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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第2章 呉野氷花のラスコーリニコフ理論
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呉野氷花のラスコーリニコフ理論 4

 五分ほど車に揺られて到着した中華料理屋は、大衆食堂に似た雰囲気のこじんまりとした店だった。すすけた暖簾のれんをくぐると、壁に所狭しと貼られた手書きのメニューと、熱い油の匂いに出迎えられた。庶民的な生活感が呼吸に馴染み、柊吾は何となく安堵した。

 今日の授業は四時間目までだったので、朝食をったきり何も食べていない。普段ならば学校で弁当を食べている時刻をとっくに過ぎているので、さすがに空腹だった。柊吾達の座る四人掛けのテーブル席の傍を、店員が餃子の盆を持って通り過ぎる。ほわほわと立ち上る湯気を目で追った柊吾が思わず「ギョーザ」と呟くと、対面に座った恭嗣が吹き出した。

「柊吾、どんどん好きなの頼め。誕生日に何もしてやれなかったからな。何でも食っていいぞ」

「ユキツグ伯父さん、格好つけてるけど、本当に何でも頼んで大丈夫なのか?」

「食べ盛りだからな、そんなもんだろ。何しろ真っ盛りな中学二年だしな」

「さっきから、真っ盛りっていうのやめろ」

 母の目を気にした柊吾はメニューで伯父の肩をはたいたが、恭嗣はどこ吹く風で「はいはい、シュウゴはほっといて。ハルちゃん決まった?」と母に水を向けた。

「えっと、そうね……」

「母さん、残したら俺食うから」

 隣の席でメニューと睨めっこをしている母に、柊吾は助け舟を出した。ひょいとメニューを覗いた恭嗣も、「中華だしな。皆でつっつくから残んないって」と安心させるように言った。柊吾には真っ盛りと連呼するくせに、母の遥奈には誠実に応対するのだから釈然としない。柊吾は半眼で睨んだが、恭嗣にはにやにやと笑われた。伯父とおいによる視線の攻防を見た母が、ふっと可笑しそうに息をつく。

「ごめんなさい、気を遣わせてしまって」

「気にしないでいいって。いつも言ってんのになー、ハルちゃんは」

「ありがとう、恭嗣義兄さん。ええと、じゃあ、唐揚げ食べたいです」

「ん、ここは唐揚げも美味いよ。あとは、ラーメンっと。ほれ、柊吾。食いたかったんだろ? 色々あるぞ。どれがいい?」

 恭嗣は八重歯を見せて、人懐こく笑った。鷹揚な笑みを見つめた母は、穏やかな笑みを返して俯いた。どことなく親密で、それでいて余所余所しい、曖昧でむず痒い不思議な空気が、厨房からの湯気と一緒に漂った。柊吾も、メニューのラーメンを眺めるふりに勤しんだ。相手も見られたくはないだろう。だが伯父はこちらの配慮を台無しにして、愉快げにはやし立ててきた。

「ほら、シュウゴも。もっと言えって。中二で真っ盛りな十四歳が、餃子くらいで足りるわけないだろ?」

「ああああ! うぜぇ! ユキツグ伯父さん、うっぜぇ!」

 わあわあ騒ぐ二人を見た母が、口元に手を当てて笑った。品のない会話だったが、それでもこれは、恭嗣なりの配慮だろう。店員にてきぱきと注文を述べていく恭嗣を見ながら、そんな風に柊吾は思う。

 三浦恭嗣は、柊吾が生まれた時から傍に居てくれたらしい。安産祈願のお守りを持って産院に駆けつけてくれたのだと、父の駿弥から聞いたことがある。

 剽軽ひょうきんで人を笑わせることが大好きな伯父の名前にどんな漢字が当て嵌まるのか、柊吾は長年知らずに過ごしてきた。ふと気になって教えてもらった漢字は柊吾にとって思いのほか難解で、「キョウジ」と誤読してしまった。本人は慣れているそうなので「別にキョウジでもいいぞ」と言ってくれたが、名前はきちんと呼ぶべきものだと思う。律義に「ユキツグ伯父さん」と呼ぶ柊吾を幼い時から弟分のように可愛がってくれたので、柊吾は昔から伯父と遊ぶのが楽しみだった。一人っ子なので、兄のようにも感じていたのだ。

 ただ、そんな伯父と遊ぶ日は、正月や夏休みといった長期休暇がほとんどで、頻繁に会うようになったのは、父を亡くしてからだった。

 柊吾の学費は大半が母方の祖父母に支えられていたが、恭嗣にもかなり助けられている事を、柊吾は既に知っている。恭嗣の仕事について詳細はあまり知らないが、精密機器の製作会社で働いているらしく、待ち合わせ時間が適当だったり柊吾を大人げなくからかったりする姿からはあまり想像できないが、社内では偉い方らしい。

「そういやシュウゴ、今日は学校が午前中で終わりだって聞いてたけど、テストだったのか?」

 不意に恭嗣が声を掛けてきたので、柊吾は我に返った。伯父に会うとどうしても、昔を振り返り過ぎてしまう。「あー、テストじゃないけど、今日は特別」と答えた柊吾は、母が差し出してくれた割り箸とお手拭きを受け取った。

「隣のクラスの奴が一人、もうすぐ転校するらしいんだ。そいつの送別会をするとかで、今日の午後から隣のクラスの連中、全員でどこかに遊びに行くって聞いた。他のクラスの奴らは、下校なり部活なり自由にしろってさ」

「なんだそりゃ。転校生一人に対して、随分な特別待遇だな」

 目を瞬く恭嗣へ、「ああ、意味分かんねえよな」と柊吾も深く同調した。

「その子、シュウゴの顔見知りか?」

「一応。けど、大して話したことねえ女子だし。どうでもいい」

「なんつーか、小学生のお楽しみ会だな。中学でもそんなのやらされるのか?」

「ん。違うクラスで助かった。すげえ面倒臭そう」

「柊吾ったら」

 あけすけな物言いだったので、母がたしなめるように苦笑した。

「何もそれだけが理由じゃないのよ、義兄さん。学校側から連絡があって、午後の授業がなくなっちゃったの」

「へえ? なんでまた」

「夏休み前の学園祭の、準備期間の前倒し……って聞いているけれど、実際にはまだ準備で動いている学級って全然ないみたいなのよね。それに、もうすぐ中間テストの時期だし……考えてみたら、少し不思議ね」

 母も、言われて初めて気づいたとでも言うように小首を傾げた。柊吾の方はもらったプリントを母へ渡しただけなので、自分では目を通していない。理由について、疑問すら持たなかった。

 ただ、何となく――憶測でなら、分かる気がする。今、柊吾達の通う袴塚西こづかにし中学校は、普通ではない。自分達の学校が異質な場所になりつつある現実に、気づいていない生徒などいないはずだ。

 ただ、そんな事情を母や恭嗣へどう説明すればよいのだろう。柊吾は「ユキツグ伯父さん」と呼んで、その懸案から二人の注意を逸らした。

「国語の授業、今日も図書室だったんだけど。前に電話で言ったアレ、持ってきてくれた?」

「ああ、アレか」

 振り向いた恭嗣が、したり顔で笑ってきた。

「持ってきたけど、難しいのばっか揃えてきたからな? エロ本ぐらいしか読んでこなかったシュウゴに読めるのか?」

「いい加減にそっち方向から離れろ、エロ兄貴」

「お、言ったな? じゃあシュウゴ。五冊持ってきたけど、一番分厚くて話が長いヤツを選べ。できるだろ?」

「いいぜ。上等だ」

「言ったな? 聞いたからな? 男に二言はないよな? 言っとくが、一番長いのは上下巻だ。二冊ともかなり分厚いぞ? さっきの無謀な発言、取り消すなら今のうちだぞ?」

「はあっ? 読めるし。言うわけねえだろ。他の本も全部まとめて読んでやるし、今度ユキツグ伯父さんちの本棚、全部攻略するからな。見てろ」

「もう、柊吾ってば。義兄さんも、すぐにあおるんだから」

 母がおろおろと柊吾と恭嗣を交互に見て、溜息を零した。

「柊吾、いい加減な選び方をしたら後悔するんじゃないの? 本を全部読んでから書かないといけないんでしょ? 国語の課題の、読書紹介」

 労りの声が胸に刺さり、ぐっと柊吾は黙り込む。明らかに柊吾の読解力を心配されていた。国語の成績は図抜けて悪いので、その心配も無理はない。

 柊吾が恭嗣に頼み込んで、本を調達するには理由があった。

 ――『各々《おのおの》が選んだ小説を、文章とイラストで紹介するポスターを制作する』

 現在、柊吾達の国語の授業は場所を図書室に移していて、課題の提出と発表の為に、各自で作業を進めているのだ。授業中は一応班ごとに着席しているが、ただの席順以上の意味はない。生徒達の行動にも制約はなく、図書室で課題の本を選んだり、本が決まっている者は早速ポスター制作に取り掛かったり、時間の使い方は様々だ。半分自習のような授業なので、気楽に構えている生徒も多い。

 ただ、柊吾の場合は、周囲と同じようにはいかなかった。

 ――圧倒的な、読書不足が原因だった。

 児童書ならば大昔に読んでいたが、他は見事にさっぱりだった。読書紹介の本は自由に選んでいい代わりに、絵本や漫画は禁止という縛りがある。クラスの友人と連れ立って本屋にも行ってみたものの、結局柊吾だけ一冊の本も選べなかった。どの書架のどの本を見ても同じに見えたのだ。

 そんな経緯から、柊吾は恭嗣に『面白い本』の選別を一任したのだった。『星の王子さま』も、以前に恭嗣が読書感想文の宿題用に選んでくれた一冊だ。

 課題の提出期限は二週間以上先であり、最終手段として『星の王子さま』を紹介するという手もある。だがそれは柊吾にとって少しだけ恥ずかしい選択なので、できれば使いたくない奥の手だ。少年と月が繊細なタッチで描かれた表紙の本を紹介するのがいかついガタイの野球少年では、何を言われるやら分からない。柊吾は体裁をさほど気にしない性質ではあったが、わざわざ悪目立ちはしたくない。

「まあ、せっかくシュウゴがやる気みせてるんだからさあ。どこまでできるか見てみたいじゃん」

「じゃあ、その一番分厚い上下巻って」

 ――何てタイトルの本なんだ?

 そう訊こうとした時、テーブルに餃子の皿が運ばれてきた。柊吾は途切れた言葉を呑み込むと、全員分の小皿に醤油とラー油を垂らし始めた。

「ありがとうね。柊吾」

 母が礼を言って柊吾から小皿を受け取った時、「ああ、そうだ」と恭嗣がおもむろに、話を戻すような気軽さで言った。

「シュウゴ。お前さ、進路どうするとか決めてんの?」

 ぱきん――と。割り箸が、音を立てて割れた。綺麗に割れず、先端が片方尖ってしまう。母が、柊吾を横目で見た。揺れた黒髪を視界の端に捉えながら、柊吾は斜め前に座った伯父を見る。

 恭嗣は、あっけらかんとしたものだった。柊吾をからかった時と、ほとんど表情が変わらない。少しの間思案したが、結局柊吾は、薄く笑った。

「ほんと、ユキツグ伯父さんってストレートに訊いてくるよな。デリケートな問題だったらどうするんだ」

「デリケートぉ? よく言うよマセガキ。そんなタマじゃねえだろ」

「進路とか、早いって。まだ中二の一学期だし」

「まあ、言いたくないなら訊かないけど」

 恭嗣も、ぱきんと割り箸を割った。柊吾同様に上手く割れなかったからか、残念そうに眉根を寄せている。頓着なく解放された柊吾は呆けたが、同時にこの展開を予期していた自分も感じていた。恭嗣は何でもさばさばと口に出すが、こちらが渋ると深追いしない。それを知っていたから、柊吾ははぐらかしたのだ。

 だが、隣で母が後ろめたそうに、目を伏せた姿を見てしまうと――勿体付けて黙りこくっているのが、急に馬鹿らしくなってしまった。

「シュウゴ、ほら。念願の餃子だぞ? 冷めないうちに食えって」

「推薦、もらってるんだ」

 グラスの水へ伸びた恭嗣の手が、止まった。溶けかけた氷が罅割れる音が、店内の空気にも小さな亀裂を生んだ気がした。

「野球で、スポーツ推薦もらった。東袴塚ひがしこづか高校の、体育科。……まだ、返事はしてないけど」

 淡々と、柊吾は打ち明けた。機械が喋っているような声だと、自分でも思う。身の内を過る感情は、綿雲のように茫洋としていて、一向に手応えを掴めない。恭嗣はぽかんとした様子で、柊吾の顔を見つめている。隣では母も呆然の顔で、口元を手で押さえていた。

「シュウゴ、それ……えっ、野球? マジで?」

「ん。マジ」

「おお」

 感嘆の声で、恭嗣は言う。だが口調とは裏腹に、その表情は神妙だった。剽軽な側面が目立ちがちな伯父らしくない、真剣な顔つきだった。

「……そうか。東袴塚か。あんまり詳しくないけど、強いのか?」

「ああ。強豪だってさ」

 恭嗣は、黙ったまま箸を握った。自分が食べなければ誰も食べないと思ったのか、餃子を一つ摘まんで小皿に取っている。湯気がふわっと、箸の動きを追いかける。熱せられた胡麻油の匂いが、テーブル席に広がった。柊吾も餃子に箸を伸ばしたが、丁度そのタイミングで恭嗣が言った。

「返事、もう決めてんのか?」

「……。まだ決めてない。でも、前向きに考えようとは思ってる」

「ん。そうか」

 簡素な言葉だった。先程までの盛り上がりが嘘のように、場が打って変わって静かになる。母が口を開きかけたが、それよりも恭嗣の方が早かった。

「……あんまりさあ、回りくどいの、俺苦手なんだよな。だから、はっきり言うぞ。シュウゴ。……お前。普通科の進学、金の事とか気にしてるだろ」

「義兄さん」

 掠れた声を上げた母を、「ハルちゃん、いいから」と恭嗣がやんわり制し、柊吾の瞳をじっと見た。

「俺が出す。気にするな。押し付けてるわけじゃない。恩に着せてるわけでもない。だからその上で、きちんと考えろ。お前、本とかろくに読んでこなかった運動馬鹿だけど、勉強が全くできないわけじゃないだろ。受験が嫌で逃げようとか考えてるわけじゃないはずだ」

「……。そういう言い方されたら、ないとは言えない」

 皆と違って、受験をせずに済むかもしれない。それは魅力的だと柊吾は確かに思ったからだ。聞いた恭嗣は、からからと笑った。

「素直なもんだな。勉強からは、好きなだけ逃げてもいい。けどな、こっちの問題からは、シュウゴ。逃がさないからな」

「大人としてどうなんだ。その発言」

 呆れた柊吾が指摘すると、恭嗣はやはり明るく笑って「はい、じゃあこの話はおしまいな」と言って手を叩き、話を勝手に締めくくった。

「せっかく親戚で楽しくめし食いにきたのに、悪かったな。餃子が冷める」

「ほんとにな」

 柊吾が強く頷いてやると、「こら」とふざけ半分の拳が突き出されてくる。骨ばった大人の握り拳へ己の手の平を打ち付けながら、柊吾はにやりと笑ってやった。

「ユキツグ伯父さん」

「ん」

「さんきゅ」

「おう」

 義兄と息子のやり取りを、母は無言で見守っていた。そして、どことなく儚さを感じさせる笑みを、まだ老いの影がまるで見えない白い頬へ浮かべて――

「ありがとうございます。恭嗣義兄さん」

 深く、頭を下げたのだった。


     *


「義兄さん、変わりなくて良かった」

 街路樹から降り注ぐ蝉の音が、母の声を虫食いにした。例年より早く訪れた初夏の音は、盛夏のように伸びやかだ。それでもさやかに聞こえた声へ「ん」と柊吾は短く応え、両肩に提げた通学鞄と買い物袋を担ぎ直した。

「ユキツグ伯父さん、相変わらずうるさかったな」

「もう、柊吾ったら」

「でも、やっぱり」

「うん?」

「……いい人、だよな」

「……そうね。いい人ね」

 母の差した黒い日傘の内側には、青い影が落ちている。日傘の縁のレースを通して繊細な光の蝶が生まれ、目元で涼しく羽ばたいた。眩しそうに目を細めた母が日傘を少し傾けると、硝子がらすのように透き通った微笑は、影と黒髪に隠された。

「……日傘、俺が持つよ」

「いいの?」

「ん」

「……じゃあ、お願い。ありがとう」

 ぬるい風が街路樹の葉をそよがせる音と、蝉の声だけが聞こえる白い世界に、柊吾のローファーと母のミュールが、ささやかな歩みを響かせる。昼下がりの駅前は、一度滅びた世界のように静かだった。

 中華料理屋を出てから、三十分余りが過ぎていた。恭嗣は柊吾達の住むアパートまで送ると言ってくれたが、母と柊吾はそれを遠慮し、待ち合わせ場所と同じ袴塚西こづかにし駅のロータリーで車から降ろしてもらった。そうして駅に隣接したショッピングモールで夕飯の買い出しを済ませてから、家路を辿り始めたところだった。

 舗道ほどうの先に視線を馳せた母は、青空を瞳に薄く映している。歳は、今年で三十六になる。同年代の子供の親より若いはずだ。母は身内の贔屓目ひいきめではなく美人だと、柊吾は本心から思っている。日に焼けていない皮膚は肌理きめが細やかで、浅黒い肌の自分の親とは信じ難い。仄かな青みを帯びた目の白さと、深い焦げ茶色の瞳の上に、伏せられた睫毛が長い影を落としていた。

 去年の夏辺りから、柊吾は母の背を追い抜いていた。身長差が開く度に、母がどれほど華奢かを思い知らされる。背格好が父に近づく度に、単純な嬉しさと、それとは裏腹な哀愁の両方とが込み上げる。感情の手応えを、掴めなくなっていく。恭嗣に進路の話を打ち明けた時と、同じような心境だった。

 薔薇の花のような母を守る役割は、父と柊吾だけが共有していたものだった。

 だが、今は――少しずつだが、違ってきているのだと思う。

 恭嗣とは、また近々会う事になるだろう。時折開催されるこの会食は、実際のところ意味など何もないのだろう。家族が同じ食卓を囲むことに理由や意味づけが不要なように、これは当然の団欒だからだ。

 勿論、厳密には家族ではない。だが、家族と呼んでもいいと柊吾は思う。その絆の形を認めて受け入れる事に、抵抗や意地や嫌悪はない。一ミリもないとは言いにくいが、それでも恭嗣は柊吾にとって、居心地がいい相手なのだ。

 それに、柊吾とて何度も恭嗣に『真っ盛り』などと揶揄されるほどに、幼い柊吾のままではない。母と恭嗣が表立って言葉の形にしないものが何なのか、分からないほど愚鈍ではないのだ。

 三浦恭嗣は、三浦遥奈に懸想けそうしている。母もまた、伯父からの好意に気付いている。それは最早、疑いようがなかった。

 ――愛している。

 不意打ちで言葉が脳裏を過り、柊吾は内心慌てた。やはりこの言葉は面映ゆく、使い道が難しい。中学生になってから、一層そんな印象が強くなった。

 ――恭嗣は、母を『愛して』いるのだろうか。

 父の影響の所為か、『愛』という言葉自体への抵抗は薄いが、あまり身近には感じられなかった。柊吾に最も近い場所にあった愛は、もうこの地球上のどこにも存在しないからだ。

 正確には、喪失したわけではないのだろう。柊吾と母が忘れない限り、在り続けるのだとは思っている。ただ、それはどう考えても感傷だった。その感傷を『愛』と呼んでいいのかもしれないが、『幸せ』と呼んでいいのかは分からない。

 まだ若く、一人ではけして生きていけない、まるで少女のような柊吾の母。

 そして身近には、そんな母を『愛して』いるかもしれない柊吾の伯父。

 もし母が恭嗣の『愛』に靡くなら、新しい家族の形を受け入れようと、柊吾は一応の決心を固めている。だが、母はまだ『三浦遥奈』だ。夫の駿弥が死別して尚、三浦姓を名乗っている。三浦家との姻族いんぞく関係も継続したままだ。父を『愛して』いたからだ。母が再婚する場合、ややこしい法的手続きを踏んで、姻族関係を終了してから新たに婚姻関係を結ぶのだろうか。そう予想を立てて自宅のパソコンでこっそり一度調べたが、法律用語がごろごろ出てきて、頭がパンクしてやめてしまった。それに、母が恭嗣を拒絶する可能性もゼロではない。母は柊吾の高校進学に固執していて、恭嗣もそれは同じだからだ。

 中華料理屋で母が頭を下げたのは、柊吾の為だ。柊吾の進学の為だった。優しい母は、義兄を利用しているようで傷ついているに違いない。

 しかも、恭嗣の方も母のそんな内心をとっくに見抜いているはずだ。中華料理屋での品のない会話にはげんなりさせられたが、あれはおそらく、伯父の確信犯だ。恭嗣は母に、異性として嫌われてもいいと思っている。

 母の引け目を見抜いた上で、それでも気兼ねなく自分を頼って欲しいから。

 これらは全て柊吾の憶測だが、外れているとは思っていない。それに、母の恭嗣への好意は本物のような気がするのだ。柊吾の進学の為という名目だけではなく、曇りのない好意があると思う。

 だが、そこに亡くなった父の存在が絡んできて、母は身動きが取れない――。

「……なんだ、これ」

 相当、面倒臭い事になっている。柊吾は重い溜息を吐き出して、複雑に絡み合った相関図を頭の中から叩き出した。しばらくは現状維持に留まる悩みに思考を割いても、柊吾が疲れるだけだろう。

「どうしたの? 柊吾」

 思わず声に出した所為で、母が小首を傾げている。柊吾は「何でもない」と誤魔化した。

「随分難しそうな顔してたけど、大丈夫? 日傘、持つわ」

「いいって。日傘くらいで疲れるわけねえし」

「……ねえ、柊吾」

「ん?」

「進路のこと、義兄さんに言うと思わなかったから、びっくりした」

「……」

「言わないで欲しいって、言ってたもの。義兄さんに、会う前に。柊吾、野球は森定先生が好きで始めたでしょう。先生はスポーツ推薦を受けたら授業料免責(めんせき)って仰っていたし、とても期待をかけられているんだと思うわ。二年生から声がかかるのはすごいことだって、興奮されていたもの」

「……ああ。そうだな」

「私も、すごいと思う。夢みたいって思ったわ。でも、本当にそれでいいのかなって、思ってしまったの。柊吾の将来がスポーツに限定されてしまって、本当にいいのかな、って。きっと私よりも柊吾の方が、たくさん考えていることだと思う。今も、考えているのよね」

「……」

「ねえ、柊吾。野球、好きって言ってたけど……人生の一部になってもいいくらいに、好き?」

 日差しを吸い込んだような明るい風が、さああ、と涼やかに吹き抜けていった。母の髪とワンピースの裾が、風に遊ばれて靡いていく。青々と茂った街路樹の枝葉は、深山の清流のような瑞々しさで、蝉の声と混じり合う。日傘で守られた蒼い影の領域で、いつしか立ち止まっていた二人の傍を、車が走り去っていく。排気ガスを肺が拾い、その熱っぽさに眩暈がした。恭嗣の言葉が、脳裏を掠めた。

「……俺、は……」

 ――『シュウゴ。……お前。普通科の進学、金の事とか気にしてるだろ』

 ――『押し付けてるわけじゃない。恩に着せてるわけでもない。だからその上で、きちんと考えろ』

「……っ」

 考えている。考えているのだ。だが、決められなかった。森定には近いうちに結論を出すと約束しているのに、少しずつ自分を追いこんで焦らしてみても、立ち尽くしたまま身動き一つ取れなかった。

 人生の、岐路に立つ。いつだったか漢字の小テストでそんな一文が出てきた事を思い出す。文字通りこの決断が、柊吾の人生を決める。

 運動神経と体力を盾に、スポーツの世界へ身を投じるか。それとも受験して普通科へ進学し、その生活の中で他の道を模索するか。

 自分で決めなければ、いけないことだ。実力を見込まれている。だからこそ、選び取ればいい。首を縦に振ればいい。

 だが、それでも――まだ、できなかった。

 ――『人生の一部になってもいいくらいに、好き?』

 母の言葉が、胸を貫いている。貫いたまま、抜けないでいる。母の言葉はいつもそうだ。柊吾の身体を刺し貫いて、そして我に返らせる。痛みはなく、ただ元に戻されてしまう。去年の揉み合いの時と同じなのだ。学校でしか学べないものを説いた母の声には、行動を振り返らせて、意識を立ち返らせる何かがあった。

 柊吾は、唇を固く引き結んで、自分が一体どんな表情で母を見下ろしているのかも分からないまま、母の視線を受け止めた。

 そんな息子の姿を、母はしばらくの間痛ましそうに見上げていたが――やがて泣き笑いのような顔になった。

「ごめんなさい。柊吾。忘れてね。……でも、できるだけ相談して欲しい。無理には、訊かないから。お願い」

「ああ。……分かった」

 肩の力が、ふっと緩んだ。日傘を持ってない方の手で短い髪をいじりながら、ぽつりと、付け足すように柊吾は言う。

「……ごめん。これからは、ちゃんと話す」

「あら。本当に、恭嗣義兄さんの言う通りね。素直になっちゃって」

 母は少しだけからかうような口調で言うと、柊吾に優しく笑いかけた。無邪気な笑みを見ていると、少し照れてくる。母親と相合傘をしているという状況も相まって、急に居心地が悪くなってしまった。

「母さん。身体、辛くない?」

「辛くないわ。柊吾がいるもの」

 気遣うつもりで言葉をかけたら、余計に恥ずかしい事態になった。柊吾は視線を母から逸らし、「帰ろうぜ」と声を掛けた。ゆっくり歩き始めた柊吾に合わせて、母も日傘の影を追った。

 こうして、母子二人でいつものように、家に帰り着くのだと思っていた。

 母が――弾んだ声で、次の台詞を告げるまでは。


「あら、柊吾。あの子、撫子ちゃんよね?」


 肩が強張り、日傘を握る手に力がこもった。足元の影も、柊吾の動揺を映し取って、痙攣するように揺れ動く。

 ナデシコ――撫子。

 す、と血の気が下がっていく感覚を生々しく感じながら、柊吾は顔を上げて前を見た。――いない。だが、首を傾けるのが怖い。そうやって探してしまう行為の全てを、本能が全力で恐れていた。しかし内心の警句とは裏腹に、柊吾の目は母の視線を辿り始めていた。それを、自分で止められなかった。

 そして、柊吾も見つけてしまった。

 あと数メートル歩いた先の、横断歩道前。駅舎に併設された大型の駐車場方面へ歩いていく――もう一組の、母子の姿を。

 子供の方は、中学の制服姿だった。青と白のチェック柄のスカートは、柊吾のズボンと同じ柄だ。白い半袖ブラウスの襟に留められたリボンタイの中央では、金色のボタンが光っている。肩につくかつかないかといった長さの栗色の髪は、兎の耳のようなハーフアップツインに結われていた。黒い通学鞄は、きつく抱きしめられて皺になっている。

 それはまるで、悪夢を恐れた幼女が大きなぬいぐるみを力いっぱい抱きしめる様を彷彿とさせた。小刻みに震える少女の肩を、抱き寄せるように覆う女性にも、柊吾は見覚えがあった。

「ほら、やっぱり。小学校の、二年生と五年生以来かしら。久しぶりね。あ、柊吾は今も同じクラスだから、毎日会って」

「母さん」

 楽しげに喋る母を、柊吾は遮った。母が、驚いたように息を呑む。

「柊吾……?」

「ごめん。でも、あいつの事は、ほっといてやってくれ」

「え?」

「挨拶とか、ごめん。しないであげてくれ。頼む」

 柊吾は、進路を変えて歩き出す。このまま進めば、信号前で鉢合わせてしまう。多少遠回りをしても、この道は使わない方がいい。いや、使ってはいけない。

「柊吾」

 母が、静かな調子の声で呼ぶ。柊吾は無言で母の腕を掴むと、日傘を差し掛けながら歩き続けた。

「柊吾。……撫子ちゃん。泣いているわ」

「……」

「撫子ちゃん。怯えているように見えるわ。……撫子ちゃん、どうしたの」

「……」

 何も、答えられない。ただ、己がどうしようもなく不甲斐なく、腹立たしいだけだった。この現実について考える度、絶望のふちに立たされる。そんな暗澹あんたんとした悲愴さを、受け入れられるだけの余裕はなかった。説明するだけで、心が削れる。そう、本気で思うのだ。

「……言いたくないわけじゃ、ないんだ」

 絞り出すような、声になった。

「でも、……何て説明したらいいか、分かんねえんだ。どう言ったらいいのか、分かんねえし……それは、雨宮の母さんも同じだと思う。……だから、ごめん。雨宮に、話しかけないでやってくれ。多分、できないから」

 後半は、滅茶苦茶を言っていた。それ以上の言葉を失くした柊吾は黙ったが、もう逃げられないとも感じていた。

 そんな柊吾の覚悟をむように、母が足を止めて、こちらを見上げた。

「……柊吾。柊吾がそう言うなら、私は撫子ちゃんに話しかけないわ」

「……」

「でも。今の話。撫子ちゃんには話しかけちゃ駄目だけど、雨宮さん……撫子ちゃんのお母さんには、話しかけてもいいっていう風に聞こえるの。……柊吾。やっぱり教えて欲しい。私は雨宮さんに会った時、あの人を傷つけるような言葉を自分が言ってしまうかもしれない事が、とても怖いの。……だって」

 一度言葉を切った母は、躊躇いを振り切るように、囁いた。

「撫子ちゃんも、泣いていたけど……お母さんも、泣いていたわ」

 アスファルトを炙る初夏の暑さをものともせずに空気を震わせた女性の声は、まるで風鈴のようだった。やはり爽やかな清涼感が、風と共に抜けていく。既視感が、身体を巡った。図書室の出来事が、それより前の出来事が、次々とフラッシュバックする。記憶の毒々しさに喘ぐように、柊吾は息を吸い込んで――

「見えてないんだ」

 言葉を、叩きつけた。

「何も、見えなくなったんだ。雨宮。……自分の両親は見えてるし、学校の先生も見えてる。陽一郎の事も、まだ、見えてる。……でも、他は全滅だ。クラスメイトも、いつもつるんでた女友達も、誰も見えてない。今も。通行人、誰も見えてないと思う。……見えてないってことにすら、本人は気づいてない」

「柊吾」

「俺の事も」

 母の白い腕が、こちらに伸びてくる。細い指が柊吾の頬に触れた時、柊吾は傘を、取り落とした。

「もう、見えてないんだ」

 からん――――。日傘の柄が、アスファルトに打ち付けられて転がった。手毬のように一度弾んだ日傘は、風を孕んでざらざらと舗道に擦られ、飛んでいく。

「見えて、ないんだ……」

 項垂れた柊吾の頬と腕を、母がそっと支えた。体格のまるで違う一人息子の頬を、華奢な手の平でそっと包んで、二人で静かに、佇み続けた。

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