花一匁 25
退屈だなあ。
私は欠伸を噛み殺して、ぐっと空高く伸びをした。
ランドセルを背負った背中が、弓なりに反れていく。そんな伸びを続けていると身体の重心が後ろに傾き、私は体勢を立て直そうと、とんと身軽にジャンプした。そうやって赤く舗装された歩道を歩くと、足が桜の絨毯を踏んだ。響く靴音はいつもよりも柔らかくて、楽しくなった私はその場でとんとん足踏みする。積った花弁がふかふかしていて、白い陽光もぽかぽかで、私はもう一度欠伸をした。
季節は、すっかり春だった。
「みいちゃーん、おはよ!」
声に私が振り返ると、青天の下で、ぶわりと桜の花弁が乱舞した。桃色の吹雪で狭まる視界に、数人の女の子がやっと見えた。仲のいい友人達だ。私は嬉しさからにこっと笑い、元気いっぱいの声で叫んだ。
「ミユキちゃん、夏美ちゃん、おはよう!」
私に応えて、「おはよー」と声が木霊のように返ってくる。私は歩調を遅めて皆を待つと、追いついてきたメンバーで肩を並べて歩き出した。
「ね、みいちゃん。今日の三時間目楽しみだね」
「三時間目? 何かあったっけ」
「もう、学級会だってば!」
とぼける私に、ミユキちゃんが頬っぺたを膨らませた。
「最初の席替え、今日だったの忘れたの? みいちゃんてば、抜けてるー」
「……忘れてないよお!」
私は含み笑い、弾むようにミユキちゃんの身体へ肩をぶつけた。笑い声が弾け、ミユキちゃんが肩を震わせる。私も一緒になって笑いながら、一緒に歩く他の子を振り返った。
皆楽しそうに笑っていた。私が待ち望んでいたのと同じように、他の子も待っていたのだ。
そう。私は忘れてなんていない。ぱっと見いつもの朝と変わらないけれど、今日が特別な一日だという事をちゃんと知っている。
今日、私達の五年一組では、新学年にあがってから最初のイベントが待ち受けている。
四月の終わり。もう数日もしないうちに五月になる。
始業式から二週間近く経った今日、私達のクラスは、三時間目の学級会を利用して、席替えを行う事になっていた。
ただの席替えなら、こんなにテンションは上がらない。
私達が盛り上がる理由は一つ、今回の席替えはくじ引きではなく、自由な席を選んでいいという形式を取るからだ。
つまり、友達同士で一緒の班になれるのだ。
大抵の授業は、席順で区切られる班員の皆で、行動を共にする事になる。
だから私達は今日という日を、心待ちにしていたのだ。
「みいちゃん、一緒の班なろうよ」
夏美ちゃんが私の肘を小突いてくる。私は歯を覗かせて笑いながら、「もちろん!」と笑った。
確認し合うまでもない事だ。ここにいるメンバーとは、去年から一緒につるんだ仲だ。友達と一緒のクラスになれて、私は本当に運がいい。元々友達は多い方なのでクラス替えに伴う心配はなかったけれど、それでも四月のうちから友達に囲まれて、私は毎日が楽しかった。
でも、だからこそ――私はほんの少しだけ、退屈さも感じていた。
ふわあ、と欠伸を噛み殺す。三度目の欠伸を堪えるのに失敗していると、「みいちゃん、変な顔!」と隣を歩くミユキちゃんが吹き出した。夏美ちゃんも私の顔を覗き込んで笑っている。その声につられて他の女の子達も笑い始めたので、私は「何よお!」と声と腕を振り上げると、怒ったフリをしてはしゃぎ回った。そうやっていると眠気も飛んで、とっても楽しくなってきた。
校門をくぐって、校舎へ続く階段を上がる。パステルカラーのタイルがまばらに埋め込まれたアーチをくぐって校舎の扉に向かい、昇降口で靴を履き替える。上履きの踵をぺたぺた鳴らしながら廊下を歩くと、靴音に混じって皆の話し声が聞こえてきた。朝の音だ。この賑やかさは、新しい一日が始まる音。窓から射す白い光を全身に受けながら、私は友達と馬鹿みたいに笑い合って、その会話が途切れた合間に、そっと耳を澄ませてみる。
学校の朝は慌ただしい。一年生から六年生までの子供達が一斉に登校するのだから、それは当然の賑やかさだ。おはよう。おはよう。おはよう。挨拶がそこかしこで飛び交っている。きちんと挨拶をしなさいと、先生が口をすっぱくして言うからだ。私は先生の命令口調は嫌いだけれど、挨拶自体は大好きだ。だって返事がもらえるから。おはようという挨拶一つで、相手も言葉をくれるから。
そんな事を考えていると、廊下の向こうから歩いてきた二人の男子とすれ違った。
私はそのうちの一人が友達だと気づき、元気よく挨拶した。
「陽一郎、おはよう!」
男子生徒の肩が、私の大きな声にぴくんと跳ねる。二人いる内の背丈の低い方の子だ。驚いてる、驚いてる。私がにこにこと笑っていると、振り返った男の子は目を真ん丸に見開いてから、満面の笑みで手をぶんぶん振ってきた。
「みいちゃん、おはよう!」
この男の子の名前は、日比谷陽一郎だ。
最近の体育の授業中、逆上がりが出来ないのをクラスメイトにからかわれていた子。つい『私もできないよー』と助け舟を出してあげたら、それをきっかけに仲良しになったのだ。体育嫌い同盟だ。陽一郎は人懐こい性格みたいで、私を見ると嬉しそうに笑ってくれる。何だかハムスターっぽい男子に懐かれるのは、弟が出来たみたいで嬉しかった。
「みいちゃん、早いね。いつもこれくらいだっけ?」
「別に早くなんてないよお。普通普通」
「そう? じゃあ、僕ら行くね。ばいばい!」
「うん、ばいばい!」
陽一郎が快活に手を振る隣では、よく日焼けした男の子がいた。ちらとこちらを見てきたので私が「おはよう」と言うと、「おす」と短い挨拶が返ってきた。
まだ顔しか覚えていないけれど、多分同じクラスの子だ。
会話を交わせたのが嬉しくて、私は太陽のように笑いかけた。
でもその男子はもう私を見ていなくて、「陽一郎、行くぞ」とだけ言うと、さっさと廊下を歩いていった。陽一郎が「待ってよお、柊吾ぉ」と慌てて叫んでついて行く。私はふうんと頷いて、二人の男子を見送った。
陽一郎は気弱な男の子だけれど、隣にいた子は違うタイプみたいだった。もっと自立のできた、しっかりした感じに見える。
確実に離れていく二人の会話が、かろうじて私の方まで聞こえてきた。
「柊吾。撫子来るの、今日からだよねっ? 元気かな、撫子」
「アホか。元気なわけないから休んでるんだ。昨日プリント持ってった時も、本人には会えなかっただろ」
「でも学校来れるくらいになったって事じゃん。午前中病院ってことは、三時間目か、四時間目くらいに来るのかなあ?」
「……知らねえし。時間まで聞いてねえから」
晴れやかな声と、それに答えるぶっきらぼうな声。そのやり取りを耳にしながら、そういえば学校をずっと休み続けている子がいたっけ、と私は記憶を手繰ってみる。
身体が弱い子みたいで、ちょっとした風邪をこじらせてしまったという。クラスが前から一緒だった子達が、代わりばんこで自宅にプリントを届けているという話だった。
欠席続きの子は、陽一郎の友達だったのだ。
陽一郎には、他にも仲のいい友達がいる。それが何となく嬉しくて、私はふふと笑った。
皆が仲よく過ごせるのは、とても気分のいい事だ。
「……みいちゃんってさ、友達多いよね。まだ新学期なのに早い早い」
ミユキちゃんが、感心したように言う。
私は得意げな気分になりつつも「えへへ、そんな事ないよお」と謙遜した。
まだクラスには、顔と名前が一致しない子がたくさんいる。新学期はまだ始まったばかり。これからきっと、友達をさらに増やしていけるだろう。
それに、まだ話した事のない子の中には、すごい美人の子もいるのだ。つやつやのロングヘアーに、切れ長の目の美少女だ。ちょっと近寄りがたい雰囲気の子だけど、綺麗な子とは喋ってみたい。頃合いを見て話しかけようと、私はこっそり決心した。
「友達が増えるのって嬉しいよね。皆で仲良くできたらいいねえ」
「……皆で仲良く、ねえ」
ミユキちゃんと夏美ちゃんが、顔を見合わせる。私の言葉を聞いた他の子も、一瞬複雑な顔になった。
急に、日陰に入ったみたいだった。春の陽気に雲が差しかかったように空気が冷えて、私達のいる場所だけが、ほんの少し静かになった。
あ、ちょっと嫌な笑顔。
私は皆の顔を見て、表情をちょっと曇らせた。
でも、そんな風に笑う理由を、私の魂は知っている。
私も、女の子の一人だから。
きっと同じような嫌な顔を、誰かに意図せず見せている。
私の魂はその事実を、多分この時から知っていた。




