楽しいし、ずっと騒ぎ合っていたい。だから学校で過ごす時間は私にとって、かけがえのないものだ。
でも、その学校が嫌になるほど、虐めに悩む子達もいる。そんな子がいるという事が、私には正直なところ謎だった。
悩む事なんてないのに。
皆に合わせて笑うなんて、とても簡単な事なのに。
人を好きになるのに理由は要らない。一目惚れみたいなものだと思う。とても簡単な事なのだ。それは誰だって同じのはずで、そんな好感を根元に据えて、互いに言葉を交わし合えば、相手も自分を好いてくれる。まるで挨拶の言葉のように、絆は無限に広がるはずだ。
なのに、苛められる子は生まれてしまう。人付き合いに、失敗して。私にはそれが謎なのだ。
その謎について私は一度、じっくり考えた事がある。
そして、そっかあ、と納得した。
つまり。
下手くそなのだ。何もかもが。
苛められる同級生は、私みたいに挨拶しない。私みたいに笑わない。もしかしたら声を出すのが恥ずかしかったり、挨拶が返って来なかったらどうしようと怖いだけかもしれない。大人しそうな同級生は、いつも何かに怯えていた。
何だか、仕方のない子達だなあ。
私がそんな思索に浸かっていると、「みいちゃん、みいちゃん」と後ろの席から名を呼ばれ、背中がつつかれたのではっとした。
いけない。つい考え事に夢中になってしまった。
私はくるんと振り返ると、「なあに?」と小声で訊いてみた。
その席には夏美ちゃんが座っていて、そのさらに後ろにはミユキちゃんが座っている。三時間目の席替えで、示し合わせて座ったのだ。
ただし、男子はまだいない。今は全員廊下へ出されているので、室内には女子の声だけが溢れていた。
この席替えはいわゆるお見合い形式を取っていて、男子と女子がそれぞれ別々に好きな席を選び、先生の合図で対面する事になっていた。私のいる場所は廊下のすぐ隣なので、磨り硝子越しに男子の頭が見えた。壁越しの喧騒は何だか別世界の音みたいで、プールで耳に水が入っちゃった時に似ているなあと、私は取り留めもなく考えた。
遠い声に耳を傾けていると、夏美ちゃんが、にやっと私に笑ってきた。
そしていきなり、こんな事を言い出した。
「はい。みいちゃんに付いたー」
「えっ?」
私は、ぽかんと口を開けた。
「付いたって、何が?」
「ばい菌」
「ばい菌? なあに? それ」
「知らなーい。なんか、回ってきただけだしぃ」
夏美ちゃんが、ミユキちゃんに目配せする。秘密の悪戯をこっそり成功させたような少し意地悪な顔を見て、私は頬を膨らませた。
仲間外れなんてずるい。ひどい。ちゃんと教えて欲しかった。
「もう、二人共なに? 私にも教えてよお」
「だーかーらぁ。ばい菌が今みいちゃんに付いたのっ」
ばい菌?
私は、自分の身体を見下ろした。
白いTシャツに空色のパーカー。紺色のプリーツスカート。パーカーもスカートも気に入っているものだ。
何が付いたというのだろう。汚れはどこにも見当たらない。
「ばい菌って、なあに?」
私が率直に訊ねると、二人はくすくす笑い出した。
見れば夏美ちゃんとミユキちゃんの他にも、こっそり笑っている子がいる。
私がますます混乱していると、夏美ちゃんが仕方なさそうに、からかい口調で囁いてきた。
「それ、紺野菌だって」
「え? こんの?」
「だーめ、聞えちゃう」
夏美ちゃんが、唇に指をしっと当てる。私ははっと口を噤むと、室内をさっと見渡した。
そして、息をひゅっと吸い込んだ。
……窓際の一番後ろの席に、その女の子は座っていた。
黒板から遠いその場所は、本当なら奪い合いになるような人気の席だ。でもあの子がそこに座る理由は、争奪戦に勝ったからじゃなくて、単にあぶれたからだろう。皆はあの子と同じ班になりたくない一心で、早い者勝ちとばかりに前の席から詰めたから。
その子は、深く俯いていた。おかっぱの髪が黒々と流れて、青白い顔を隠している。引き結ばれた唇だけが、髪のカーテンから覗いていた。目元は、全く見えなかった。
……何だか、お化けみたい。
その陰鬱さに気圧された時、私は、真に理解した。
さっき夏美ちゃんは、私に何て言ったっけ?
確か。
紺野菌。
「……!」
かっ、と私の体温が上がっていった。
「ちょっと! やだぁ!」
私は小声で叫ぶと、身を捩って暴れ出した。
分かったのだ。『紺野菌』。皆が意味深に笑う理由が、どういう意味なのか今分かった。私は今、とんでもない目に遭わされている。これは大変な事態だった。
どうしよう。どうしよう。汚いものが付いてしまった。大事に着ている洋服に。不気味な女の子の菌類が。
私の反応を見て、皆がどっと笑い出す。でも笑い事なんかじゃ全然ないのだ。
私がここまで動揺する理由は、これが悪質な遊びだと気づいてしまったからだ。
ただの遊び。でも事態は深刻だ。たとえ遊びでも真剣なのだ。
――私達の学校では、現在、とある『ばい菌』が蔓延している。
その『ばい菌』は、クラスメイトの子達が保有している。もちろん誰もが持っているわけじゃなくて、ちょっと根暗な感じの子とか、汗でべたべたの赤白帽を振り回してるような不潔な子が『ばい菌』保有者だ。服や、皮膚、身体中に、汚い『ばい菌』を持っている。
『ばい菌』の子に、私達が触ってしまったが最後。その『ばい菌』は猛威を振るい、普通であるはずの私達まで巻き添えにして、ゾンビのような生き物に変えてしまうのだ。やがては死に至るだろう。そんなデスゲームがクラス中で、今や学校中で起こっていた。そしてこの驚異の菌類から逃れるには、ある一つの行動を取らなければならないのだ。
その行動は、簡単だ。
『ばい菌』を触ってしまった手で、他の子の身体に触ればいい。
つまり、なすりつけてしまえばいいのだ。鬼ごっこのタッチの要領で、他の子に押し付ければいい。
そう。夏美ちゃんが今、私にやって見せたように。
――いつの間に?
私は涙ぐんで皆を睨む。席替えをしている最中とはいえ今は授業中だ。いつこんな遊びが始まったのかは分からないけれど、ともかく今、私が知った事実は一つ。
どうやら誰かが、迂闊にも『紺野菌』に触れたのだ。それが教室内でべたべたと押し付けられて、ついに私の元まで来てしまった。私はいやいやをするように首を振って、ゲラ笑いをしている夏美ちゃんを、ぽこぽこ出鱈目に殴り出した。
「もうっ、夏美ちゃんてば、ひどい! なんで私に付けるのぉ?」
「だってぇ、みいちゃんだけだったんだもん。気付いてないの。さっきからこの辺でずーっと回ってたんだけど、ねえ?」
「もうっ」
私はぷりぷり怒りながら夏美ちゃんの肩をタッチした。触られた夏美ちゃんが「付けた人に付けかえすの、禁止ー!」と叫んで、私のおでこをべちんと叩く。私がきゃあっと大げさに叫ぶと、黒板の方から「静かにしなさい!」とヒステリックな声が飛んできた。
ぎくりと、私と夏美ちゃんが凍りつく。
「あ」
おそるおそる振り返ると、担任の藤見先生が、私達二人をを睨んでいた。
新しい学年の担任は、頑固そうな女の人だ。今は黒板前で仁王立ちをしていて、私達のお喋りを目を光らせて見張っている。私は内心で首を竦めて、そそくさと椅子に座り直した。
先生が、私を見る目は厳しかった。
でも、私だけじゃない。先生は私の周辺の女の子達皆を、一人一人、隈なく眺めていた。まるで私達の水面下の遊び一つ一つを、透かして見ているようだった。
お尻の辺りが、もぞもぞする。
私はいつしか、緊張していた。
「……ねえ、やばくない?」
後ろの方から、ミユキちゃんの声がした。誰かがくすりと、沈黙の中でそれでも笑った。息の詰まるような静けさだった。男子だけが窓の向こうで、まるで唯一の救いのように馬鹿っぽく笑っていた。私は陽一郎の暢気な顔を思い出す。隣、来てくれたらいいのにな。陽一郎みたいなのんびりした子と一緒にいたら、こんなにも気詰まりな先生の目から、どこまでも逃げていける気がした。
沈黙は、長く続いた。
次第に、誰も喋らなくなっていった。
笑っていた女の子も只事じゃない静かさの中で、反笑いのまま固まった。誰かの咳が、すごく大きく聞こえた。
そんな異様さに、廊下の男子達も気付いたのかもしれない。水を打ったような静寂が広がる中で、先生が溜息を吐いた。
「噂は聞いていたけれど、本当なのね。……分かりました」
先生は、ぱんと手を叩いた。
「男子、入ってきなさい」
そう言って、がらりと引き戸を開けた。
すると、興味津々と言った様子の男子達が引き戸に詰め寄り、教室内へ素早く視線を走らせて――数人の生徒の顔が、明らかにうんざりしたものに変わったのを、私は見た。
「……ねえ夏美ちゃん、先生、どうしたんだろ?」
私が性懲りもなく夏美ちゃんを振り返ると、夏美ちゃんは「バレちゃったのかもね」と不満げに唇を尖らせた。周りの子達はそんな夏美ちゃんを不機嫌そうに見ていたけれど、夏美ちゃんは強気の態度で「何よお、皆も騒いでたじゃん。共犯でしょー」と啖呵を切った。
その段になってやっと、私も今何が問題になっているのかを悟った。
背筋が、凍りつく。さっきミユキちゃんの言った『やばい』が、頭の中でぐるぐるした。
……見つかったのだ。
私達の、秘密の遊びが。
「もしかして、私のせい?」
私がおずおず言うと、皆は表情をぱっと温和なものに変えて、「美也子ちゃんの所為だけじゃないよー」と言ってくれた。友達の大らかさにほっとした私が「ごめんね」と謝っていると、がたがたと椅子を引く音と共に、男子が続々と席に着き始めた。
ただ、着席の並びは新しい席順ではなく、見る限り以前のままだ。二時間目までと同じ並び。それが何だか不穏に思えて、私は隣の男子に訊いてみた。
「ねえ、なんで前の席順なの?」
その子は戸惑った様子で、「分かんない。先生がそうしろって」と答えてくれた。私はどぎまぎしたけれど、その時ふと思いついて、男の子の肩に手を伸ばすと、ぽんと軽く触った。
男の子が、不審そうな顔になる。名前、何だっけ。確か田村君だか田中君だか、そんな感じの名前だった。夏美ちゃんとミユキちゃんが、こんな時だというのに手を叩いて笑い出した。私はひやりとしつつも、にこっと笑った。
「ゴミ、付いてたよ?」
「? そっか。さんきゅ」
納得いかなそうな顔で、田村君だか田中君だか分からない男の子が頷く。私はとりあえず自分の身体が清潔になったのが嬉しくて、感謝と謝罪の笑みを男の子に送っておいた。
するとそのタイミングで、先生の声が割り込んだ。
「皆さん。先生は四月から皆の担任になれて嬉しかったけれど、今はとっても悲しいです。その理由が何なのか分かる人、手を上げなさい」
突然の呼び掛けだった。
私は口を噤む。隣の子も黙り、他の皆も黙りこくった。
しん、と教室が静かになる。もぞりと誰かが、身じろぎした。
先生はまた、溜息を吐いた。
「最近あなた達の間で妙な遊びが流行っているのは聞いていたけれど。……ねえ皆。そんな事して恥ずかしくないの? 先生はとっても恥ずかしいです。私達の生徒が誰かの身体の事を、とっても汚い『ばい菌』扱いして擦り付け合っている。そんな馬鹿げた光景を見て恥ずかしいって思った人は、この中には一人もいないの?」
先生が、ぐるりと私達を見回した。
私達は、貝のように黙っていた。
それは別に、後ろめたいからではなかった。
後ろめたさ以上に、気だるい疲れを感じたからだ。
恥ずかしいと、先生は言った。自分の受け持つ生徒が、つまらない遊びをして恥ずかしいと。
その言葉を聞いた私の心は、不思議と何にも感じなかった。少し眠くなっただけだった。
だって、と思う。先生が恥ずかしがるのと、私が恥ずかしがるのは何の関係もないのに。先生の価値観でお喋りされても、意味はあんまり分からなかった。
先生が熱っぽく喋る度、私達は白けていく。背後からは溜息が聞こえた。夏美ちゃんかな。ミユキちゃんかな。他の誰かかもしれなかった。皆もやっぱり退屈なのだ。私と同じ気だるさを、他の皆も感じている。退屈だなあと微睡みながら、私は先生のお説教を聞いていた。この期に及んで、私は暢気だったのだ。
だから、次の言葉は不意打ちだった。
私の暢気さは、先生の一言で粉みじんにされたのだ。
「皆さん。先生は知ってますからね? 皆が何かと、紺野さんを仲間外れにしてる事」
――どきんと、心臓が跳ねた。
皆の肩も、同じように跳ねた気がした。
皆が、ちらと窓際を見た。先生の目が怖いから、大っぴらには見られない。でも全員が同じ場所を、確かに意識してたと思う。
予想外、だった。こんな反撃を先生がしてくるなんて。私は思わず火照った頬を、そっと両手で押さえた。
……まさか、『ばい菌』の名前まで出してくるなんて。
「先生は今までも、それにこの三時間目の間も、ずっと皆さんの事を見ていました。……『ばい菌』ゲームをする女の子と、着席した紺野さんを見て嫌がった男の子。あなた達がこれからも、あんな恥ずかしい遊びを続けるなら。席替えの度に、隣になった紺野さんを嫌がるような顔をするなら。皆さん。先生も決めました。これからこの五年一組は、一切。席替えをしません」
ざわっと場が一瞬どよめき、私も激しく動揺した。
そんな。どうして。慌てた声が、あちこちから上がる。私もその声に交じって声を上げようとしたけれど、細い息しか出なかった。もどかしさから顔を上げて、先生の目を見ようとする。でも先生は色んな子達の顔を見ていて、負け犬みたいな私の目は、先生の目と合わなかった。その横顔にびっくりして、私は身体が冷たくなった。
とても、怖い顔だった。
「皆さん、席替えが出来なくて嫌ですか? 嫌でしょう。皆は今日の席替えをすごく楽しみにしてたものね。でも先生はこんな恥ずかしいものを見せられて、すごく嫌な気持ちになりました。それに一番嫌な思いをしたのは先生じゃありません。紺野さんです。……皆さん。人から『汚い』って扱われる人が、どういう気持ちになるか考えた事がありますか? ねえ皆さん。聞いてますか? 先生は皆さんに質問をしているんですよ?」
先生の声が、興奮で上ずっていく。目はかっと見開かれていて、唇は少し震えていた。鬼みたいな顔だった。祖父母宅にある怖いお面に、とっても似ている鬼の顔。次第にヒートアップしていく言葉の温度に慄きながら、私はさっと蒼ざめた。
次に何を言われるか、既に予想がついていた。
「皆さんが決めて下さい。このまま一年、席替えなしで過ごしていくか。それとも自分達から積極的に、紺野さんを誘って一緒の班になるか。さあ、話し合いなさい。先生はここで見ているから。ほら、喋っていいですよ。どうしたの? さっきまであんなに賑やかに喋っていたじゃない。ねえ? さあ、どうぞ?」
先生の顔が、私達の方をぎょろりと向いた。
竦んだ。責められている。でも私一人だけじゃない。友達皆が一緒だった。それでも公開処刑のような眼差しに、私はきゅっと唇を噛んだ。
これは、取引だ。嫌な先生と私達の、新学期早々の真っ向勝負。
男子はハラハラと傍観を決め込んでいるけれど、そんな態度では困ってしまう。元々この現状は女子だけの所為じゃない。この男子達の中には確実に、窓際の一番後ろに座る子がいるのだ。そしてさっき、嫌な顔をしてしまった。だから先生に見咎められたのだ。私達だけの所為じゃない。男子の詰めが甘いから、皆でこんな目に遭っている。
私はあの子を、そろりと振り返った。
先生が名前をはっきり挙げた所為で、今や皆が遠慮なしに、窓際のあの子を見つめている。
たくさんの目に晒されても、あの子は顔を上げなかった。
まるで寒さを堪えるように、身体を窄めて座っている。握り締められた白い拳に、青い血管が透けて見えた。
私は、唾を飲み下す。ジェットコースターに乗った時のような浮遊感が、お腹のあたりに黒々と蟠った。
誰か、手を上げないだろうか。
誰か、引き受けてくれないだろうか。
そう自問した時、私が引き受けたらいいじゃないかという声が、頭のどこかから聞こえて来た。
私は全力で、首を激しく横に振る。
嫌だ。出来ない。『ばい菌』の子だ。生理的に無理だった。
それに、そう思っているのは私だけじゃないはずだ。誰も名乗りを上げなかった。男子は女子の方を非難がましく見つめていて、女子の問題なら女子で解決しろとばかりに私達を睨んでくる。その一方で気まずそうな目もしていて、重苦しい沈黙に、窒息してしまいそうだった。
……そして、少しの怒りが湧いてきた。
どうして、私達がこんなにも苦しい思いをしているのだろう。
今日は特別な一日のはずだったのに、何がここまで歯車を狂わせたのだろう。
あの子は、どうして『ばい菌』になったのだろう。
ただの孤独で可哀想な女の子じゃなくて、どうして汚い菌類を身体に沸かせる所まで落ちぶれたのだろう。
理由は、見たら分かる。
人と関わろうとしないからだ。
私みたいに、喋らないから。笑わないから。誰かと一緒にいようとしないから。
だから、腐る。腐敗する。そうやっていつしか人に疎まれる菌類扱いされて、こうして今皆から腫物扱いされている。そんな汚さが伝言ゲームのように教室を駆け巡り、クラスメイトを戦々恐々とさせる汚物に変わったのだ。
『汚い』は、孤独だ。人との関わりを捨てたから、あんな風に一人になる。
それは私にとって絶望と同じだった。想像もつかない世界だった。
……あの子。学校来てて楽しいのかな。
少なくとも私には、友達のいないあの子の孤独は汚い『ばい菌』そのもので、世界の終わりも同然だった。
こうしている間にも、あの子の汚さが室内に滲んでいく気がした。『ばい菌』を撒き散らして、教室中にウイルスを蔓延させ、空気をどろどろに濁される気がした。一人の女の子の汚い孤独が、皆の教室を穢していく。その汚染に耐え難い思いをしているのはこちらの方にも関わらず、先生は私達を責めるのだ。
どうなってしまうのだろう。ここで汚れに塗れながら、誰かが生贄のようにあの子と引合されるのだろうか。
そんな犠牲が生まれるまで、この戦いは終わらないのだろうか。
それは、なんて――――気持ち悪い、ことなのだろう。
私がそうやって絶望した、その時だった。
鬱々と淀んだ空気に、白く眩い救いの光が、ふわっと淡く射したのは。
コンコンと、ノック音が響く。
室内の全員が、何事かと引き戸を注視した。
先生のすぐ隣、黒板の隣の引き戸だった。ノックはそこから聞こえていた。
がらがらと、扉が横にスライドする。
鈴のような音色の声が、そこから涼しく聞こえてきた。
「失礼します」
礼儀正しい、言葉だった。
遅刻して教室に入る子で、これほどきちんとした声掛けをする子を、私は知らない。開け放たれた扉から、さあっと白い光が零れてくる。
午前中の光だった。まだ夕暮れの赤味を帯びていない、ただただ白い太陽光。廊下の向こうの窓から射す、その輝きが鮮明だった。さあと吹き込んできた風が、桜の花弁を運んで来る。のぼせた頬を、冷たい風が撫でていった。ああ、窓が開いているのだ。日向の匂いがふわっと香る。まるで手で撫でられたみたいに、この日の風は優しかった。
金色の光が、輝いた。白い光に似たその色は、綺麗な髪の色だった。二つに結った栗色の髪が、陽の光を弾いている。白いブラウスにも同じ色の、眩い光が映っていた。
私は、瞠目した。
そこには、女の子が一人立っていた。
スカートがふんわりと揺れ、上履きの靴音のエコーが教室の空気に溶けていく。その足音を境に、音さえもが世界から消え失せた気がした。無音の中で空気が瑞々しく色付き、水滴が空で光るように、そこへ虹を映すように、水面の輝きが煌めいた。
あ、と。誰かが声を上げた。視界の端で、男子が一人身じろぎしている。よく日焼けした男の子。撫子、とどこからか陽一郎の声がした。
その声が聞こえた時、やっと止まった時間が動き出した。
先生が、虚を突かれた顔をする。
そして「ああ、雨宮さん!」と眉尻を下げて、そこに立つ女の子へと、慌ただしく駆け寄った。
雨宮さん。
私は、その名前を小声で呟く。雨宮さん。誰にも聞こえないほど小さな声で、舌の上で転がした。
教室中が、再び静まり返っていた。突然登場した一人の女の子の姿を前に、誰も何も喋らなかった。
でもその沈黙は、今度は重いものじゃない。さっきまでの重苦しさは、一瞬でどこかに消えてしまった。
この子が今、清めたから。
全部、綺麗に消したから。
攫っていってしまったから。
「雨宮さん、もう大丈夫なの? 今ね、丁度席替えをしてたところで……」
先生が雨宮さんを気遣いながら、何かを一生懸命喋っている。ああ、と私は思った。
そっか。
この子が。
前方をだけを見る私の視界に、隣から手がにゅっと伸びてきた。さっきの、田村君だか田中君だか分からない子だ。怒りに頬を赤く染めて、私の左腕を小突いてくる。「返す。ふざけんな」という声が、私の耳に突き刺さった。
私は、その子を振り返る。
そして、淡々と言った。
「何を?」
「え?」
「何言ってるの? 最初から何にもなかったよ? 『ばい菌』なんて、どこにも」
呆ける男子を放置して、私はかたんと立ち上がった。
先生が、皆が、何事かと私を見る。
私はにこりと微笑むと、大きな声で宣言した。
「先生。私、紺野さんと一緒の班になります」
全員が絶句し、直後にダムの決壊のように声が溢れ返る中で、みいちゃん、と私を呼ぶ友達の声を耳が拾った。私はその全てに背中を向けて、窓際の席を振り返った。
もう一度、笑って見せる。
少しほっとしていたのだ。
……やっと顔を、見せてくれた。
髪の遮蔽物なしに見た顔は、思ったよりは可愛いかった。壮絶な暗さを想像していたので、それが私にとっては救いだった。
私はクラスメイトの視線をライトのように浴びながら、それでいてたった一筋の光だけを意識して、元気な自己紹介をしたのだった。
「紺野さん。私、風見美也子。よろしくね」
小学五年生になった、春。
私は、妖精と出逢ったのだ。




