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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 23

 紺野ちゃん。

 紺野ちゃん。

 紺野ちゃん。

 ……駄目だった。

 私は脂汗を流しながら、ベンチに座り続けていた。早く帰らなきゃと思ったけれど、私の頭の中には一人の女の子が立っていて、意識はそこに釘付けだった。流れた汗で肌着が皮膚に貼り付き、その不快感は私の中で、呉野さんの声に変わった。

 ――貴女って何だかとっても、気持ち悪いのよ!

 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……。ぐるぐると景色が周り、視界の端が白濁する。私は震える指で鞄を手繰り寄せ、中から携帯電話を取り出した。

 調べなくちゃ。そう思った。私は、調べるべきなのだ。

 私が今思い出した女の子。陰気で内気で人と話すのが苦手な子。私はこの子を知っている。この子のあだ名は『紺野ちゃん』。

 でも、私が思い出せるのはそこまでだった。

 私とこの子は友達で、それが小学五年時の事だというのは分かる。でもそれ以外は駄目だった。『紺野ちゃん』は何が好きで、私とどんな話をして笑い合ったのか、そんな友達として覚えていて当然の記憶が、私には一つもなかったのだ。

 私はようやく自覚した。人に言われて初めて知った。私は忘れ過ぎていた。怖いくらいに忘れていた。

 ――貴女のその馬鹿さ加減、許しがたい罪悪よ!

 呉野さんの言葉が頭でわんわん響いている。私は携帯を操作して、アドレス帳画面を開いた。

 ……調べなくちゃ。『紺野ちゃん』を。

 義務感が、胸の内で燃えていた。私は今までにもたくさんの物忘れをしてきたけれど、忘れた事を振り返る事はしなかった。それでいいと思っていた。

 でも、駄目だ。この子だけは。

 何故だろう。思うのだ。他の誰を忘れても、この子を忘れてはいけないと。

 それくらいにあの子は、私にとって――――大事な友達な気がするのだ。

 私は、すごく怖くなった。何を忘れているんだろう? どうして忘れているんだろう? 生まれて初めての恐怖だった。頭蓋の中ではまだ呉野さんの哄笑が響いていて、その声に紛れて和音ちゃんの声もした。私を気持ち悪いと詰る声。早く。早く調べなくちゃ。そうでなければ私は恐怖に呑まれてしまう。呉野さんと和音ちゃんに気持ち悪いと言われた事を、受け入れないといけなくなる。そんなのは嫌だった。絶対に嫌だった。私は眼球をぎょろぎょろ動かし、表示された名前の羅列を猛スピードで追い始めた。

 幸い私は友達が多い。携帯に登録した名前はゆうに百人を超えている。もちろん半分以上はとりあえず登録しただけの子や、もう存在も思い出せない相手だけれど、それでも頑張って探して見せる。

 この中に、必ずいるはずなのだ。『紺野ちゃん』を知っている子が。

 希望と焦燥に衝き動かされるようにして、記憶の捜索を続けた私は――ついに一つの名前に辿り着いた。

 スクロールする指が止まる。

 変わった名前を見つけたのだ。

『日比谷陽一郎』

 長くて、大げさな名前。それが私の感想だった。大体の子は漢字四文字か五文字なのに、この男の子の名前は六文字もある。名簿からぴょこんとお尻のはみ出た長い名前は、それだけで私の注意を引きつけた。

 なんて読むんだっけ。私は指を唇に当てて考え込み、自然と「ひびや?」と呟いた。そんな自分の声に私は驚き、やがてじわりと押し寄せた歓喜で手が小刻みに震え出した。

 思い出した。この子の名前は、『ヒビヤヨウイチロウ』だ。私の記憶に狂いはなかった。私はこの名を知っている。声に出して呼んだ名前に、確かな懐かしさを感じたのだ。

 陽一郎。そう。陽一郎と呼んでいた。ひょろりとした体格の、泣き虫だけれど優しい子。時々一緒に遊んでいた。私は『みいちゃん』と呼ばれていて、仲もそこそこ良かったはず。それにクラスが一緒なのは、多分だけれど小五の時。私は汗を流しながら、自然とうっすら笑ってしまった。

 ここまで思い出せれば上出来だった。陽一郎は私の小五の友達。つまり、『紺野ちゃん』のクラスメイト。陽一郎は『紺野ちゃん』を知っているのだ。心に、希望の光が射しこんだ。

 陽一郎に訊けば、分かる。私は『紺野ちゃん』を忘れてしまったけれど、その記憶は陽一郎の言葉がきっと埋めてくれる。

 そうすれば、この声もきっと鳴りやむ。呉野さんと和音ちゃんの言葉なんて、全部嘘。私は信じない。全部二人の嘘なのだ。

 そうと決まれば、私の行動は早かった。

 私は登録していた陽一郎のおうちの番号を押し込み、携帯を耳に当てた。

 もしかしたらおうちの人が出るかもしれないし、夜だから嫌がられるかもしれない。少し不安に思ったけれど、これは緊急事態なのだ。私は緊張と期待で胸が潰れそうになりながら、電話の応答を待った。

 そして、すぐに。

 高めの声が、聞こえて来た。


『もしもし?』


「あ……」

 声だけで、分かった。女の子みたいと思った瞬間、私は一気に緊張が緩んでしまい、上ずった声で名を呼んだ。

「陽一郎……っ?」

 陽一郎。陽一郎だ。家族の人じゃない。電話に出てくれたのは陽一郎本人だった。

 涙が、つうと頬を伝った。陽一郎。陽一郎。声が聞けて安心した。私はこんなに不安だった。まだ何も話せていないのに、もう全部解決した気になっている。感動で胸を詰まらせた私の耳に『あの、もしもし』と狼狽えた声が聞こえてきて、私はまだ自分が名乗っていない事に気が付いた。

「あっ、ごめんね、陽一郎。あのね私、風見美也子。みいちゃんって呼んでくれたでしょ? 覚えてるよねっ? えっと、そう、小五の!」

 私は矢継早に言った。私と陽一郎の交友が絶えて四年が経っているし、陽一郎はお茶目だから、私みたいに度忘れしているかもしれない。何て言えば手っ取り早いかなと考えたら、自然と小五と言ってしまった。その情報はさっき呉野さんからもらったもので私に実感はなかったけれど、その言葉で陽一郎は思い出してくれたみたいだった。

『みいちゃんっ?』

 私はびっくりして携帯を耳から離した。

 すごい大声だったのだ。

 こんなに驚いてくれるなんて。陽一郎が私を覚えていてくれたのは嬉しかったけれど、そこまでの反応が返ってくるとは思わなかった。何だかまるで、何年も行方知れずになっていた飼い猫がふらりと帰ってきて面食らったような。そんな驚き方だった。

「うん、みいちゃんだよ? 陽一郎、久しぶり。声、ちょっとだけ低くなった?」

 思わず訊きたい事とは別の事を訊いた私に、陽一郎は『えっと』と口籠った。変わらないなあと思う。でもその反応を可愛いと思う余裕は私になかった。

 声の事なんて訊いている場合じゃないのだ。早く、『紺野ちゃん』の事を訊かなくちゃ。

 私は焦ったけれど……結局その質問は出来なかった。

 陽一郎の硬い声が、私の声を止めたからだ。

『みいちゃん、あの……なんで、転校しちゃったの?』

「え?」

 頭が、真っ白になる。

 私が質問したかったのに、陽一郎に先を越された。思い通りに運ばなかった会話と展開について行けず、私はぴたりと黙り込む。

 そして一拍遅れで理解して、茫然と復唱した。

「転校……?」

 訊き返す私に、『すごく急だったじゃん!』と陽一郎が叫んできた。

『学校急に来なくなって、それで『風見さんは転校が決まりました』って先生に言われて、皆も僕もすごく心配してて……っ』

「え? えっ?」

『でもこっちはみいちゃんの前のおうちの番号しか知らないし、連絡の取りようもなくて。だから余計に心配で……でもよかった。みいちゃん、元気そうで安心したよ!』

「……あの、待って? 陽一郎」

 私は陽一郎を止めた。

 さっきの陽一郎みたいな硬い声を、今度は私が出した。

 陽一郎の声がぴたっと止まり、『……みいちゃん? なあに?』と不思議がっている。私は返事をしようとして、声にならずに咳き込んだ。

 ……恐怖を、感じていたからだ。

 会話の流れが、変だった。私はこれから陽一郎に『紺野ちゃん』の話を訊くはずで、それに陽一郎は答えてくれるはずで、その会話によって私は悲しみから解放されて、そこまで行き着けば救われるはずだったのに。

 なのに、どうして。

 脱ぎかけのコートが、肩からずるりと落ちた。冷風は一層鋭さを増して、肌が剥き出しの部分を刺してくる。その痛みが分かるのに、寒さは全然感じない。それがおかしいという事に、さすがの私でも気づいていた。

 血が、頭から下がっていった。砂地に付いた足が立ち位置を失くし、どこまでも落ちていくような絶望を感じた。鼓動がまた早くなった。身体がみるみる火照っていく。さっきと同じ感覚だった。呉野さんと話した時と同じ。私の事を気持ち悪いと言った呉野さんと、呉野さんに気持ち悪いと言われた事を忘れて安穏と会話をした時と同じだった。

 私にとって見過ごせない痛みを忘れたまま、誰かと話している時と、これは同じ痛みだった。

 陽一郎と話せば、全て終わると思っていた。

 でも、違った。そうじゃなかった。

 私は、ようやく悟っていた。

 この会話は、私にとって――――救いではないのだと。

「……陽一郎」

『? なあに、みいちゃん』

「私、転校したの?」

『え?』

「私、小学五年の時……学校、転校してたの?」

 陽一郎が、黙り込んでしまった。「ねえ」と私は携帯に唇を寄せた。機体に唇がくっ付くほどに。「ねえ!」ともう一度叫んだ。

「陽一郎っ、教えて! 私、小学五年で転校したのっ!?」

『みいちゃんっ……?』

「答えてっ! 答えてよおっ、陽一郎!」

 私の権幕に、陽一郎の気配が電話の向こうで怯んだのが分かる。でも私は寂しくて辛くてとにかく必死で、「答えてよお!」と泣きじゃくった。陽一郎が私を呼んでいる。でも私が訊きたいのはそんなものではないのだ。ただ知りたかった。私が何を忘れたのか。そんなものはどうでもいいと心のどこかで思いながら、『紺野ちゃん』の事だけは、ここで知るまで帰れなかった。

「教えてよ、陽一郎……お願い、お願い……私、何を忘れてるの? 怖いよ、助けて、助けてよお、陽一郎! 紺野ちゃんの事、教えてよお……!」

『えっ? 紺野さんっ?』

 陽一郎が、間の抜けた声を上げた。

 そして、ぽろっと。

 まるでハンカチの落し物でもしたかのように、ぽろっと、呆気なく。

 陽一郎が、私に言った。

『紺野さんって……事故で死んじゃった、紺野さん?』

 空気が、凍りついた。

 そんな音を、聞いた気がした。

 死。

 死んだって、何。

 知らない言葉だと思った。外国語のようだった。それくらいに何を言われたか分からなくて、愕然とする私の耳に、陽一郎が息を呑むのが聞こえた。『ごめんっ、軽い言い方して、ごめん!』と懸命に謝られながら、私の手はかたかたと震えた。

「死んだ……? 紺野ちゃん、死んだ……?」

『え? みいちゃん、知らないの?』

 陽一郎が何か言っている。でも私の耳にはもう、その言葉は半分くらいしか聞こえていなかった。

 頭の中で、今。はっきりと顔が浮かんだのだ。

 風景が、顔ぶれが、次々次々浮かんでくる。風には四季の匂いがあった。春の桜。夏のプール。秋の枯草。お別れの季節。冬の匂いだけが欠けていた。

「あ、あ、あ、あ……」

 私は頭を抱え、抑える。携帯が手から落ちて、ベンチに衝突して弾んだ。陽一郎が最後に何かを叫んだ気がした。私は携帯の方へ手を伸ばそうとしたけれど、青色の公園風景は涙と汗で白く霞み、代わりに押し寄せた映像が、私を殺しにやってくる。全然知らない記憶の群れが、私を責め立てにやってくる。

 みいちゃん、と。誰かが私を呼んだ気がした。

 声は、別に高くない。陽一郎の声じゃない。

 女の子の声だった。

 その女の子が、私を呼ぶのだ。みいちゃん、みいちゃん、みいちゃんと。私が思い出さない事を責めるように呼んでいる。

 その呼び声に誘われるように、白い光が、さっと記憶の闇を照らした場所は――校舎と校舎の隙間の空間。ケヤキの木の下。木を取り囲むように並べられた、皆の鉢植えの前だった。

 木陰に立つのは、おかっぱ頭の女の子。

 ちょきんと鋏が鳴り響く。手には鋏を握っていた。その刃先には、緑の汁と白い花びらが。

 私はその光景に目を奪われて、後ずさり、足音を立てて、おかっぱ頭の女の子が、私の隠れた校舎の影へ、暗い眼球をぎょろりと向けて、それから、それから、それから――――。

「ま、待って……違う、違うの……紺野ちゃん、私の所為じゃない。私の所為じゃないの……」

 私は両耳を塞ぎ、身体を胎児のように丸めた。そんな私の体たらくを、誰かが嘲り笑った気がした。気持ち悪いと嘯きながら、醜い声で笑った気がした。


 紺野沙菜ちゃんが、逃げる私を笑った気がした。


 花を切った紺野ちゃんが、ルール違反をした紺野ちゃんが、仲間外れの紺野ちゃんが、永遠の鬼の紺野ちゃんが、学校で、中庭で、鋏を握って、私を探して、私を追い駆けて、私を、私を、私を、私を――――。


「――――嫌あああああぁぁぁっ!」


 慟哭が、私の喉から迸った。

 長い悲鳴は夜に溶け、一人ぼっちの公園で、私の意識も闇に落ちた。

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